表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

3/19

不良、金属バット、黒猫

 恐ろしく寒い上に、びっくりするほど静かで、道路には人気がなかった。ここは都会というよりは田舎だから、冬の夜はこんなものかもしれない。



一文無しで外に放り出された彼は、普通の人間ではなく、二年間引きこもりをしていた無力な少年だった。実に二年ぶりの外出は最悪のコンディションだ。当てもなくさまよい歩き、足の痛みが麻痺して何もわからなくなるのをただ感じていた。



……伊織とて馬鹿ではない。自分が悪いのはうすうす分かっていた。ただ油断していたときにひどい仕打ちを受けたものだから、動揺して、あるかなしかのプライドが傷つけられたのがショックで、自分の非を認めたくなかった。



 ふらふら町中を歩き回り、何度か軽自動車とすれ違ったあと、ようやく人気を感じた。向こうの公園の方から声がする。ゲラゲラと楽しそうな笑い声だった。



「あ……ごの公園、昔よぐぎでだなぁ……なづがじい……」



 幼い頃、両親に連れられて遊んでいた公園だった。あの頃はまだ両親も伊織の可能性を信じてくれていて、何かができなくても優しくしてくれた。鉄棒で逆上がりができなくても、ブランコがうまくこげなくても、「がんばれ、あともうちょっとだ」って……



 不意に涙が出てしまいそうになって、伊織は頭を左右に振った。あんな両親のことなんてもう思い出すな! あれは毒親だ! 必死に自分に言い聞かせる。声を出すと口の中が渇ききっていて、のどの奥が痛んだ。



「水が飲みでぇ……、ぞうだ、公園の水を飲もう……」



 公園の中に入ると、先ほどから聞こえていた笑い声の主たちが、うっすらと雪が積もった中央広場の照明の下でわだかまって、足下の「何か」を蹴ったり、あるいは持っていた鉄パイプのようなもので叩いたりしていた。



《ギャハハハハハっっ、もう動かねぇよ、こいつ、くたばったか! 弱っちぃなぁ!?》



(……なんだか柄の悪そうな連中だな。こんな時間に何やってんだ……?)



 連中は明らかに素行の悪そうな輩の集まりだった。同年代くらいだろうか、耳にピアスをして、髪は田舎ヤンキーらしく金髪で、時代遅れの腰パンをしているやつさえいた。家への帰り方も知らない学のない連中だからか、こんな時間に学ランを着たままで、どことなくへらへらしている。



 伊織はじっと目をこらした。すると連中が「何」を蹴ったり叩いたりしているか、徐々に分かってきた。伊織は、戦慄した。



「――あ、……あ」



 のどの奥で言葉が詰まって出てこない。腹の奥が急速に沸騰して、マグマが沸いてきそうなのを、ひしひしと感じ、今にも体の内側から噴火してしまいそうになった。



目の前で起こっていることは、この広大な世界においてはありふれた小さな「残酷」だった。しかし、伊織は世界の広さなど知らない。そして伊織の内的な小さな世界にとっては、それは信じがたいほどに大きな「残酷」だった。



ひたすらにいたぶられている「何か」とは、つまり黒猫だった。首輪をしていないことからして、おそらく野良猫なのだろう、冬場にえさにありつけないのか、やせ細り、衰弱していたところを不良たちが面白半分に暴行して、おもちゃにしていたのだ。猫はもうぐったりとしていて、ほとんど動かない。



 気づいたときには体が駆け出していた。まったくもって我慢できなかった。伊織はネットの世界で悪者をつぎつぎとなぎ倒し、平和を守っていたときと同じようにして、「正義」を成そうと奮起したのだった。



「……あん? なんだ、誰――」



《――ガッッ!》


 鈍い打撃音が鳴った。走った勢いをそのまま拳にのせて、不良集団の中の一人の顔面に怒りの鉄槌を叩き込んだのだ。最初に足音に気づいた不良が何かを言いかけたが、そんなものは振り切って、いちばん手ひどいマネをしていた輩めがけて伊織は集団の中に飛び込んだのだった。



「がっ……はっ……」



 男は殴られると後方へ大きくのけぞって、その場に倒れ込んだ。



 リーダー格を殴ってしまっていた。もともと残忍な性格で知られるその男は伊織より一つ年上の高校三年生で、地域でも悪名だかい不良高校のナンバー2だった。



 何が起こったか状況が飲み込めず、棒立ちになっている周囲の不良たちに向かって、すでに満身創痍の英雄はこう言い放った。



「猫をいじめるなっっっっっ!!!」



 生来の正義感と少しばかりの熱血が起こした悲劇だった。何も見なかったことにしてその場を立ち去っていれば、伊織の運命は変わっていたかもしれない。しかし伊織は根っからの動物好きで、とても見過ごすことはできなかった。



「おいっ! だいじょうぶがっ、いまずぐ助げでやるがらなっっ!」



 倒れていた猫を抱きかかえ、状態を把握する。かすかに息がある。しかし全身のいたるところに傷や出血が見られ、いますぐ手当をして暖かい場所で休めてやらなくては助からない。伊織はそう思った。動物病院は近場にないが、いざとなればこの子のために親に土下座でも何でもして実家に入れてもらって看病してやることだってできる気がした。



 だが、時はすでに遅いのだった。


「宮田さんっ、大丈夫っすか!」



 不良の一人が殴られたリーダー格の男に駆け寄る。宮田というその男は自力で立ち上がり、猫を抱きかかえる伊織を恐ろしい形相でにらみつけた。



「……おい……、何してくれてんだ、てめぇ……」



 宮田はズカズカと歩いて行って、伊織の前に立った。伊織が見上げると、宮田は鼻血を出していた。ざまぁみやがれ、と伊織は思った。猫をいたぶるようなゲスにはお似合いのひどい面だと心の底から思った。



