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救世主的少女

 伊織は走っている最中に涙ぐんでいた。とにかく意味が分からなかった。知らない街を必死で逃げて、誰も追いかけてこないのに、それでも逃げ続けた。何から逃げているのか分からなかった。


 すれ違う生き物が皆、異形だった。見知った人間の姿形をした者は少なく、人間と似通っていたとしても獣耳がついていたり尻尾が生えていたり角が生えていたりで、「同じまともな人間」の姿をした仲間は見当たらない。



 それに、街並みもどこか馴染みのないものだった。建築様式のほとんどがヨーロッパ的な作りで、どこかよそよそしい異国情緒に満ちているのだ。



(何だこの街は、どうしてみんなこんな見た目なんだ、俺と同じ普通の人間はいないのか、俺はまともな奴と話がしたい! 俺は、俺は――っ!)



 しかしはやる気持ちとは裏腹に、徐々に「足」取りは遅くなっていき、やがて止まった。伊織は焦ったように「立ち」上がった。そこから一歩も動けなくなり、背中を冷や汗が流れた。



「……俺、なにやってんだ……?」



 無意識、としか言いようがなかった。無意識に、両手と両足、合わせて4つの「足」で、さも当たり前のようにここまで駆け抜けていた。なぜか、まったく自分がしていることの異質さに気づけなかったのだ。



 四足で走っている最中、低い視点から見た光景は違和感がなく、なんなら見慣れた感じすらあった。スムーズに、もしかすると普段以上にスピーディーに走れていたのかもしれない。魚屋ははるか彼方、もう見えない。



「どうしちゃったんだよ、俺の体……おい、誰か説明してくれよ……」



 両手には大量の砂がへばりついていた。人の手であんな走り方をすると当然のことだが、ともすれば出血していても不思議ではないのに、血は一滴も出てはいなかった。母親譲りの薄くて平べったい手は面影がなくなっていて、いつの間にか父親に似た少し肉厚な手に変わっていた。切ったばかりだった爪もやや鋭利に伸びている。



「――うっ……うぐっ……うぇっ……うぅう……」



 にわかに不安が湧き起こって、それに耐えられずに泣いてしまった。自分の中の、人として大切な部分が不安に身をよじらせて苦しんでいた。無意識に四足で走ってしまったことに始まり、自分の身に起こった様々な体の変化がこれほど人間の根底を揺るがすとは、知る由もなかった。



「あ、黒猫だ」

「え、どこ」

「あそこだよ、なんか一人で突っ立って泣いている奴」

「ほんとだ、黒猫がいるぞ」

「どうして街に黒猫が?」

「森から下りてきたんだ」

「しかも半獣だ」



 一人が発した『黒猫』というワードが伝染して、その言葉を耳にした者達が見物をするようにぞろぞろと伊織の周囲に集まってきた。周りが少しずつ騒がしくなってきているのは伊織にも分かっていた。しかし伊織は泣き続ける。迷子になり、行き場を失った幼子のように。やがて誰かが伊織の頭に空き缶のようなものを投げつけた。



「痛っ……」



 空き缶が飛んできた先へと振り向くと、狐と人間を半分混ぜ合わせたような顔の男が伊織を睨みつけていた。金のネックレスを付けていて、頭頂部から生えた耳にはピアスまでついている。柄の悪い男だった。



「おい、黒猫、こんなとこで何してやがる」

「何してるって……、知るかよ」

「どうせまた、何か盗みに来たんだろ」

「……はぁ? 盗みなんかしねぇよ、っつーか、黒猫って何だし、俺はれっきとした人間だぜ」



 それを聞いた瞬間、狐男はきょとんとした表情をした。聴衆も唖然として、それから示し合わせたみたいにドッと笑いが起こった。



「アッハッハッハッハッハ!!! なんだよ、お前、自分のこと人間だと思ってんのかよ! こりゃたまげた、とんだマヌケがいたもんだぜ!」



 伊織はなぜ周りの人間が笑っているのか分からなかった。ただ自分が笑いものにされているという不快感から、とにかく眉間にしわを寄せるぐらいのことしかできない。



 ふいに狐男の仲間が言った。



「じゃあその頭の上にひっついてる耳は何なんだよぉ! ハハハ!」

「耳? 耳が頭の上にひっついてるわけ……ねぇだろ、ねぇよな……?」



 口で否定しながらも、伊織は恐る恐る自分の頭頂部を触った。そして手の先に、「明らかに不自然」な三角形状の突起物が触れた。手触りは柔らかく、そしてひんやり冷たかった。



