源満仲。この面倒臭い男
源満仲の経歴については本当に悩まされました。
まず、武蔵権守の任期を終えていた応和元年(961年)に満仲の邸宅が強盗に襲撃される事件が起こるとの記録が有り、(949年〈天暦3年〉3月 = 『平安遺文』補262に在任記事 )従五位上との記録も有ります。
武蔵は大国であり、大国の守の官位相当は従五位上である。権官も守と同じ官位である場合が多いと言うことです。
しかし、16年後の記録に、左馬助在任時の康保2年(965年)に、多公高・播磨貞理らと共に村上天皇の鷹飼に任ぜられるとあるのです。左馬介の官位は正六位下です。
と言うことは、16年の間に満仲は4段階も降格してしまっていると言うことになります。どちらかが間違っていると考えるのが自然でしょう。
このことに気付いたのが、千方が武蔵権守・満仲に呼び出されるくだりを書く段になってからだったので、辻褄合わせに相当苦労しました。今更変えられない設定に関わっていたので、かなり強引な流れとなってしまいました。
安和の変後、満仲は密告の恩賞により正五位下に昇進したとあります。
その後、翌永延元年(987年)多田の邸宅において郎党16人及び女房30余人と共に出家してしまいます。
Wikipedia に記載の有る満仲の官歴は下記の通りです。
最終官位は正四位下、
経歴は、左馬助、鎮守府将軍、上総介、常陸介、武蔵守、摂津守、越後守、越前守、下野守、美濃守、信濃守、伊予守、陸奥守
となっています。
単純に4年の任期として計算すると、4X13=53 で53年掛かることになります。満仲が叙爵したのはそう若い時では無かったと思われるので無理があります。
勿論、初任の摂津守の時のように任期半ばで離任している場合も有りますし、後年は遙任として複数の官職を掛け持ちしていたと言うことも考えられます。
因みに、簡単に調べてみると下記のような結果となりました。
摂津守:天禄4年(973年)任官。天元6年(983年)再任
下野守:(985年〈永観3年〉頃)〔尊卑分脈〕
鎮守府将軍、伊予守については、「在任期間不明または在任に疑問のある人物」として満仲の名が有ります。
越後守についても、任期不明ながらその名の記載有ります。
上総介、常陸介、越前守、美濃守、信濃守、陸奥守については確認出来ませんでした。
清和源氏の礎を築いた人物ですから、盛られていても不思議はありません。
ただ、満仲と言えば、悪評が必ず着いて回ります。頼朝も満仲の悪評を消すことはできなかったようですね。
満仲を祀った多田神社の縁起には、勿論良いことが沢山羅列されています。
しかし、これにも矛盾が存在するのです。
「主祭神源満仲公、天禄元年(970)当時、攝津守であった公が一の宮住吉明神(現在の住吉大社)に参籠、御神託を蒙り此の地を開拓、源氏の居城となし」
と有るのですが、満仲の摂津守初任は天禄4年(973年)です。3年も前の天禄元年(970)当時に攝津守であったとされているのです。
突然の出家も不思議と言えば不思議。そんな訳で、満仲は単なるヒールとしてではなく、彼なりの信念を持って生き、苦悩した男として描いたつもりです。どれだけ描けたでしょうか。