このとき伊織には恐怖心などなかった。自分は猫を守った、正しいことをした、という正義感に裏打ちされた自信が、恐怖心をどこかに遠ざけていたのだった。



「これからどうなるか、わかってんだろうな」

「……はぁ? おまえらど遊んでる暇ねぇよ、猫の看病じなぎゃだろ」



《――ガスッッッッ……》



 伊織には最初、何が起きたかわからなかった。ただ、頭の左半分にすさまじい衝撃と痛みが走り、視界が横倒れになったことだけがはっきりしていた。――宮田の下段蹴りが伊織の左側頭部に炸裂していたのだった。



 左の耳がよく聞こえなかった。鼓膜が破裂していたのだ。抱きかかえていた猫がわずかに鳴いたこと以外は、あまりちゃんと聞き取れない。不良たちは何かを話していたが、それを聞くために起き上がろうとするとひどい頭痛がして起き上がることができない。



 宮田が不良仲間に言った。



「貸せ」

「あ、……はい、……どうぞ」



 宮田の殺気に満ちた表情に恐れおののいた不良仲間の一人が、手に持っていた金属バットを宮田に手渡した。



「いっでぇな……なにじやがる……ぐっぞ、耳が変になっぢまっだ……今日はさんざんだ、ぢぐじょお……早く手当てじねぇと猫が……」



 必死に起き上がろうとする伊織の前に、また宮田が立った。伊織の目には宮田の両足と、金属バットの銀色の輝きがあった。先ほどまでの自信は痛みによってかき消され、徐々に最悪な状況が飲み込めてきて、とたんに恐怖が伊織の心を包んだ。



「殺す……ぜってぇ殺す」

「あ……あぁ……」



 宮田が金属バットを振り上げる。逃げる力は残っていない。せめて猫だけでも、と思ったが、猫は伊織よりさらにぐったりと弱っている。――弱者の定めだった。弱いものは強いものに蹂躙される。これは歴史の常であり、現代社会でもいたるところで散見される宿命。それが今日たまたま、伊織の身に回避不能の災難として降りかかったのだった。



《――ドガッッ、――ガンッッ、……ガスッッッ……ドガッッッ》



 周囲の不良仲間も最初はちょっと生意気なやつをしめるくらいの軽い気持ちで笑いながら見ていたが、だんだんと顔が青ざめてきていた。宮田がキレ症なのは誰もが知っていたが、まさかここまでやるとは思っていなかったからだ。



 手加減の一切感じられないフルスイングで、人体の急所ばかりを殴打するその様はほとんど狂気と言ってよかった。まるで殺人事件の現場をリアルタイムで目撃しているような凄惨な風景に、周囲の不良たちは足がすくんでいた。



 不良仲間の一人がぼそっとつぶやいた。



「……やりすぎだ、……死ぬぞ、ほんとに……」



 伊織はもう意識がほとんどなかった。痛みも感じていなかった。何もかもが麻痺して、もう自分の体が自分のものじゃないみたいだった。ただ、少しずつ何かが終わろうとしている感じに浸っていたのだ。



 宮田は好きなだけ伊織をいたぶると、満足したように引き返し、ニヤリと笑いながら仲間に血塗れの金属バットを返却した。誰もが、「この人は本当にヤバい」と確信した。誰も非難の声を上げることはできなかった。



「み……宮田さん、あの……」



 一人がおびえたような口調で言った。宮田は首を回しつつ肩をもんで、まるで一仕事終えた社会人のような様子で簡単に返事をする。



「興が冷めた。帰るぞ」

「え、そいつどうするんすか」

「は? ほっとけよ、こんなクソガキ。こんな雪の日に靴も履いてねぇし、どうせホームレスかなんかだろ。ホームレスには公園がお似合いだぜ、ここで寝てろよ、ぺっ」



 倒れている伊織につばを吐き捨てて、宮田は公園の出口へ歩き始める。それにつられて不良仲間たちも後につづいた。最悪の事態に居合わせたのではないかという不安で頭がいっぱいだったのか、不良たちは誰も口をきかなかった。





 ――雪が夜の空から降ってくる光景が、命の絶えるそのときまでつづくような気がしていた。伊織にはそんな残酷な運命しか待ち受けていないように思われた。実際、金属バットの頭部への当たり所が悪く、回復する見込みはなかった。徐々に体に力が入らなくなって、静かに意識が遠のいていく。



(死ぬのか……俺)



 まぶたが重くなってきた。いよいよ永遠に目を閉じてしまう、その間際だった。



(……あ、……れ……ねこ)



 瀕死状態だったはずの猫が、元気そうな姿で伊織のもとに駆けよってくるのが見えた。死ぬ間際に見る幻覚だろうか。すべての傷が癒え、何事もなく猫は四本足で立っていた。猫は伊織の右の耳元で聞こえるように首を伸ばし、こう鳴いた。



「キミは死なせない」



 ――え? 



 猫の鳴き声がまるで人の言葉のように聞こえた。やがてまぶたは閉じられて、二度と開かれることはなかった……





 それから三ヶ月後。とある地方新聞の片隅に、次のような見出しで伊織のことが小さく記載されていた。



【名家の七男、行方不明か】

 日本屈指の名家として知られる西園寺家の七男、西園寺伊織さん(17)が行方不明になっていることがわかった。伊織さんは二月十日未明、父親と口論になった末に家を飛び出し、それから数日経っても家に戻らなかったため、母親の奈津子さんが地元の警察に行方不明届けを提出。深夜に住宅街の道路を歩いているところを監視カメラが捉えたのを最後に、足取りがつかめていない。警察は今のところ事件性はないとしている。



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