設計は言わずもがなだった+漫才の雑感
(2018.12.02)
(2018.12.03)
原稿の執筆はプロットを中心に書いていて、点と線でつなげる段階にはまだ至っていない。今回はまずプロットという単語から自分なりに設計に至るまでの用語を再定義しながら説明していこう。
プロットとは数行または第n部分に相当する文字の羅列である
このとき、プロットを繋げる線をストーリーラインとする。そして全ての執筆した内容はセットアップ=設定に沿ったものであることを必然とし、その設定を語る記述をジャーナルと呼ぶ。ジャーナルは必ずしも説明せねばならないものではない。しかしジャーナルはストーリーラインになりうる。
「プロットとジャーナルについては専門用語でしょうね。プロットは執筆用語ですが、ジャーナルはソフトウェア開発において設定に付随して取得するログというイメージがあります」
「あるいは特殊なログもジャーナルと呼ばれるかも。一般的には新聞記事でしょうか」
ジャーナルの羅列はストーリーラインとしてだけでなく、いずれ別の小説として昇華させてリサイクルするつもりだ。おそらく小説ではないだろう。
「ホラを吹きました。気にしないでください」
「ホントにやるとしたら仕様をまた作らないと」
プロットを執筆し続けた結果、それをまとめたものを設計という。
違う。そんなまとめ方は設計かどうか怪しい。
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さて、ここでそもそも設計とは何かということを考え直したい。
設計とは仕様をほぐしたウォーターフォールであるべきだ。というのが、ソフトウェア開発やハードウェア作成には及ばずありとあらゆる物づくりのスタイルの一つとして存在している。
一方で、ソフトウェア開発においては事前にどういう部品=オブジェクトを使うべきかわかっていることもあるため、<テンプレート>やライブラリやコモンな継承元を用意しておき、上と下から同時に作っていくというスタイルもある。
他にもスパイラル型というスタイルなどその他にも色々とあるのだがよく使われるのは上記の2つのスタイルだろう。
「正しいスタイルを最初から模索しても仕方ありません」
小説において言えば原稿用紙時代ならいざ知らず、現代においてはテンプレート展開、Web検索、共通認識として存在する世界観を脳内に納めているのでそこからプロットを作っていくのは容易だ。
問題はそうして作ったプロットをどの段階でストーリーラインに納めるかということである。
アニメで考えてみよう。
アニメでは作画された数百枚の原画を元に「動画」を作る。この動画というのはYouTubeやMP4と言った単体の話ではなく、原画と原画の間でどのような動きがあるのかを描いていく作業だ。
動画は曲線グラフの――トーンカーブのように――二次~三次曲線のように時間と場面を展開させる描写でアニメーションを魅せる仕事である。
小説にもこれが必要であり、そのうまさが良い人程評価される筈である。
ところが私にはこの才能があるかわからない。何しろ書いたことがないからわからないというのが最たる理由である。仲間内のためのTRPGのシナリオを作ったことはあるがこれはプロットを10作って10並べたものでありあれは小説ではない。
「TRPGシナリオはリプレイとして、いずれ投稿することも考えています。が、需要はないと思います」
「このジャンル零細だからね……」
当初はストーリーラインを作る補助として設計を作ろうと考えていたのだが、私の「執筆したい」という欲求を満たすアイデアではないと判断した。
欲求を満たす設計とは何かと瞑想した結果、それは「設定とジャーナル」を中心にした設計だと悟りを得た。仏教脳内伝来誤算拝。これは私の物理的な執筆欲求を満たすためであり広義的に必要だというものではないということを念頭に入れて頂きたい。
誤解の無いように記述しておくが、設計を作ってストーリーラインを作る、設計から設定を作ってジャーナルに至る、こういうのが正しい道の筈である。
そもそもの話で、私は「なろう」に辿り着いたときにモンハン用語や生活魔法やインベントリと言った未知の設定に驚いた。しかし、何故か「なろう」においてはそれらがコモンワードになっていたのである。
これは「なろう」だけの方言かとも思ったがそうではないらしい。共通認識されやすい設定であり「なろう」の小説家がきちんとジャーナルを書いて継承し続けているからだろう。
ところが私は私の身勝手さから、独自の設定とジャーナルを表したいと考えていた。そりゃもう押し付ける勢いで鼻息をフンガフンガ言わせながら。
「野獣の眼光」
「狐ですから」
注釈しておくがおそらく世の小説家が持つ程度の身勝手さの筈だ。こうして自分を擁護しておかないと自分の身勝手さを行使できない程度に世の中はリベラルで不自由だが、それは私がどうしようもなく初心者だからである。世の中を四つん這いでおっかなびっくり歩く獣の姿を想定していただきたい。
「なろう」で共通認識されている設定へ私だけの設定用語を混ぜるための手段として、私は設計を作成することにした。
現在はその設計のための設定を作っている。
おそらく私の設計の仕方は間違いである。私がこのような手段をとったのは仕様を重視するためである。
つまり、執筆欲求という要求仕様を満たすためにプロットを執筆する。そしてそのための設定を作成し、ジャーナルで説明してつなぎ合わせる設計を模索している。
それでは私の設計がどうなっているかだが、それはまた数日後としたい。
どのみち設計はあまりつまびらかにするものではないので、次回は少なめの更新になる。
12/6の投稿の予定としておく。
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閑話。
ところで先日M-1グランプリの決勝があったらしい。
漫才という演劇がどういうシステムかということについて、M-1を何度も見ている人であれば気づくだろう。
「それなら、お前それやってみ?俺がそれ答えてやるから」
これが9割である。
専門用語によると「コント漫才」といって他の「漫才」とは違うらしい。
これは「なろう」における「異世界」と同じイメージである。
そして自分もその異世界ジャンルで挑戦しようとしている。
ここで漫才に照らし合わせてみると色々な共通項が見えそうだが、それを閑話で明らかにするには余白が狭すぎる。
そのようなことは世の専門家に任せるとして、以前、パンクブーブーかアンタッチャブルか…4名のうち1名が次のような話をしていた。
「お笑いの台本を片方が作って片方が天才というスタイルはガチだけど、少しでも崩して自分たちだけのスタイルを表現しないと生き残れない」
当時のオンエアバトルを見ていた中で妙に印象的な話だったので記憶している。未だに自分はこの「なろう」についてリサーチも把握もできていないが、私のスタイルはガチのテンプレートスタイルへ近づいているかどうか、そしてそれは仕様か設計か、私は
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閑話休題。
私は設計を通じてもっと真摯に執筆と向かいたいと考えている。それだけ設計とは難しい。設計を表現するということは心と小説の中身が漏れてしまう大事な話である。
(執筆時間:1時間33分+1時間18分)
「リサーチという名のあちこち散策視察をしていたのですが多筆家、エタる方、死去した方、病気にかかった方、結婚した方、外国人、純文学や高度なものを目指してカクヨムへ行く方……など色々な方が居て乱世ですね」
「人の設計を見てみたいという気になるのですが、おそらく設計“書“みたいなのを作っている人は稀だと思います」
「どういう設計でこういう小説になったの?と思ったのも多数……リサーチはできても参考にはなりませんでした」
「切ない」