二神一音についてのアレコレ
二神一音という人のことを、知っている人は少ないだろうね。あたしだってさ、この春におんなじクラスになって彼の斜め後ろの席に座ることになるまで、全く知らなかったんだからさ。
例えばさ、隣のクラスの、Y君。彼は野球部のエースで、四番で、ヒーローだ。この間の練習試合では、四打数四安打、しかも完封っていうハチメンロッピの活躍ぶりだったらしい。しかも眉目秀麗、成績優秀と来れば、騒がない女子はいませんよ。もっとも、あたしは興味なかったし、本気でホの字惚れ子さん、なんて人も、みたこたありませんがね。ラブレター、いや、現代からすりゃラブメィルってなるんですかね、出せば、意外とこれ、上手くいくんじゃないでしょうかねお客さん。試す価値は、あるかも知れねーよ。
あたし? あたしはやだよ惚れてないもん。
おっと、二神青年の話でしたね。何が言いたいかってえと、つまり、二神君はあんまり目立つような青年じゃなかったって話だね。
でも、二神一音の、あだ名というか、通り名? 通り名って、すごいな、なに時代だっつー話だけど、そういう、別名が「人食い」だっつったら、意外に思うかな。不吉な名前だもんね。でも、そうだったんだよ。
といっても、何も本当に人を取って食べるわけじゃないよ。人を食った態度。それで人食い。たちの悪い生徒がつけた名前だね。
二神一音の、何だ、言い難いな、一音の容姿を知りたいという奇特な人間も、中にはいるかもしれないね。なんというか、ヒーローってのは、いつの時代もかっこいいもんだ。かの仮面をつけたキッカーも、カップラーメンが出来上がるまでに決着をつける赤い巨人も、みんな人間の姿はかっこよかった。イケメンさんだね、お母さん方キャッホウ!
一音のことも、ま、そう思っとけばいいんじゃない? 真実ってのはいつの時代も悲しいものだけど、想像の自由ってのは、誰にでも認められる自由だからね。
あえて創造の自由を行使させてもらえば、眦のキリリと上がり、射す様な眼光の、口元は真面目に引き締まり、細身ながら鍛え上げられた肉体の、いい男だったよ。いいね、そんな男がいれば。一目で告白、いやプロポーズするね。現実はいつも悲しいね。
でも一音のために一応いっとけば、いつも真面目に、俯きかげんで、何か考えていたよ。その様は、こう、惚れ惚れしちゃうんだな。斜め後ろから見てると特にね。ロダンの考える人? あれを百倍はイケメンにした感じ。
ほんと、他の女子どもがいつあの魅力に気づかないか、いつだって冷や冷やしてたんだぜ。いや、実際惚れてた人間も、何人かいたんじゃないかなあ。
ああ、もう、またまた創造の自由を行使しちゃった感があるね。女房妬くほど、亭主もてもせず。いいじゃないさ、人間なんてしょせん、主観的にしか生きられないよ。
出来るだけ客観的な事を言うと、一音は孤独な人だったねえ。いつも一人でぼんやりしていた。話し掛けても、半分は無視で、半分は「ああ」って一言だけの応答。無視は酷いんだけど、実際のところ、微かな声で応答しているんだ、とは本人の弁解。どちらにしても、とっつきにくい。変な同級生。それが一音。人食い。
あたしだけが、一音を理解できるんだ。なんて、それがほんとなのかどうか、あたしにはわからないよ。
一音のことを一音と呼び出したきっかけはね、なんて言うと、どうも一音があたしの物になっちゃったような言い方なんだけど、残念ながら、彼はいつまでも彼のもので、あたしのものにはならなかったんだな、それはともかく、ある日一音がいきなりあたしのとこまでやってきて、「竹無さん」って呼びかけてきたんだな。竹無さん、だなんて、もう、ハリウッド俳優も顔負けの甘ったるい声で。いや、創造じゃないよ、多分。
「ああん、竹無なんて、そんな旧姓で呼ばないで。二神かすかって呼・ん・で」っていいました。うそうそ言うわけねーって。思ったけどね。言わない。そこまであたしゃ常識無しじゃないよ。だからね、こう言った。「竹無なんて、姓で呼ばれるのは嫌だ」
つっけんどんに言ってしまった。なんてことだ。嫌われてしまう。いや、それならまだしも、変な女だと思われてしまうではないか。いや、実際に変な女であることを認めることにやぶさかではない。でもこの目の前の変な男に思われるのはおもいっきしやぶさかなのですよでも変な人間同士仲良く出来るかもねああ、ああ、そんなのなんか嫌だわ。
なんて、あたしの混乱も尻目に、一音は冷静に言い放ったわ。
「じゃ、君」
君って、君はないんじゃないの。同級生に、君、だなんて。どっかのしゃっちょこばった教授、なんて感じじゃないのさ。もっとさ、姓が駄目ならあるでしょうが、ほら、ほら。
「宿題は日直に、ということなんだけど、僕はやってないんだ」
といわれて、漸く我に返った。宿題というのは、直前の化学の授業で問題集の宿題が出ていたこと、日直は大方の予想通りあたしのことだ。あたしの席の上には次々と同級生の問題集が重ねられている。全員分集まったら、本日の日直たる私が化学実験室にあるらしい化学教師の机の上まで持っていかなければならないのさ。宿題くらい、自分で集めろバカヤロー。
「やってないって」呆れの声を出したあたしは、そのとき驚愕の、いや、驚天動地の事実を発見して驚いた。ん? 二重表現しちゃったかな?
