世界の姿、秘密の花園
案内されたのは三階の、ちょうど渡り廊下の中央辺りの扉の前だった。レイラが扉を開けて、イオリを中に引き入れる。
「ちょうどよさげな寝室だな、広すぎず、狭すぎず。俺みたいな庶民にはちょうどいいや」
「ここはずっと空室だったの。イオリが住人第一号ね」
「ほほう、そりゃ光栄」
レイラはその寝室の端に置かれている書き物をするためのデスクの上に、書斎から取ってきた世界地図を広げてみせた。イオリが早速それを覗き込む。
「世界には色んな危険地帯があるから、測量士が容易に立ち入れない範囲はまだ空白なの。もしイオリの故郷が空白地帯に位置しているなら、残念だけど参考にはならないかも」
「……いや、持ってきてくれて助かった。これではっきりした、……しちまったよ」
その世界地図はイオリの知るものではなかった。空白地帯のことではない。空白地帯といっても一部であり、たとえ「異国の文字」が読めなかったとしても、だいたいの大陸の配置は読み取ることができた。それによれば世界は7つの大陸に分かれており、その大陸のどれもが見たことのない形状であった。
それはイオリにとって、ここが異世界であると確信するための決定的な証拠になった。
「うがぁああぁあっっ!」
イオリは後悔の念を込めた奇声を上げながらベッドに体をダイブさせた。そこから頭を抱えて身をよじらせ、ベッドの上でのたうち回る。
「イオリ!? どうかしたの?」
「ぜんぜん違う世界に来ちまったぁあああああ! どうすんだよこれっ、誰の仕業だちくしょぉぉおおお! せめて「異世界のんびりスローライフ」とかであってくれぇええええ!」
「イオリ! 落ち着いて!」
「――はうっ……」
心配になったレイラがベッドの上のイオリを強く抱き寄せる。ドレスの上から伝わる温もりに、イオリは言葉が出ない。
「やっぱりまだ心が落ち着いていないのね……! 街での出来事をまだ引きずっているのかしら。トラウマにならないといいけれど……。ごめんなさいね、街の人達も悪気があってあんなことをしたんじゃないの。あれには深いわけがあって……。街の人達を代表して、謝ります、だからどうか許してあげて欲しい……」
申し訳なさそうな表情のレイラに、イオリは言った。
「い、いや、いいんだよ、そんなの。謝ることないって。悪運が強いのは昔からだから、こっちは慣れっこさ。――それより、この体勢、どうにかなんない?」
「えっ? この体勢、イヤなの?」
「……そんな悲しそうな表情をされると、イヤとは言えないが……うーん」
「あ、顔が真っ赤ね、わかりやすい。照れてるだけか」
「やめろ、言うな」
「フフ。こんなの、『動物』同士の、ちょっとしたスキンシップじゃない。恥ずかしがることはないわ。どんな動物だって、ふれあうことで少しずつ仲良くなっていくものだもの」
しばらくその体勢のまま、頭を撫でられたりしていると、急激に眠気が襲ってきた。この夜はあまりに色んなことに巻き込まれすぎて、ずっと緊張しっぱなしで、体はイオリの思う以上に疲弊していたのだった。徐々に半目がちになり、意識が遠のく。
「……ふぁあ……、やべ、眠くなってきちまった……」
「いいのよ、このまま寝ちゃっても」
「……そっか、悪いな――」
イオリはレイラのお言葉に甘えるように、そのまま眠りに落ちた。それから間もなく、扉が開いて、ミアが部屋に入ってくる。
「ようやく眠りましたか」
「あら、ミア。やけにタイミングがいいのね、盗み聞きでもしてたのかしら」
「いえ……、ただ心配になって様子を見に来ただけです」
「心配なんかしなくっても大丈夫よ。見て、この寝顔。すごく穏やかな表情でしょ? きっと根が優しい子なのよ。悪さなんてしないわ」
