将門・将門記の疑問への推論 2
2.除目で何故「武蔵守」を任じていないのか。
については、この小説の狙いからしても、当然、将門は秀郷を武蔵守にしたいと考えたが、秀郷が参陣していない時点で任じることは、他の者達の手前憚られたと言う設定です。
将門は、それほど秀郷を味方にしたいと望んでいたと言うことになりますが、私としては、この推論には信憑性があると思っています。
3.朝廷に反逆しているのに、何故、常陸、上総の親王任国の国司のトップを「守」にせず、そのまま「介」としたのか。
これは、後の4、5がそのまま答となっていると思います。
5.そもそも、将門には朝廷を倒そうと言う気持ちが有ったのか。
が先になってしまいますが、将門は朝廷を倒そうとは思っていなかった。
朱雀天皇を「本皇・本天皇」と呼んでおり、藤原忠平宛ての書状でも
「伏して家系を思いめぐらせてみまするに、この将門は紛れも無く桓武天皇の五代の孫に当たり、この為たとえ永久に日本の半分を領有したとしても、あながちその天運が自分に無いとは言えますまい」
としていることが傍証と思っています。あくまで、日本の半分を領有したかっただけなのです。
そして、それがそのまま、
3.朝廷に反逆しているのに、何故、常陸、上総の親王任国の国司のトップを「守」にせず、そのまま「介」としたのか。
の答となります。親王の統治権と「守」としての利権を排そうとはしていないのです。
4.それでいて、何故、同じ親王任国の上野だけ、守としたのか。
将門が新皇と名乗ることに反対して、弟・将平が将門と袂を分かち失踪したと思われます。
他の弟達を国司に任じていることから、当初、将平も上野介に任じようとした。しかし、その将平が失踪してしまった。将門としては、将平を連れ戻したいと思っていたのではないでしょうか。だから、そのポストに直ぐに他の者を当てたくは無かった。だから、将平のポストを空けておくために、暫定的に、多治経明を上野守としたのではないかと考えました。
将平を連れ戻せると思っていたのでしょう。将平が戻れば、そのまま上野介とし、多治経明は他のポストに着ける。「守」である親王の権益を侵す意図はなく、あくまでも暫定的な措置であったと考えました。
最後に
6.将門記を書いたのは誰か。
に付いては、勿論、全く分かりません。
将門の身近に居た僧ではないか、朝廷の事情に通じた公家では無いかなど諸説ありますが、その辺をひっくるめて、元公家で何らかの事情が有って官を辞し、比叡山に入って僧となった後坂東に下り、将平の師となっていた円恵と言う人物を設定しました。この円恵、乱後京に向かって逃走しますが、途中役人に怪しまれ、将門記を綴った木簡を焚き火の中に投げ込まれます。ここで、冒頭の部分が失われると言う設定です。
しかし、将門シンパの上司がそれを止め、円恵も将門記も決定的な難を逃れると言う流れを考えましたが、この辺は匂わせる程度にしました。
また後年、安和の変の前、千晴を嵌めるため身辺を探っていた満季が、後に捕らわれる僧・蓮茂が円恵と同一人物では無いかと疑うと言うおまけもつけました。