名前を知られると命が無くなる?
「平安時代においては、相手を本名で呼ぶことはマナー違反とされていました。
当時の貴族社会においては、占いによって物事を決めるのが通例でした。
当時、名は諱と呼ばれ忌み名に通じるため、本名を呼ばれることは悪いこととされていたのです。
そのため、家族や親戚、夫や妻といった親しい間柄以外には基本的には自分の本名を知らされることがなかったのです」
Yahoo智恵袋だったか、Googleだったかでこんな回答を見た記憶があります。
「基本的に名は呼びません。名を『諱』と呼び、『忌み名』とも書くように、名を呼ぶのは忌まれました。
では、どうやって呼ぶかですが、基本は官職(役職)で呼びます」
と言うのも有りました。
基本的にはそうだったのでしょう。
成る程書物では、藤原忠平は『小一条太政大臣』、兼家は『東三条殿』などと高官は住まいで記載されています。引っ越したら呼び名も変わったのでしょう。
では、中・下級官人はどう呼ばれていたのでしょうか。『修理亮殿』などと役職で呼ばれていたのでしょうが、同じ官職に何人も居る場合はどうするのでしょう。前に住所を付けたのでしょうか。
何度も引っ越しをする人は大変ですね。後の時代のことですが、『源三位』と呼ばれた人もいましたね。こちらは、源氏の三位、官職では無く位階で呼ばれていました。
中・下級の公家の日常生活を考えてみましょう。久し振りに会った知人が出世したのを知らずに、以前の官職名で呼んでしまったら、大変失礼なことになりますね。
と言うことは、官人は臨時のものも含めて、除目には細心の注意を払って、誰がどんな官職についたか常に気にしていなければならなかったと言うことになります。ま、今の官僚も異動があった時の官報を見ながら、誰が出世した、誰は残念だったなどと話の花を咲かせるのは大好きですから、それは良いとしましょう。
ところで、除目は文書で発表されたのでしょうね。掲示されたのか回覧されたのかは分かりませんが、そこには諱が書かれていたはずです。『公卿補任』などもそれから拾ってつくられたと思われます。諱は公開されていたのではないでしょうか。
別の角度から考えてみましょう。当時、正々堂々の戦いをする際は、官姓名を名乗った訳ですよね。
「やあやあ、良うく聞け。我こそは、前鎮守府将軍・藤原秀郷が六男・六郎千方なり」
ってなもんですかね。
「諱と呼ばれ忌み名に通じるため、本名を呼ばれることは悪いこととされていたのです」
でも、敵にわざわざ諱を教えてやる訳です。一番諱を知られたく無い相手だと思うのですが。
また、源満仲が『多田のまんじゅう』と呼ばれていたことは、あちこちに書かれています。満仲と言う諱が広く知られていて、それを音読みすると『まんじゅう』と読めることを皆知っているから、『まんじゅう』と言うあだ名が成り立つのではないでしょうか。
安倍晴明についても、『あべのはるあき』と知られていて『せいめい』が成り立つ訳です。逆に、晴明が、住所や官職で呼ばれていた記載を見付けることは難しいのではないでしょうか。
「諱を呼ぶことは命を奪うのと同じ事で、例え主君でも憚られ、太郎や次郎と呼んでいました」
などと尤もらしい回答をして「ベストアンサー」とされていた方も居たように記憶しています。
先日ノーベル賞を受賞した先生が「教科書を疑え」と仰っていたのを思い出しました。
確かに諱を呼ぶのはマナー違反であり、日記や物語には書かなかったのだと思いますし、高官に付いて書く時もそうだったと思います。
録音が残っているはずもないので調べようもありませんが、案外、中・下級の官人や庶民は、私達が芸能人やスポーツ選手を呼びつけにして会話するように
「将門が攻めて来る言う噂やで」
とか
「今度の武蔵守は源満仲らしいで」
とか言っていたのではないでしょうかね。