「レイラ様は同情心が厚すぎます。こんなきな臭いご時世ですから、素性知れずの相手への好意的解釈はほどほどになさった方がよろしいかと」
「私はそうは思わないなぁ……。これからの時代は、もっと心を開いて、みんなが優しい気持ちで接し合うことが必要よ。だってそうしないと、いつまでたっても平和にならないじゃない」
「……そうは言いますが……」
「さ、私達は仕事に戻りましょう。イオリの熟睡を邪魔しちゃダメよ」
レイラはミアの背中を押しながら部屋を後にした。
――眠りに落ちてしばらくすると、なぜか花の香りがした。アロマフローラルのような優しくて甘い香りだ。
「……ん」
目を覚ますと、そこは広大な花園だった。様々な種類の、色とりどりの花が一面に咲き誇り、豊かで美しい調和を示している。しばらくその絶景を眺めたあと、イオリは首をかしげた。イオリからすれば、こんな場所に来た覚えはなかった。
「また、変な場所に飛ばされたのか……?」
かなり異常な事態だったが、なぜかまったく自分が動揺していないことが分かった。いたって冷静な自分を自覚しながら、非現実的な状況と少し浮ついた感覚を意識して、直感的にここが夢の世界であると理解した。
「……いや、飛ばされたんじゃねぇな。こりゃ、たぶん夢だ。たまーにある、夢の中で「これ、夢だ」って分かるときの、あのフワフワした感覚があるし」
《――ニャー……、ニャー……》
どこからか猫の鳴き声が聞こえる。鳴き声のする方を振り見ると、かなり遠くの方で、黒猫が飛び跳ねているのが見えた。そしてその黒猫を誰かが追いかけている。その一匹と一人はこちらに向かって走ってくる。
「――はっ、――はっ、――まてまてー!」
見た目からして10歳前後だろうか。白髪、琥珀色の瞳をした少女が猫を追いかけてこちらへ近づいてくる。少女は猫をようやく捕らえて、胸元で海老反りになる黒猫にいくらかキスをした。――少女はふと、イオリの存在に気づくと、驚きとも歓喜ともつかぬ表情で、小さく叫んだ。
「あーっ! 旦那様発見!」
「へ?」
「突撃じゃあーー!」
少女は黒猫を頭に乗せ、そこから急加速で走り出し、イオリの元に飛び込んでいった。
「ぐぉあっ……、――なんだ、この子はっ」
「ぶれーこーぶれーこー! 我らがマスター、イオリさまさま、お初にお目にかかりまする! ボクの名前はリルカ! キミの心の同居人です!」
「こっ、心の同居人?」
「ここはイオリの精神世界、秘密の花園なのだ!」
「精神世界……」
やはり現実の世界ではないらしい。ただ、普通の夢の世界とはまた違う感じもする。夢の割には意識が明瞭だ。
「つづきましてぇ、ボクの頭の上におわしますわ、名もなき伝説の怪盗、スーパーブラック猫様です。しくよろー!」
「ニャー」
息を合わせたように黒猫が鳴いた。イオリはその黒猫に見覚えがあった。
「――あ! この黒猫っ、俺が助けようとした猫じゃねぇか!!」
「そそ。キミが助けようとしてくれた猫ちゃんさ。この子もボクと一緒で、イオリの同居人だよん。いや、同居猫かな? 愛嬌たっぷりのかわいい子だから仲良くしてねー。にゃんにゃん」
「ま、まて、全然分からん、ギブミー詳細」
少女は額にピッタリと手を付けて敬礼し、
「らじゃー! あなた様が望むなら、隅から隅まで、お教えしましょ!」
と言った。妙に明るく、そして過剰にハイテンションな僕っ娘の少女に戸惑いつつも、イオリはあぐらをかき、少女に話を聞く体勢を取った。――どうやら、これはタダの夢ではないらしい。全ての謎は、この子がきっと、握っている。