動機と書き始めるまでの経緯
拙作「藤原千方伝・坂東の風」(旧題:坂東の風)について、その他雑多な独り言を不定期に書くつもりです。
私は、歴史上の人物では織田信長、平将門が特に好きです。それで、「霊界放談」と言う架空の会話のみの、小説とも言えないようなものを他のサイトに書きました。
その時、頂いたコメントの中に、「将門の小説を書いてみては」と言うものが有りました。しかし、大御所を始めとして多数のプロ作家の方々が書き尽くしている歴史上の有名人を今更書いてみてもと言う気がありました。書くとすれば、将門が女だったとか現代人がタイムスリップするとか、所謂ラノベでしか無いのでしょうが、そう言うものを書くセンスは自分には無いと分かっていました。
ある時、地元に有る神社の縁起を読んで、将門を討った藤原秀郷の六男・千方が祀られていることに気付きました。
そこは「千方神社」と言う神社で、幼い頃から「千方様」と呼んで、境内で遊んだりしていた馴染み深い神社でした。「茅の輪くぐり」と言う祭事や初詣など良く行きました。幼い頃の感覚では「千方様」とは神社とほぼ同じニュアンスで、全国どこにでも普通にある神社と思っていました。
縁起を読んで将門との繋がりに気付き、千方の側から将門を書いてみようかと思いました。そこで、藤原千方に付いて少し調べてみると、四鬼を従えて朝廷に背き討たれた悪の将軍のことばかり出て来ます。全くの別人とする見方が多い中、秀郷の子と同一人物とする見方もありました。
因みに秀郷流藤原氏の系図を調べてみると、千方の名は、数多い秀郷の氏族の中でも一部の系図にのみその名が有る事が分かりました。
一部にのみその名が有ると言うことは、何らかの理由があって、その系図にのみ架空の人物が付けくわえられたか、逆に何らかの理由が有って、それ以外の系図から消されたかのどちらかと言うことになります。
幸い千方神社のすぐ隣に図書館が有ります。そこで調べてみると、「尊卑分脈」に千方の名は有りました。「尊卑分脈」にも誤った記載が少なくは有りませんが、「實者千常舎弟 鎮守府将軍云々」との但し書きが有りました。架空の者にこのような但し書きをわざわざ付けるだろうかと考えました。
秀郷の子・千方は居たと言う前提で書き始めることにしました。と言う事は、他の系図から千方が削除される事情が無ければならないことになります。
とは言え、藤原千方に付いての資料はほぼ有りません。縁起を元に秀郷や千常の記録を元に辻褄を合わせて行く他に方法は有りません。
寺社の縁起などと言うものは、神話や伝承を元に誇大に書かれているものなので、信憑性については相当疑って掛からなければなりません。
将門の乱後、秀郷の子らの私領が有ったことは確かなようでした。市史によるとこの辺りは草原若しくは萱原と呼ばれていたようです。千方は、秀郷の落とし種で草原で生まれたと言う設定にしました。
ただ、縁起の中で不自然で取り入れられないと思える箇所が1つ有りました。千方が修理大夫であったと言う記述です。
修理大夫は修理職の長官で官位相当は従四位下です。修理大夫の中には従四位上・参議となっていた者も多いようです。ここまで出世していれば、「公卿補任」にその名が有るはずです。しかし、その名は「公卿補任」の何処にも記載されていません。つまり、千方は公卿にはなっていないのです。
こんな経緯で旧題・「坂東の風」を書き始めました。