「あ、あたしもやってないじゃないか!」
昨日といえば速やかに軽やかに七時には帰宅して、和やかな団欒たるディナーを楽しんだ後、規則正しく清く正しく美しく一時にはしっかりと就寝していたのだ。宿題をぶち込む時間など、花の女学生たるあたしには残されていなかったのだ。
何たる事実! 悲哀なる真実!
もちろん決して断固として明白にそして確実に、二神追跡計画なんてものあたしは知らないし、音楽番組もお笑い番組もドラマも漫画もゲームも、そんなものあたしの辞書に載っていないほど縁のないものだ。にもかかわらず、全く宿題をやる時間がなかったのは何故だろう。人類の永遠のテーマである。
「でもさ、二神君、何故やってこなかったの?」
「僕は宿題をやったことがない」けろりと言った。否、言い放った。一音のやろう、人間の子は人間、などの明白な真理を述べるかのように、さらっと、何でもない様子で、言った。何という、神をも、いや、教師をも恐れぬ所業。一音の通った跡にはしかばねが残る。いや、残らない。ただどこからともなく聞こえてくる叱責の声が残るだけだ。
「何故?」
「それで困らない」なるほど。それも真理だ。平凡だが、正しい。一音の成績は、いつでもクラスで三指に入る。困らない、確かに。成績的には。
「でも、今、困ってるじゃない」
「宿題に掛かる時間を三十分として、怒られるのに費やす時間は五分程度だ」なんて、小憎たらしい返答。君ねえ、頭悪いねえ、そんな時間、無駄、無駄、ってかあ。
しかし一音は少し考えたあと、前言を撤回、いや、訂正した。
「と、いうのも理由だが、うん、理由の一つだが、でも、やっぱり、面倒くさい、が最大の理由だろうな。面倒くさい、が不適なら、怠惰だ、でも構わない」
変なやつだな、とは、そりゃ思ったよ。会話というより、自問自答。あたしのことなんか、まるで見ていないかのように、一人合点。あたしは怒り出すか、敬遠するか、しても良かったんだし、そうするべきだったんだし、事実、他のみんなはそうしてきた。あたしだって、次の言葉がなかったら、そうしたかもしれない。
「竹無さん」と一音は言った。確かに、竹無さん、と。
あたしを無視していたわけではない。
「謝りに行こうか」
「だからね、竹無、なんて、苗字で呼ばないで」有頂天になってたはずだけど、あたし、でも、やっぱり、そこは首肯できないんだな。細かい女だな、ってか? でも、細かい女なんだから、仕方ない。
「竹無さん、それはいけない。苗字は、大事だ」また、君、なんてケツのかゆくなりそうなこと言うのかと思ってたら、苗字は大事だ、ときた。あたし、笑っちまいそうになってね。青臭い学生が、真面目腐った顔で、苗字は大事だ、とくらあ。一体全体、現代、どんな人間が、苗字は大事だ、なんていうのか。答え、目の前の、二神一音です。
しかし、ねえ。駄目だ。もう駄目だ。最高だ。
何故? って、訊こうと思ったよ。何故、苗字が大事? たかが、家の呼称じゃないか。現代はさ、個人の時代だよ。そんなことより、もっとほら、大事なものがあるじゃない。ほら、ほら。
きっとさ、真面目腐った顔で、一音は説明してくれたはずだよ。家の呼称なんだ、大事さ。
でも、駄目だ。そんなこと、させちゃいけない。説明なんて、堕落だ。美しくない。一音は、美しい。少なくとも、あたしにとっちゃ。汚しちゃいけない。
あとで言われた事だけどさ、一音は綺麗だねって、あたしがいったら、「人に、美しさなんて、求めないほうがいいと思うけどなあ。人は、絵じゃないんだから」
「そうだね」あたしは素直に頷いた。「違うのかもしれない。一音の側にいようと思ったら、訊いちゃいけなかったんだよ、多分。判りきっていることだったからさ」
何が正しいのかなんて、いつだってあたしたちには判らない。
何故、の代わりに、あたしはこう言った。「苗字で呼ばれるのは嫌だ」
これでまだ竹無、と呼ぶようだったら、殴ってやろうと思っていた。
「判った」と一音はいった。「かすかさん、だったか」
「かすかでいい」
「それは駄目だ」
「さん、は大事だ、とでも言うつもり?」あたしが言うと、一音は戸惑ったような顔をした。「そりゃ、さんは大事だよ。三がなけりゃ、一たす一たす一も一たす二も四引く一も出来なくなっちまう」
「判ったよ」
「笑うとこなんだけどな。お笑いは嫌い?」
「笑えない体質だ」一音が言った。
あたしは一音を笑わせることを生涯の目標にしようと思った。
「行きましょうか、二神君」
「それは、フェアじゃないな」
「でも、だって、あの」言うべきか言うまいか、暫時、私は迷った。いいや、言ってしまえ。「女の子みたいじゃない、一音、なんて」
放埓に一音は笑った。もう生涯の目標がなくなってしまったじゃないか、畜生。
そんなこんなあんなどんな、とにかくあたしゃ一音を一音、と呼ぶ権利を得た。どころか、あたしのことを名前で呼ばせる権利すら得た。あたしゃもう死んでもいい。嘘だ。でもさ、名前で呼び合える仲って、素敵じゃない? お前、あなた、なんて、あたしゃ嫌いだよ。かすか、一音、ああ、もう。