 伊織は激しく動揺した。



「……なんだこれ、――何なんだよぉっっっ! ――くそっ、くそっっっっ! 俺は人間だっ! 誰がなんと言おうとっっっ!」



 伊織はその突起物を頭から取ろうと必死になって引っ張った。そしてそれは飾り物ではないことがすぐに分かった。頭の皮膚に直接繋がっているのだ。それを引きちぎろうとすると痛みで涙がにじんだ。周囲の笑いは絶頂に達した。



「ギャハハッッッ! やめとけ猫ちゃん、そりゃ頭から直接生えとるんだ! 君はれっきとした黒猫さね! いいかげん認めることだなぁ!?」



 酒を飲んで頬を赤らめる老いた鼠男がゲラゲラ笑いながら言った。伊織は泣きそうな顔でその鼠男にすがり寄って、胸ぐらを掴み、激しく揺すりながら八つ当たりした。



「うぉっ、なんじゃっ」

「お、おおおお教えてくれっ、お前達は何なんだっっ! 俺の体はどうなっちまったんだよぉっっっ! 笑ってねぇで教えてくれぇえぇっっ!」

「何をいっとるか、この猫ガキゃぁ! 離せっ、はなさんかぁ!」



 伊織の手を振りほどき、伊織の胸元を蹴り飛ばした鼠男は腹いせにこう言った。



「この街にはどのみち長くはおれんぞ、それをわかっちょるんやろね! 黒猫は盗っ人の象徴! 誰も相手にせんし、商売人なんぞ毛嫌いしとる! 人里離れた山奥なんかがお前らの根城らしいが、なんじゃ、半獣じゃからって、仲間からものけ者にされて、街まで下りてきたんかいね!? おあいにく様! お前の居場所はここじゃないね!」



《そうだそうだぁ! ――この街からとっとと出ていけぇ! ――街で盗みができると思うなぁ!》



 周囲の聴衆は鼠男に同調して、徹底的に伊織を罵倒した。それに続くように空き瓶や石、バケツの中の汚水を、尻餅をついた伊織の体にかけるものまで現れた。何か硬い鋭利なものが額にぶつかり、そこから血が流れ落ちる。



「やめろっっ、やめてくれぇっ……うあぁっっ……!」



 どうして自分はいつもこんな目に遭わないといけないんだろう。自分の居場所はいつになったら見つかるんだろう、自分は一体何のために生きているのだろう、様々な思いが伊織の中で錯綜する。酷くみじめで、いっそのこと、あのとき不良に殺されていれば楽だったかもしれないとさえ思った。



 ――そんな時だった。観衆の背後を通りかかろうとした黒い馬車がとつぜん急ブレーキをかけて止まった。そして馬車の中から一人の黒髪の乙女が颯爽と降り立ち、観衆をかき分けながら叫んだ。



「あなたたちっ、今すぐやめなさいっっっっ!」



 その声の主を見た者はたちどころに青ざめるかすぐさま身を引いていった。人混みは彼女を境に綺麗に二手に分かれ、道を開けた。それでも声が耳に届かずにまだ伊織に物を投げつけたり罵詈雑言を浴びせかける連中がいた。



 彼女は渦中の伊織の元にすかさず駆け寄り、身を呈してかばった。そこでようやく彼女の姿を全ての者が目にすることになった。彼女は倒れている伊織を心配そうに見つめて言った。



