盆踊り怪談
途中で消えたのでうちなおしたら13行の内容が5行で済んでしまった。
ご先祖様を親族総出で出迎える行事、お盆。
輪廻や解脱の観念から仏教的ではなく、期間限定の話から神道的でもない行事である。こういうのはたいてい節句よろしく古代中国から伝わってきたものと相場が決まっている。
どこの国の発祥であろうと現地で広く認識されるのであればそれはもう常識であり、怪談の生まれる余地のあるものである。
私は夏祭りが好きだ。今は亡き父親によく連れて行ってもらった楽しい記憶が残っているからである。
私は子供のころ、祭りの屋台でお面を売っていることを不思議に思っていた。当時食い意地の張っていた子供だったため、食べられもせず楽しめるものでもないお面に価値を見いだせないでいた。
わからないことはとりあえず親に聞けばいいと、父に尋ねたところ、父からは次のようなことを言われた。
お面ってものは元来人物の個別認識をなくし、名もなき一個人もしくは仮面の属性を持った人物との認識を与えるものだ。ヒーローのお面をかぶればヒーローとしてごっこ遊びができるし、お姫様の仮面をかぶればお姫様としてごっこ遊びができる。とはいえ、人を特定する手段として顔の認識が占める割合が多いながらも声や髪形、体格や服装などで判断できるから、完全に個人の属性がなくなるわけでもないのが面白いところだ。
お面のことばかりで夏祭りの屋台で売られている理由について答えてないので不満な顔をしてると話を続ける。
なぜ夏祭りで売られているかといえば盆踊りで被るためだよ。そうすると誰が誰だかわかりにくい状態になるだろ。そうやってここにいるはずのない人がここにいてもいい余地を作るわけだね。そしたら似た体格や髪形の人を見ては故人と一緒に踊っているんだなと、懐かしさや一体感を味わえるようになるだろ。有意義な話だろ。
そんなことを話して父は自前の狐のお面をかぶって盆踊りに参加した。
当時の私には身近な故人というものが存在せず、どこが有意義なのかよくわかっていなかった。きっと父には身近な故人がいたのだろう。だから誰かの感傷のためにご先祖様役としてお面をかぶって参加していたのではないだろうか。
そう思っていると数少ないお面をかぶった人の中に狐のお面をかぶっている人を見つけた。それを機に自分もお面をかぶって踊りに参加することにした。
ちなみに作中の「私」は私ではありませんのであしからず。