空飛ぶアライグマ、深まる疑惑
「……あんまり深く考えないようにしよう。考えすぎると途方に暮れちまうよ」
湯から上がり、脱衣所に戻った。イオリは自分の脱いだ服がなくなり、代わりに上質な素材でできたパジャマが置かれているのに気づいた。ありがたく着替えて廊下へ出る。
「――ごはん、できてるよーん」
「うおっ! 急に出てくんな!」
浴場からイオリが出てくるのを待ち伏せしているが如く、その生き物はイオリの目線の高さの横から突然現れた。それも、浮遊しながら。
目はほとんど閉じて漢字の「一」みたいになっていて、口は数字の「3」を右に90度回転させたみたいな、非常に脱力した表情のアライグマがふわふわ浮いていた。
「……飛んでる」
「精霊だもーん。飛べるもーん」
「はは……あははは! もう何でもありだな」
奇異なことが立て続きに起こったせいか、もはやイオリはどんな生き物が出てきても受け入れてしまうメンタルを獲得しつつあった。
イオリはついに開き直って、自分の欲望に従ってみることにした。怠惰な表情の脱力系アライグマを両手で捕獲し、胸元へ抱き寄せた。毛触りがよくて、初めて会う者にも心を開いているみたいに抱かれることを嫌がらない。
「……アライグマか。熊は熊でも、魚屋のデカい熊と違って、このクマはちっちゃいな。かわいい」
「精霊だもーん。かわいいもーん」
「自覚症状ありかよっ、……とりあえずもふもふさせていただこう」
「早く行かないとミアに怒られるよーん」
飛行可能な未知のアライグマを撫でて心をいやしながら、アライグマの忠告に従ってイオリは食堂まで歩いて行った。
すでにレイラは席に着いていて、その両隣にミアとセシルが対照的な仏頂面とご機嫌な微笑で立っている。白い布が被せられた縦に長いテーブルの上には美味しそうな料理が並んでいた。
「――お待たせー。待ったか?」
レイラが笑顔で首を横に振って答える。
「ううん、いま出来上がったところなの。さ、そこに座って」
「おう! いやぁ~、すっげぇ美味しそうな匂い、ごちそうだぜぇ……っ! と、その前に、このアライグマ、どうしたらいい?」
ミアがすかさず言った。
「ウォッカ、帰っておいで」
「うーい」
アライグマはまた独自の飛び方(短い手足を真っ直ぐ伸ばしてふわふわと飛行する)によってミアの元に戻っていき、それからふいに消えた。
「えぇっ! 消えちまった!」
「精霊ですから」
きりっとした顔でミアはイオリの疑問に即答したが、イオリとしては全然納得できない。
「そんな説明で理解できると思うなっての。さっきから傷直したりアライグマ飛ばしたりアライグマ消したり、……どんな手品使ってんだか、ったく」
「手品なんかじゃないわ」
「じゃあなにさ」
「傷を治したのは治癒魔法よ。ウォッカが消えたのは精霊界に一時的に戻ったからよ。そんなことも知らないのかしらあなたってとんだ田舎者ね」
「……」
言葉が出なかった。何か今、自然な会話の流れの中で、さらっと重要かつ摩訶不思議なことを言われたような気がしたが、しばらく理解が追いつかなかった。
「……はっ、はぁ!? そっ、そんなの知ってるしっ、俺の住んでた田舎にも治癒魔法とかめっちゃはやってたし!? 精霊さんもばりばりじゃんじゃん所狭しといたしっ!?」
「あら、そう。だったら何も問題ないわ、さっさと座りなさい駄猫」
「……はい」
とっさに謎の強がりを発揮したはいいものの、心の中はめちゃくちゃに動揺していた。魔法? 精霊界? なにかの比喩表現ではない?
周囲の雰囲気的に、何かの冗談というのではなさそうだった。まるで「ごく当然のことを言っただけ」というような感じだ。イオリはしゃにむに不安になってきて、風呂に入ったばかりだというのに嫌な汗をかいているような感覚に陥った。
(……あれ? いよいよ異世界説濃厚になってねぇか? マジで? ホントにあったの、異世界って……?)
疑いが深まるにつれ、何かもっと、決定的な証拠が欲しくなってきた。イオリは美味な料理を食べながら、心を落ち着かせ、考えをめぐらせる。何がこの世界の真の姿を明確に教えてくれるか、考えた。
「――イオリ、どう、おいしい?」
「……うん、おいしい、間違いなくうまい。最高だ」
「よかったぁ! お口に合ったのね。急なことだったから黒猫さん好みの魚は用意できなかったけれど……。でも、うちのシェフは腕利きだから、どんな食材でも客人好みにおいしく料理できるの、もちろんイオリが好みの料理を指定すればいつでも作ってくれるし」
「そっか、……うん、そりゃいいや、毎日うまいもん食えるなぁ……」
「……イオリ? なにか考えごと、してる?」
「うん、……ちょっとな、いろいろあって頭パンクしそうだから、整理中」
食べながらも、ときどき天井を見上げて空想に耽っているイオリを心配そうに見つめるレイラ。
「……なぁ、レイラ、あとで地図くれないか」
「地図?」
「そう、できればこの国の地図じゃなくて、世界地図を」
「別にいいけれど、なにか気になるの? そう言えば、イオリ、たしか、「気づいたらこの街にいた」とか言っていたけれど、それと関係ある?」
「ある。もしその地図が妙な大陸の配置をしていやがったら、きっと悪い夢でも見てるんだろうから、さっさと寝るよ」
「……うん、そうね、イオリも疲れているわよね。お風呂にはもう入ったわけだから、食事が終わったら寝室まで案内するわ」
ミアが会話に割り込んでくる。
「いえ、レイラ様の手を煩わせることはありません、私が案内いたします」
「いいの! ……私が案内するわ、ミアはもう休んでちょうだい。セシルも」
「ですが――」
そこでセシルがミアを制止する。
「だめよ、ミア。お嬢様の歓迎心の邪魔をしちゃ」
「うぅ……、でもあの雄猫が発情期だったら万一の危険がありますし、誰かが同行していないと不安で……」
「だれが発情期じゃあ!」とイオリが訂正したが、ミアは信用ならない感じで、相も変わらず鋭い視線をイオリに浴びせていた。イオリの方もこれにはたじたじという感じで、頭の後ろを何度かかいた。
(……ミアって奴は、いちいち一言多いんだよな。せっかくかわいい顔してんのに、いつまでもツンケンしてて、もったいねぇったらありゃしねぇ……)
――食事を終え、セシルとミアはそれぞれの仕事へ向かい、二人きりになったイオリとレイラは食堂を出て、螺旋階段を上る。二階にあるレイラの書斎(地図を取ってきてもらった)を経由し、また階段を上る。