「あなたっ、大丈夫?」

「……うっ、……ま、まぁ、なんとか」

「あ……、額から血が出てるわ、――ほら、このハンカチで押さえて」

「う、うん、ありがと……」



 伊織は彼女に看病されながら、いきなり助けに来てくれた彼女の美貌に見とれていた。それに加えて、初めてまともな人間を目にして、心が安心感に包まれるのが分かった。伊織の目には、彼女がまるで女神のようにも、救世主のようにも思えたのだった……



 ――その長い黒髪、黒いドレス、紅のイヤリング、美しく透き通る白い肌。彼女の姿を知らぬ者はこの街にはいなかった。ゆえに一瞬にして騒ぎは収まり、萎縮したような静寂が観衆を包んでいた。



 黒髪の乙女は立ち上がったあと、鋭く振り返り、全ての者をたしなめるように言った。



「猫をいじめちゃダメでしょっ!」



 その声は鮮烈に響いて、聴衆を緊張状態にさせた。勢い余って軍人のようにピシッと直立不動になっている者さえいた。



 さっきの鼠男が観衆を代表して謝罪する。



「す、すみませんっ、レイラ様! 久々に『黒猫』を見かけたもんで、つい……」

「つい、じゃありません! あんな迷信、いつまで信じているんですか!? いいかげん目を覚ましなさい!」

「はっ、はぃいぃっっ!」



 伊織は不思議に思った。なぜか周囲の者達が一様に怯えているみたいだったからだ。こんな華奢でかわいらしい女の子を、どうしてみんな怖がったりしているのだろう。



 彼女は、はぁ、と一度ため息をついてから伊織の方をむき直し、膝に手をついて伊織の目を覗き込むような体勢になり、優しい声色でいくつか質問をした。



「――黒猫さん、あなた、どこから来たの? 帰り道分かる?」



 伊織は全力で首を横に振って、



「わ、わからないんだ、ずっと考えてんだけど、全然分からねぇんだよ、何もかも……。俺、気づいたらここにいて、なんでか知らねぇけど耳が生えてて、4足で走るようになってて……それで、それで……、うぅう……、うぐっ……」



 焦ったようにしゃべり出して、それからなぜか、また泣けてきた。初めてまともに話せそうな人間に出会えた安心感と、それまでの圧倒的な不安感とがぶつかり合って、まだ混乱していた。



「ごっ、ごめんなさい、黒猫さんっ! 私、泣かせてしまうようなことを言ってしまったかしらっ!?」



 伊織は泣いている顔を見られるのが恥ずかしくなって、ついには体育座りでふさぎ込んでしまった。むせび泣く伊織の背中を申し訳なさそうにさする黒髪の乙女は、周囲の観衆をちらり、ちらりと見て、確かめるようにたずねた。



「この子、……きっと野良猫よね」

「は、はいっ。この街で黒猫を飼う者はおりませんから、どこの家のものでもないかと……」

「ずいぶん混乱しているみたい……。野良猫だから、身寄りもないのよね……聞きたいことはあるけれど、まだ話せる状態じゃないし、……そうね、分かったわ」



 彼女はふさぎ込んで泣いている伊織を抱きかかえ、そのまますんなり持ち上げてしまった。これにはさすがの伊織も驚きの声を上げる。



「――ちょっ、えっ、なんじゃあ!」

「こら、あばれないの。あとで傷の手当てをしてあげるから」



 彼女は周囲の観衆に向けて、ハッキリした声で宣言する。



「この子は屋敷に連れ帰ります!」

「――えぇぇええぇぇぇぇえっっっ!」



 その驚きの声は、観衆が放った今日最大の声だった。伊織は女の子に軽々しく持ち上げられてしまった羞恥に耐えかねてそれどころではなく、真っ赤になった顔をハンカチで隠して、小声で、「女の子にお姫様だっこされるとか……、男として、どうなの……」と泣き言を言っていた。



 彼女は伊織を抱きかかえたまま馬車に乗り込み、御者に命令した。



「セシル! 馬を出して!」

「承知いたしました、お嬢様♡」



 よく見れば、それはただの馬ではなく一角獣のユニコーンだった。白い高貴な毛に覆われたユニコーンは走り出すと天にそり立つ角が白く発光して、眼前の夜闇を照らしながら街道を駆け抜けていった。



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