でも、もしもそんな感じであたしと一音の仲が進行していったのだと思う人がいれば、それは真っ赤な間違いだ。そんなことは毛筋ほども起こらなかった。時あたかも春真っ盛り、季節はどうでもいいんだけど、風紀紊乱著しいサッコンの若者たちは、なんて、風紀紊乱は昨今始まったことじゃねーし若者たちの専売特許でもねーんだけど、とにかく、あたしの周りの富士山の上でおにぎりを食べられるくらいいる友人たちは、みんな、あなた、お前、の甘酸っぱくも甘ったるくて胸焼けがする一種のやらしい感じのエトセトラにお顔真っ赤っ赤、みたいな、そんな感じなのに、あたしと一音の間には何もなかったんだな。
といって、あたしだって、手をこまねいていたわけではありゃしませんのさ。期末テストも近づいて教師生徒ともにがやがやしていたある日、あたしは一意専心、勇気を振り絞って一音に言った。
「一音、大好きだよ」なんて、駄目だね、言えるわけないっつーの。
「一音は普段、どんな勉強をしているの?」素晴らしいね。あたしにしてみれば、満点の話題だよ。へえ、そうなんだ、あたしって、勉強苦手でさ、良かったら、二神君、教えてくれないかな? オーケイ、これで普段女っ気のない冴えない男子学生のハートはわしづかみに出来るはずだ。
ってまあ、一音がそんな一筋縄で行くわけはないのだ。
「勉強は、してない」
「し、してない?」
「うん、してない」
何たる放言。人類に神はいない。否、信じられるものか。これは罠だ。罠に決まっている。目の下に隈つけた生徒の、やべえなあたし勉強してねーや。あれだ。一緒に二人で地獄を見ようね、そんな言葉ほど信じられないものはない。
「証拠は?」
「何の?」
「証拠を見せてもらわなきゃ、信用できない」何を言ってるんだろうあたしは。
「証拠は、そうだな、期末の僕の点を見れば判るよ」
「一音が成績いいのは知ってるよ。でも、勉強してない証拠にはならない」
「うん、その通りだ。でも、それを知ることに、大した価値はないよ。要はかすかが信じるかどうかだ」
証拠になる方法が一つだけあるよ。あたしをずっとあなたの側にいさせて。
言ってみれば、よかったかな。
言ってみた、ようなもんなんだけどな。
「じゃ、勉強教えて」
「ん?」
「いいでしょ、そのくらい。その無駄に明晰な頭脳を、少しは恵まれない女の子に還元してくれたって罰は当たらないわよ」あたしはにっこりと微笑んでいた。
ってなわけで、その日の放課後から、一音はあたしに勉強を教えてくれた。つっても、そんな睦まじい感じにはなるわけもなくて、毎日図書館に行っては、問題集。教わってみて判ったことだけど、一音は教えるほうの才能はない。解き方を教えてくれるでもなし、質問したところで、一人合点に解いちゃって、あたしのほうはちんぷんかんぷん。
それでよかったけどね。
おかげさまで期末の結果はほとんど変わらなかったけど、一音がわざわざ時間を割いて教えてくれたんだから、その事実は確かにあったから、嬉しかったなあ。
そうそう、一度ね、一応、訊いておいたんだ。
「一音は、彼女とか、好きな人とか、いるの?」
だって一音に、あたし以外で、そういう人がいれば、やっぱそれは、駄目じゃん。悪いじゃん。身を引くってつもりはなかったけど、それは、ちゃんと知っとかなきゃっていう、そういう思いがあったんだよ。
「いない」
「そっか。だと思った」
というわけで、何の問題もなかったのです。
期末が終わって、楽しい楽しい長期休暇までの少しの期間、ちょっとした事件が起こった。盗難事件。学校で、盗難事件なんて、あんた、教科書盗むやつなんていないし、盗まれたら盗まれたで、勉強しなくていいやよっしゃあ、じゃあないのかい? って思う人もあるかも知れないけど、おあいにくさま、ななななんと現金三万円を巡る、それはそれは大した大事件だったのでした。
事の発端は、体育前の休み時間。授業が終わり、男子は着替えるために隣の教室に向かう。残った女子学生の、あるグループの会話。
あたし、今日新しいデジカメ買うんだ。
マジで? どんなの? 高い?
ん、そうだなあ、三万円。今日買おうと思って、ちゃんと、ここに持ってきてるんだぜえ。と、通学バッグを叩く。
こんな会話をしてしまったら、ことの展開は火を見るよりも明らかってやつですよね。案の定、午後の体育の後、彼女の財布が紛失しました。
そしてそしてそして、なんと、竹無かすか、なにを隠そうこのあたし、が容疑者となってしまったのです。
何故って、教室を最後に出た、つまり鍵係りがあたしだったんだよね。なんという不運。
さらに、大金を持ってくるような豪胆なお方といえば、いつの時代もアウトローと相場は決まっているのです。あたしを追及する財布をなくした彼女、不動明王もかくやという眼光であたしを睨んでいるのです。
言っておくけど、断じてこれは冤罪で、あたしはそんな、犯罪に手を染めるようなことはやっていない。
「違うよ。あたしは、みんなと一緒にトイレに行ってから、体育にいったもん」これは事実だけど、でも悪いことに、鍵を閉めていないことを思い出して、あたしは一人教室に戻ったのです。
助けてマイダーリン、と一音をみれば、なんと、未来のハニーを尻目に女子生徒をナンパ、もとい楽しげに談笑しているではありませんか。思いがけなくクラスの奇人に話し掛けられている彼女、心なしか目がとろんとしているように見えなくもないではありませんか。そんな! あたしたちの楽しい時間は終わってしまったのね!
