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魚屋、熊の店主

 ――目を覚ますと、いきなり満天の星空が見えた。夜だった。



「……あ……れ?」



 結局何がどうなったのか、伊織にはまったく分からない。ただ、ふかふかする地面に仰向けに寝転んでいて、ほどよく夜風が涼しいことだけが感じられて、少し気分がよかった。何かがギシギシと音を立てていたが、そんなことはお構いなしに伊織はつぶやいた。



「どこだ、ここ……」



 すると下の方から、子供の無邪気な声がした。



「おかーさん、見てー。あのひと、屋根で寝てるー」

「あら、ほんと、あんな所でどうしたのかしら。変な人がいるものねぇ」



 なんとなく自分のことを言っているような気がした。自分はどうやら屋根に寝転がっているらしい。屋根? 俺は屋根の上で寝てんのか? どこの屋根だよ、などと思ったが、伊織はあまり深く考えなかった。悪運の強さは昔からだが、あまりにも酷い目に遭いすぎて、目覚めたとはいえ半分くらいはまだ放心状態だったのだ。



 その少し後で野太い男の声がした。



「へい、らっしゃい! 今日は魚が安いよぉーー! そこの奥さんっ、新鮮なキオラサケを3匹200ギル! お買い得だよぉー!」

「お安いのねぇ。ちょっと買って帰りましょうか。サラちゃん、今日の晩ご飯はお魚でいい?」

「うん! サラ、お魚だーいすきっ!」



 伊織はゆっくりと、自分の体を動かして点検した。そして驚いた。傷だらけのはずの自分の体が新品同然に元通りになっている。自然治癒ではあり得ない、なぜならあまりにも治るのが早すぎるし、それに傷跡一つ残っていないからだ。



「……耳も、ちゃんと聞こえる。聞こえるどころか、聞こえすぎるくらいだ。どうなってんだ? ってか、めっちゃいい匂いするなぁ、なんだろ、これ……」



 ――婦人が金を払い、店主が魚を袋に詰めて手渡す。



「まいどありぃ!」



 婦人が店先から出る。娘が店主にばいばい、とにこやかに笑いながら手を振り、店主もそれに答えて手を振った。その去り際に婦人がふいに言った。やはり気になったのだろう。



「屋根の上で寝てらっしゃる人、お知り合いかしら?」

「はえ? 屋根の上ですかい?」


《……ギシ……ギシ……パキンッ!》



 何かが折れる音がした、その刹那、柔らかい地面が突然陥没して、伊織は真っ逆さまに落ちていった。どんがらガッシャン、と、まるで漫画さながらのようにして全てがわやくちゃになり、魚屋の店先が崩落した。



「――ぬぁっっっ!」



 伊織はかろうじて受け身を取り落ちた衝撃をいなした。そこでようやく本当の意味での地面に接したのだ。彼は木の棒と茶色い布で作った魚屋の庇の上に大の字に寝転がっていて、老朽化していた木の棒が伊織の体重に耐えきれずに折れたのだった。



「なっ、なんじゃあっ! 何が落ちてきよったか!」



 店主が叫ぶ。それもそうだ、突然お手製の日よけ屋根が崩落したのだから、驚くしかない。店主の目には空から何かが降ってきて、店先の品々ごと台無しにしたようにしか見えなかっただろう。



 落ちたときの勢いで茶色い布にすっぽりと包まれた伊織は産声を上げるが如くその布を自分の体から剥がして、こう言った。



「痛ってぇなぁ! なんだよ重力の野郎っ、仕事しすぎだろっ……って、……え?」



 布を引きはがした伊織の目に最初に飛び込んできたのは、棚の上に整然と並べられた魚と、よく分からない文字で書かれた値札のようなものの羅列、そういう光景だった。どうやら魚屋であるらしい、それは伊織にも簡単に判断できる。しかし、だ。しかし本当に魚屋なのか、伊織には判断しかねた。



 なぜ判断しかねるのか。理由は簡単だ。伊織の視界の端に、熊が見えたからだ。



 熊が仁王立ちして、魚屋らしく前掛けなんかして、黒いゴムの長靴まで履いて、心なしか怒ったような表情で、こちらを睨んでいる。服装からして店主のようだが、あまりの違和感に伊織は声が出せないでいた。



