将門・将門記の疑問への推論 1
将門記には色々な疑問が提示されています。
1.冒頭の欠損部分には何が書かれていたか。
2.除目で何故「武蔵守」を任じていないのか。
3.朝廷に反逆しているのに、何故、常陸、上総の親王任国の国司のトップを「守」にせず、そのまま「介」としたのか。
4.それでいて、何故、同じ親王任国の上野だけ、守としたのか。
5.そもそも、将門には朝廷を倒そうと言う気持ちが有ったのか。
6.将門記を書いたのは誰か。
将門についての記述が幼年編の多くの部分を占めています。必然的に上記の疑問に対する自分なりの推論と回答が必要になりました。
1.については、「女論」とは何かと言うことが興味の中心となっていると思いますが、私は平真樹の姉が、伯父であり妻の父である良兼の前妻であって、即ち妻の実母と言う設定にしました。
つまり、護の娘を娶ることに寄って、良兼は、真樹派から護派に乗り換えていた。これが「女論」であると考えました。この女論に領地問題が絡み、護と真樹の長年の抗争が始まったと言う設定を取りました。
冒頭が欠落しているが、それに続くのが野本の戦いになります。女論はここに繋がる説明でなければならないだろうと言うことです。
真樹の娘が将門の妻のひとりと言う説が有りますが、その説は取りませんでした。
一番否定したかったのが、源護と平真樹の争いの調停に将門が乗り出したと言う推論です。
少なくとも、この時点に於いては、将門よりも護、真樹の方が遥かに大物なのです。それに異論が有る方が居るとしても、護の婿である国香の甥ですよ。そんな格下の者の調停に、少なくとも護が従う訳が有りません。恐らく、後年武蔵に調停に出掛けた将門のイメージからの推論でしょう。
将門は調停の為ではなく、真樹に与力する為に出向いたとする方が自然と思い、そう言う設定にしました。当然、武装していました。襲われる可能性が有ることも予期していたと思われます。
そうでなければ、奇襲を受け逆に討ち取ることなど出来なかったでしょう。