「一音!」思いがけなく、あたしは叫んでしまいました。
そんなあたしの様子にはおかまいなしに、一音はとことこやってきて、あたしに言った。「確認するけど、かすかはやってないね」
なんてこと! 心の伴侶となるべき相手を疑うなんて!
「そんなの、当たり前」
「だろうね。だから、確認。一応、かすかも可能だからね。でも、信じるよ」
一音! やっぱりあたしの王子様!
「でも、一音一人信じてくれても、どうしようもないな」
「真犯人を見つければいい。でも、おおごとになるのは嫌だなあ」
「そんなこと言ってる場合じゃないよ。このままじゃ、あたしが犯人になっちまう」
「うん、ちょっと行って、犯人と話つけてくるよ」
「ちょっと待った、一音、犯人が判っているの?」
「単独犯だったとすれば、だけど」
「どうして?」
「他に出来る人がいないからさ。犯行は、教室で一人になる時間がなければ出来ない。授業が終わって、男子が外に出る。着替え終わった順に、女子も外に出て行く。今訊いて回ったんだけど、体育のとき、最後に教室を出た生徒が、あそこにいる彼女たち。戻ってくるかすかとすれ違ったそうだから、その一瞬のちに君が戻ってくる。一瞬だから、他クラスの人間が入ってくるってこともないだろうさ」
「でも、それだと、結局あたししかできないってことになるんじゃない?」
「もう一人、教室に残っていた人がいるだろう。かすかもすれ違っているだろうし、他のみんなの中にも、言い出しづらいだけで、判っている人もいるんじゃないのかな?」
すれ違った人? 一体誰だろう。そんな人、いただろうか。
考えている間に、一音は教室を出て行ってしまった。
それに気づいた財布をなくした彼女が、呼び止める。おい二神、何勝手に出て行こうとしてんだ!
一音は振り返る。無言。頭を掻く。死んだような瞳。
人食い。ぷいと振り向くと、さっさと行ってしまった。不良っ娘も人食いだけはいかんともしがたい。
緊張感がクラス内を包み、とうとうあたしは、身体検査をされることになってしまった。公衆の面前で、あたしの鞄の中身を検められるなんて。
って、まずい。隠し撮りした一音の写真が鞄の中に!
と、気持ち悪い汗を背中にかいた瞬間、ちょっと、と、背後から間延びした声。見れば教室の入り口に数学の先生が派手な財布を掲げて立っていた。
これ、落し物として届けられてたんだけどね、聞いたところによると、このクラスで、財布の紛失騒ぎがあるらしいんだけど。
先生の声が終わる前に、あたしを追及していた不良さんは財布を引っ手繰るようにもぎ取り、中身を確認した。
君の? 中身、ちゃんとある? 駄目だよ、大金学校に持ってきちゃ。
先生の説教を尻目に、不良さんはさっさと帰ってしまい、クラス内の緊張も一気に解け、これにて一件落着となったのであります。
落着はしたけど、あたしにとっちゃ、そりゃ落ち着かないよね。盗難の容疑掛けられて、実は落し物でした、なんてさ。
いつの間にか一音が教室に戻ってきていたので、あたしは訊ねた。
「一音、犯人と話してくるって言ってたよね。あれは、何? 実は落し物でした、なんて、どういうこと? 先生に騒ぎを教えたのは、一音?」
「おおごとになるのは嫌だからさ、人に言いたくないけど、かすかは疑いまでかけられたんだから、いいか」
誰にも言うなよ、と言ってから、一音は言った。
「犯人は、先生だよ」
ここまで言われて、あたしも漸く気がついた。授業が終わったとき教室にいるのは、生徒と、先生。体育の直前の授業は、数学だ。あの時、教室の中には、先生も残っていたのだ。
「そっか、先生には、どうしても、疑いが向きづらくなるからなあ。でも、ひどいや」
「うん、でも、多分、出来心だったんだよ」
「肩持たないでよ。おかげであたしは犯人にされちゃうところだったんだ」
「でも、すぐ説得に応じてくれた。犯人探しなんて、つまらないことだよ。よかったな、身体検査されずに済んで」
頭なでなでしてくれるかと思ったら、一音、ふいと振り向いてさっさと帰ってしまっていた。あたしはすぐに追いついて並んだ。
「人食いなんて、ひどいや」あたしはポツリと呟いた。「だって、一音は、こんなにも優しいのに。ひどいや、そんなあだ名」
「人食い?」
「知らないの」やべ、やぶへびだったかな。といっても仕方がないので、あたしはきちんと説明した。
「口の悪い人がね、一音のこと、人食いって呼んでるんだ」
「人食いか」
「ね、そんなの、ひどい名前だよね」
「俺なんて、確かに人食いだ」言うと、一音はさっさと早足で帰ってしまった。
長期休暇に入り、一音の顔を見られなくなることがどうしても耐えられないあたしは、何かいい案はないかと毎日悶々としていたのですが、何も思いつかず、しかし、思いがけず、幸運は向こうから舞い込んだのでした。
「頼みがある」と、一音は言った。
「いいよ」あたしは答えた。
「あのね、そういうのは、よくないよ。ちゃんと、何を頼むのかを訊いてから、請けないと。僕みたいなのが、何を頼むんだか、知れたものじゃないんだから」
「だってさ、一音の頼みなら、なんだって聞いてあげるもの」
「どんな頼みでも?」
「そう、うん、例えば、そうだね、一緒に死んでくれっていわれても」冗談めかしてだけどね。多分、うん、本気だったな、あたし。
「命を、簡単に捨てちゃいけない」
「そんなことは知ってるよ」
一音は多分呆れてたんだけど、やがて言った。
「あのね、僕は休みになったら一度帰省しようと思ってるんだけど、かすかも、その、一緒に来てくれないか?」
「まあ!」驚きのあまりあたしは声を上げていた。「まあまあまあまあまあまあまあ!!!」
「うん、まあ、かなり図々しい頼みだとは思うけど」
「えっと、あの」なんというか、色々考えることがありすぎて、あたしはちょっと混乱してたんだな。
帰省って何? 一音ってば、実家から離れて暮らしていたの?