「おい、おめぇ、何もんだ」



 店主は低い、しかし力強い声で明確に言葉を放った。伊織は目を疑い、耳も疑った。



「……まてまてまて、おかしいおかしい。熊が喋るわけないだろ、んなわけあるかよ。やっぱり耳の調子は治っちゃいねぇんだな。……いや、そんな問題じゃねぇか、ヤンキーにバットで殴られすぎて、耳だけじゃなくて眼球までおかしくなっちまったらしいや。熊が前掛けなんかして魚売ってたらわけねぇわな、……やっぱり頭だ、頭自体がおかしくなっちまってんだ、それで幻覚やら幻聴が……、誰か、誰か救急車を呼んで――く……れ」



 周囲を見渡すと、そこには幻覚の延長しかなかった。右を見れば道の先に爬虫類のような姿の生き物が人間のように服を着て歩いていた。左を見れば犬のような尻尾と白い獣耳の生えた人型の母娘がことのいきさつを伺うようにこちらを見ていて、その前をゴブリンのような生き物がしれっと横切った。



「あ……」



 呆然とする伊織に店主が腹を立てて怒鳴った。



「おかしいのはお前だっ! どうしてくれんだ、魚が全部パァになっちまったじゃねぇかよ! 責任とれんのか! あぁん!」



 また喋った。もはや聞き間違いなどとは言い逃れできないくらい、決定的に人間の言葉を喋った。おまけに魚を台無しにされて、熊はキレている。伊織は開いた口が塞がらなかった。



 意味不明な事態と恐ろしい形相の熊を前にして、伊織は座りながらに自然と後ずさりしていた。すると後ろに回した手が何か冷たくて固い物に当たった。魚だった。



「魚……」



 周囲の地面に散乱した魚に目をやる。地面の砂利にまみれ、もう商品として売ることはできなくなってしまった魚たち。それを見ていると、なぜか伊織は目を逸らすことができなくなった。ずっと気になっていた匂いの原因は魚だった。



「魚、……魚、……魚……」



 本能の、奥深いところから、何か熱い感情が押し寄せてくる。血の巡りが早くなり、動悸がする。猛烈に自分を刺激して、行動の川へ押し流そうとする強制的な力を感じる。――伊織は目をパチクリと開いては、閉じて、開いては、閉じて、必死に自分を押しとどめようとする。


「……あうっ、――あぁ、なんだっ、これっ、よだれが、……止まんねぇっ……」



 口の中から溢れ出す唾液が口の端から漏れ出て、地面に落ちていく。



 もはや、熊などどうでもよくなっていた。いや、どうでもよくないはずはなかったのだが、なぜか意識の外に追いやられて、全ての意識は魚のそのつややかな銀色の肌に吸い寄せられて、ただただ釘付けにされてしまっていたのだ。



(やめろっ……落ち着けっ、……こんな、……砂まみれの魚っ……)



 地面に落ちて砂利まみれになった魚を好んで食べたいと思う人間がこの世に何人いるか分からないが、すくなくとも伊織は自分をそんな飢えた乞食のような人間とは思っていなかった。しかし、気づかぬうちに彼は落ちた魚の一つを手掴みして、両手で大事そうに掲げ、恋い焦がれるように魚を見つめていた。



『この魚が食べたい』



 瞬間的に伊織は本能の声を聞いた。それは確信にも似たもので、絶対的な意思だった。さきほどまで抗っていた文化人の美意識みたいなものはどこかにすっ飛んで、愛するものに口づけするようにゆっくりと口を魚に近づけた。咀嚼は間近だった。しかし――



「おいこら、何をしとる」

「あ!」



 熊の店主が伊織から魚を取り上げた。伊織はおしゃぶりを取り上げられた赤子のようにもの悲しい顔をして上を見上げ、そして我に返った。



「よく見りゃ、おめぇさん、……『黒猫』じゃねぇか」

「は? 黒猫?」

「店のもん盗もうとしていやがったんだな! この盗っ人がぁ! 容赦しねぇぞ!」



 熊の店主はいったん店の奥に引き返した。伊織がその様を見ていると、熊は店の奥から魚を解体する鋭利な刃物を取り出したのが見えた。何か怒りの文言をぶつぶつ言いながらこちらに近づいてくる。



(まずいっ! 逃げなきゃ!)



 本能的に危機を察知した伊織は全力疾走した。一心不乱に走って逃げた。熊は幸いながら追いかけてはこず、店の前で「二度と来るな泥棒猫!」と怒鳴り散らかしていた。



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