一緒に来てくれ? 実家に? それって何、ご、ご挨拶ってこと?
ええ、あたしたち、えっと、もうそんな関係になってたんだっけ?
違う。つまりこれって、
プロポーズ?!
ああ、もう、そんな、一音も、つまり、その、あたしのこと、そんな風に思ってたことなのね!
いいわ、二人の思いは一緒よ!
なんて、有頂天で考えながら、あたしの冷静な部分は、きっちり冷静なことを考えていた。よく考えなさい、かすか。そんなこと、あるわけない。ちゃんと、詳しい話を聞きなさい。
でも、詳しい話なんて、後でいいや。
「はい。判りました」とあたしは答えた。
「あのね」
何かいいたげな一音をあたしは手で制した。
「判ってるよ。ちゃんと詳細を訊いてから返事をしなさいって言いたいんでしょう。でもさ、いいんだよ。これでいいんだよ。はい、あたしは請けたよ。請けました。あとは、ちゃんと、話しておくれ」
一音曰く、実家に帰るわけではない、故郷で見ておきたい場所がある、一人で行くのは怖い、ということだ。わけがわからぬ。
「せめて、実家を離れてる理由くらい、教えてくれない?」
「家族から離れていたかったからさ」
「そんなもん、誰だって同じだよ」
「そう、僕はそれを実行できた数少ない人間のうちの一人なんだね」
真理ではあるが違和感の残る言葉ではあるが異論を挟む余地のないためあたしは黙った。
で、終業式。
次の日にあたしたちは連れ立って特急に乗り込んだ。
特急に揺られること約三時間。って、ほんと遠いな。神様、我らが島にもどうか新幹線を! 無駄無駄言ってないで、ほら、便利なんだからさあ。新幹線なら、一時間もあればいい行程だよ。無理か。無駄か。
あたしたちは一音の故郷につきました。
初めて見るその駅内は薄暗く、よく見れば壁面は剥げ、かつ汚れていて、胸糞悪くなる空気は電車の排気ガスのせいか、瀬戸の花嫁をBGMに向こうのホームの電車が出発し、あたしたちは改札を通り抜けて外に出た。自動改札が備えられているにもかかわらず、駅員さんが立って切符を回収していたのは何故なんだろう。
田舎といえばいえたけど、あたしたちの街よりは実のところ大きい。
「で、どこ行く?」
一音を振り返れば、彼は少し懐かしげに手を庇にして駅前を眺めていた。彼のような人間でも、故郷は懐かしいのかもしれない。
市電に乗って三十分弱。あたしたちは海に面した寂れた駅に降り立った。悲しいくらいに寂れたホームなんだよね。もう役目は終えました、バイバイ、ってな感じ。もうちょっと、金使ってあげてもいいじゃないのさ、なんて、関係ない人間だけが言える批判。
一音はスタスタと海のほうに歩いていく。あたしも付いていく。
海は誰もいない。浜辺はやけにごみごみしていて汚い。こんな海、誰が来るのか、といえば、夏は結構繁盛するんだそうだ。うっそだー。
一音は波打ち際に立つと、海を見ていた。青春? 黄昏? 水際の青年にうっとりしても良かったんだけど、寒かったし、話を聞きたかったので、さっさと一音の側に寄りました。妻位置ゲット。
「どんな話?」
一音は海の向こうを指差した。
「僕には弟がいたんだ」
過去形であることを耳ざとく見つけたけれど、あたしは何にも言わなかった。
「中学生のころの、夏休み、僕と弟は、この海に、遊びに来ていたんだ。弟はおとなしいやつだったけど、泳ぎは上手くて、夏になると毎年、海やらプールやら、僕は狩りだされていた。
弟は僕と違って成績優秀で、親とか、先生とかに、将来を嘱望されている人間だった。少し暗いところがあったけど、真面目で、誰にでも優しくて、いいやつだった。
あの日は曇りがちで、僕は渋ったんだけど、弟がどうしても泳ぎたがったから、僕たちは海に出かけた。弟は泳ぐのが好きで、グングン上達していたころで、あのころは毎日泳ぎに出かけていたんだ。
案の定、ここにつくころには雨が降り始めていて、遊泳客もあまりいなかった。弟はむしろ、人ごみを嫌うたちだったから、喜んでいたな。
僕と弟は水着に着替えて海に入った。雨雲を映して、どんよりと薄黒い水で、水温もびっくりするくらい低かった。でも、僕も弟も慣れたものだから、時間が経てば平気さ、なんて、気にもせず泳いでいた。
それから夕方になるまで泳ぎ続けて、雨はいよいよ強く、気づけば海には僕たちだけになっていた。僕は疲れていたし、そろそろ帰ろうか、と弟に言った。弟はまだまだ元気いっぱいで、兄ちゃん、情けないな、なんて、軽口叩いていた。
最後にずっと向こうのほうまで泳ぐことになった。
弟の泳ぎは僕なんかよりずっと早く、かなり差がついてしまうことになった。僕は勝てるはずもなかったから、のんびりと泳いでいた。
ふと、前のほうがおかしいことに気づいた。
いつの間にか、前を泳いでいたはずの弟が、見えなくなっていた。もうずっと先のほうに行ってしまったのかとも思ったけれど、そろそろUターンしなくてはならない場所だった。とすれば後方にいるのかとも思ったけれど、そっちにもいない。僕は半分パニックになりながら、海にもぐって周りを探した。
もがき苦しんでいる弟を見つけた。あいつは溺れてしまったんだ。
急いで助けようとしたけれど、上手くいかなかった。あいつはもうむちゃくちゃにもがいていて、ともすれば僕も溺れてしまいそうになるし、だから迷ったけど、一旦陸に上がって、助けを呼ぶことにした。
陸のほうまで泳いでいくのにも時間がかかったし、人を探すのも時間がかかった。
結局弟を引き上げたときには、弟はもう息を引き取っていた」
一音は静かに、激することもなく、話を終えた。あたしは意外なことに一音も挟まず話を聞いていた。よくもまあ、何も言わなかったもんだ。褒めてあげたい。
何か言おうとしたけれど、やめた。何を言っても意味がないだろうと、思った。ジュースでも買ってきて飲もうかとも思ったけれど、空気を読んでそれもやめた。手持ち無沙汰だった。仕方がないのであたしは手を合わせた。
「僕のせいではない、と思う?」
「何が?」
「弟の死」
「一音は、そう思ってないんでしょう」
「そう。理論的には、僕のせいではない。僕が彼を溺れさせたわけではないし、多分、完璧とは行かないまでも、悪くない対応をしたと思う。でも、そうしたもんじゃないよね。僕は今でも、弟を見捨てて、陸へ引き返したときのことが、忘れられない。人食いとは、よく言ったもんだ」
「忘れられないんなら、忘れなければいいんだよ。忘れる必要なんてない。苦しんじゃいけないなんていう法はない。他人事みたいな言い方だけど、実際に他人事だからね。どうしても苦しいんなら、例えば耐えられなくなって自殺しちゃうっていうんなら、それは問題だけど、そうでないなら、それはもう、仕方のないことだよ」
「ありがとう、手を合わせてくれて」一音は両手を合わせて、黙祷した。
「花くらい、持ってきた方が良かったんじゃない?」
「弟は、花なんか好きじゃなかったよ」一音は首を振った。「あいつが好きだったのは文学全集で、火葬のときに半分入れてやって、後の半分は海に放りこんでおいた。だからこれ以上は必要ない。そもそも死んだ人間にしてやれることなんて何もないからね。今日は、僕のために来た」
「手を合わせ?」
「それと、かすかに、弟の話をするために。なんとなく、きっと、かすかは、許してはくれないだろうと思っていた」一音はあたしを見た。「信じてよかった」
許されたいのではないのだ。
「ねえ、一音、一つ訊いていい?」訊くかどうか迷ったが、あたしは訊くことにした。一応、訊いておかなければ締りが悪い。
「いいよ」
「今までの話って、本当? 本当のこと?」
「うん、そりゃ、かすかに話すためにこしらえた、嘘っぱち」
「嘘つく必要なんてないのに」
一音は言った。「それもそうだ」
結局その日はそれだけで帰り、つまり往復六時間をたったそれだけのイベントのために費やし、あたしたちは電車疲れでくたくたになりながら家に帰った。
一音の実家にいって三つ指ターイム、も当たり前のように起らなかったし、うれしはずかしドッキドキの一泊イベント、も風のように起らなかった。
予想はしていたけどさ。
期待はしていたのにさ。
でも、帰りの電車の中で、予想外のハプニングが起った。
「さすがに、今日は迷惑をかけたね。何かお礼をしなくちゃならないと思うんだけど」
「まあ!」
お礼だなんて! いいの、あたしは一音の役に立てれば。無償の献身、それが愛ってやつじゃないのさ。って、言わない言わない。こんな至上のチャンス、逃してなるものか。しなくちゃならない、って、義務感たっぷりなところが気になるところだけど、それは、一音が恥ずかしがったってことにしとこうか。
とにかく、何か気の利いたお願いをしなくてはならない。何かないか何か。脳みそよ回転しろ。一瞬で最高の答えを出せ。
付き合って。
結婚して。
君の事もっと教えて。
誰のものにもならないで。
手を握って。
毎日一緒に登校して。
お金頂戴。
宿題やって。
もっと笑って。
ずっと側にいさせて。
「駄目。時間切れ」
「え、えええ!」
「考えすぎだな。もっと楽に生きなきゃ、しんどいよ」
「そんなこと、一音に言われる筋合いはないよ」
「僕はこれでも、いろんなことを考えてないよ」
「それ、もしかしてギャグのつもり?」
あたしが笑うと、一音は不機嫌そうに黙った。
「いいわ。じゃ、お願い事。いいでしょ、ラストチャンス。あのね、あたしとデートして」
あたしにとっちゃ、それで充分。
デートはしたよ。動物園。やだなあなんだねその顔は。小学生がニヤニヤするようなことは何もなかったよ。手だって握らないんだぜあのやろう。
いいのさ。あたしはその時、確かに幸せ。それでいいのさ。
次の学期が始まったとき、二神一音はいなくなっていた。あたしの前から姿を消した、って言ってもいいけど、なんか、その表現、やなんだな。一音は誰の前からもいなくなったんだし、一音はきっと、あたしだけの前からいなくなろうと思ったわけじゃないから。判んないけどね。
無断欠席、家に電話、出ず、実家に電話、教師、家へ、誰もいず。
以上、二神一音の失踪発覚。
「二神君が失踪しました」と教師が言った瞬間のあたしの気持ちを、事細かにここに書き記してもいいのだけど、暗くなって、いけないね。まあ、なんてことかしら、私の王子様、あなたの姫を置いて、今何処。それだけ記しておくとしようじゃないかね。
漸く立ち直ったその日、一音の住所を教えてもらいに、教師のところへ向かった。なんだかどうしようもなく、一音の生活を知りたくなったのだ。でも、教師はあたしの顔を見るなり言った。
「竹無、お前、二神と親しかったか?」
全く、未来の嫁に向かってなんてことをいうのかね。
「それはもう、あたしと一音の睦まじさは、世界中の恋人たちがうらやみ、世界中の夫婦たちが嫉妬します」
お前、とつぶやいたきり、教師は絶句した。あたしは多分、あまり冷静じゃなかった。一体何を言いたいのさ、あんた。いいから、一音の住所を教えなさい。
何かを振り払うように教師は首を振ると、あたしに言った。
「実はな、二神のご両親が、二神と親しかった人と話がしたいと、言ってるんだ。離れて暮らしてた息子のこと、知りたいんだろうな。でも、正直、あいつ誰と仲良かったのか、俺にはわからん。竹無、今のお前じゃどうかと思うが、やってくれんか?」
ご両親! まだ見ぬ未来のお父様お母様! 嫁です、嫁です、未来の嫁にございます。
是非もない事なので二つ返事で請けて、あたしの希望で一音のアパートで会うことになった。
初めて見たご両親は、お父様は偉丈夫、お母様は美人で、この両親からならあの珠のような息子もしかり、というような外貌だったが、あたしの言うことは全て的を射ているのだから、信じてもらわなければいけない。
あたしは知っている限り一音のことを語り、ご両親も一音のことを語ってくれた。
「どこか、一音の行くようなところを知りませんか」
「判りません。こういってはなんですが、二神君は、人と親しくすることはなかったと思います。もちろん、あたしのところにも来ていません。親戚とか、中学までの友達とか、全部当たってみましたか?」
ご両親は肯った。
これで全ての選択肢は断たれた、と思った。可能性は、何かの犯罪に巻き込まれたか、自分からどっか誰も知らない場所に行ってしまったか、のどちらかしか残っていない。
どちらでも、変わりはない。
どちらにせよ、あたしにとって絶望であることに変わりない。
ご両親立会いの下、姫は王子の部屋を訪れた。
そこには記すべきものは何もなかった。本当に、何もなかった。
例えば、テレビも。
椅子も。
机も。
漫画も。
ぬいぐるみも。
パソコンも。
CDプレイヤーも。
およそ娯楽と呼べるようなものは何一つ存在しなかった。
全部持って行ったのかな。そうであれば、どれだけいいだろう。
理解できない。
でも理解しなくてはならない。
一音はこの部屋で、何もないこの部屋で、毎日暮らしていた。それが暮らしと呼べるものかどうか判らないとしても、確かにここで暮らしていた。
何を考えて?
そんなこと、判らない。
判るわけもない。
ふと思って、あたしはご両親にお願いをした。
「アルバム、見せてくれませんか? 一音の写真。一音がどんな風に大きくなったのか、見たいんです」
ご両親は快諾してくれて、後日見せてくれた。一音が赤ん坊のころから、つい先ごろまでの写真が、丁寧にまとめられている。あたしは熱心にそれらを眺めた。
昔から、あまり格好良くはなかったんだな。こんな時期から出会えていたら、もっと素敵な人生だったんだけどな。
家族写真には四人写っていた。弟がいたというのは本当らしい。兄弟はよく似ていた。一見しただけでは間違えそうな二人だが、少し暗い印象を受ける弟さんは、髪が長く、一音は短いため、間違えることはありえない。
「昔は、一音、明るかったみたいですね」あたしが今見ている写真では、少し若い一音が満面の笑みでダブルピースを決めている。
弟が死んでから、一音は変わった、とご両親はおっしゃった。事故がショックだったんだろう、と。
どれか一枚所望しようと思って、やめた。夫の顔は、妻の心の中にちゃんと焼きついているのだ。
何日か経って、手紙が届いた。差出人不明。着払い。あのやろう。
大方の予想通り、一音からだ。
親愛なるかすか様へ
この手紙がかすかに届くころには、僕は多分いなくなっているだろう。犯罪に巻き込まれたわけではないからご安心を。と、書くのは、というよりも、こんな手紙を書くのは、多分かすかは、僕がいなくなって心配する唯一の人間なんじゃないかと思うからです。
短い間でしたが、お世話になりました。本当は誰とも接さずに生きていくつもりだったのだけど、かすかは、なぜだか知らないけれど、僕に話しかけてくれましたね。君は多分とても優しいのだろうと思う。かすかの笑顔を見るのは楽しかった。とても綺麗なものに触れているようで、すごく、うれしい時間を過ごさせてもらいました。
もしかしたらかすかは、なぜ僕がいなくなったのか、判らないで困っているのかも知れない。できればそれに答えてあげたいのだけれど、それはできない。
というのは、僕自身、よく判らないからなのです。人間、そういうものです。
というわけで、この手紙では、別の話をしようと思います。
僕の弟の話は、少ししました。でも、あの時言わなかったことがあります。
僕は弟のことを憎んでいました。彼が勉強も運動も良くでき、両親の愛情を一身に受けていたからです。勉強でも運動でも、僕はいつも劣等感の中にいました。僕はいつでも卑屈で、卑怯で、卑小な、嫌な人間でした。自分が大嫌いで、同時に、弟のことも大嫌いでした。かといって、何の罪もない弟を邪険にするわけにはいけません。僕は表面弟に普通に接しながら、時々本当に愛情を感じることもあり、しかし絶望するほどの怒りを感じたり、内面は色々でした。こういうのは、結構疲れます。
僕はつまり、よくある懊悩を、弟に対して感じていたわけなんですね。
こういうのは、本当によくあることで、何も僕が特別だとは思いません。わざわざこんな懺悔をしているところを見れば、僕はよほど弱い人間なのだと、少し自己嫌悪も感じます。まあいいじゃないか。かすかはきっと聞いてくれる。と思い、続けます。
何が問題かというと、弟が死んだあの日、僕は弟を殺すことができた、ということなのです。雨の日の遠泳、事故に見せかけて弟を殺すには、おあつらえ向きの状況でした。
あの日、沖に向かって泳ぎながら、僕は確かにそんなことを考えたと思います。弟を殺すことができる。しかも、この状況なら、絶対にばれない。完全犯罪だ。
それから、どうなったか。僕はよく覚えていない。覚えているのは、弟がもがいている場面と、見捨てて陸へ向かう僕。その間に僕が何かしなかったか、なんて、絶対に言い切れないんだ。
事故のあと、僕はよくそんなことを考えていました。
でも、あるとき、ふと、こう思いました。弟も、僕を憎んでいたな。
多分前に言ったと思うけど、弟は暗い人間だった。人づきあいが苦手なたちで、友達と呼べる人間は、あまりいなかったんじゃないかと思う。僕もそれ、得意なほうじゃないんだけど、弟よりは、明るかった。多分ね、弟は、その点を嫉妬していた。他のものはみんな、あいつが持っている癖にね。
そう思うと、なんだか、さらによく判らなくなってしまいました。僕と弟はよく似ています。かすかは判らないだろうけど、本当に、髪型を同じにして並んでみれば、判らないくらい、よく似ているんです。顔も、それに体格も。双子じゃないんだけど、やっぱり、遺伝子が近いからかな。
弟の方が、泳ぎは上手かった。そして、弟も兄も、殺すことのできる状況にあった。
事実は、一人が事故で死んで、一人が生き残った。それだけ。
ねえかすか、僕には判らなくなってしまったんだ。
一体僕は誰なのかな。
僕は両親からも友人たちからも逃げ出すために、無理言って県外の高校に進学しました。
そんで、かすかに会った。そう考えれば、県外に出たのはよかったかな、と思います。君に会えたのは、本当によかったと思っている。なんて、リップサービスなんだけどね。
何故どこかへ行くのか、さっきも言ったようによく判らない。逃げ出したいのかもしれない。何から? それも不明だ。
着の身着のままで行きます。残していくものは、全てあげるよ、って、残すものって、何もないんだけどさ。この手紙は、出発したあと、気が向いたところで出します。消印なんて見たって、しょうがないよ。多分、もう、そんなところにはいないから。
かすかに命令したくないから、探すなとは言わないけれど、探さないほうがいいだろうとは思う。こんな男、探したって何になる。
最後に、書こうか書くまいか迷ったけれど、やっぱり書こう。
ありがとう。さようなら。
元気でいなさい。幸せになれ。
では失敬。
できれば、記憶してほしいんだ。この世に二神一音と言う人間がいたことを。確かにこの世に存在して、あたしに愛されて、ええと、あたしを愛しは、しなかったのか! ああ、もう、なんてこと!
あのね、あたし、探さないほうがましだって言われたから、探さないんだ。けどね、待ってる。ずっと、ずっと、いつまでも、あたしが成長して大人になって、おばあちゃんになっても、もしかしたら大往生遂げたあとだって、ずっと待ってる。待つな、とも、待たない方がいい、とも書いてないんだもんね。ざまみやがれ。
だからね、もしどこかで二神一音に会ったなら、ああこいつかと、眺めてくれれば、ありがたい。
それでさらに、図々しいお願いなんだけどさ、もしも、もしも気が向いたなら、あたしがずっと待っているってこと、竹無かすかは二神一音をずっと待っているのだということを、伝えてくれれば、幸いなのです。
どうぞよろしく。




