8.第一閲覧室4
「あそこから、飛んで来たのか……」
ミミは見ていた。三階の格子にぶら下がる虫。ここにいたかつての自分を、襲って殺した相手。
「……僕の血は、さぞ美味かったろうな?」
ミミは歯を噛み鳴らした。杖剣を差し向け、叫ぶ。
「30-410!」
ぎいっ!
虫は雷に撃たれ、背中から一階へ落ちた。ミミは周囲を確認した後、階段を駆け降りる。
虫は腹を見せて藻掻いていた。ミミはその腹に剣を叩き付けた。
「おおぁあ!」
ぎちぃ!
何度も繰り返し、虫の腹を打ち割ると、そこへ剣先を突き込む。
「30-410っ!」
ぎっ!
虫の腹は弾け飛び、大量のインクが飛び散った。インクはミミの体に付着する直前で宙空に留まり、インク壺へと吸われていく。
「はぁ……はぁ……」
ミミはそれを見ていた。
「……ふん」
「ふー……」
ミミは大きく息を吐いた。虫の骸が側に転がっている。
「ここも、これで全部だな……」
二階にいた虫。上階から降りてくる虫。ミミは注意深く殲滅した。
「……下からまで襲われたら、敵わんからな……」
ミミはインク壺を撫でた。
「……二度と死んでやるものか」
階段を登る。ミミは三階へと足を踏み入れた。
足を止めた。
「……」
ぎち、ぎち。ぎち、ぎち。
ミミの前に、二匹の虫が並んでいた。
「……糞っ」
虫は本を開き、インクを舐めている。二匹はすぐ隣にいた。
「そういうことも……あるのかよ」
ミミは剣先をゆっくりと突き付けた。
「……」
睨むように見据え、詠う。
「30-410──!」
雷光が迸り、そして。
「っ、お!?」
どかりと、背中に衝撃。首に冷たい息遣い。
ぎちり。
「か、ぁ──」
ミミは死んだ。
「……お帰りなさいませ、ミミ様」
「はっ!」
ミミは目を覚ました。図書館受付、アリアがミミを覗き込んでいる。
「虫の手に掛かられたのですね」
「……ああ」
ミミはゆっくりと上体を起こした。白い手袋を見つめた。
「……お休みになられますか?ミミ様」
「……ん。いや……いい」
ミミの姿はまた、ほんの少し、色褪せていた。
「……君の言う通りだな。僕はきっと、この先何度も死ぬことになる」
「いかにも、そうでしょう……それが、今の図書館の有様でございます」
「ふん」
ミミは立ち上がった。
「……それならそれで、考えようもあるものだ」
細く小さな、声だった。
ぎちぎち。ぎち、ぎち、ぎち。
「……糞虫どもが……」
ミミが三階に戻った時、三匹の虫は床を舐めていた。絨毯には薄いインクの染み。
余程、堪能したみたいじゃないか。
ミミは笑った。杖剣を抜き、両手で持つ。
詠い始めた。細く小さな声で。
「……31018」
密やかに。囁くように。
「962-3910-32-10162」
神秘の音韻が滑らかに連なる。
「──30-410」
ばちり。
切先に、雷が灯った。
「30-410」
ばちり。今度は剣の鍔本で。
「30-410」
ミミの右手で。
「30-410」
左手で。
「39010-2010」
ばちり、ばちり。稲光は這い回る。
「4」
切先から鍔本へ。鍔本から右手へ。右手から左手へ。
「8」
左手から切先へ。
「16」
ばちばち。ばちばち。雷は四点を循環し、その度に音と光を強めていく。
「32」
ばちり。
収束した。
「……02-3910」
青雷の宿る剣先が、虫を指し示す。
「2049-30-410っ!」
光芒が空間を裂き、迸った。
大音。枯木を割り砕いたような。
不快な臭い。灼けた埃と、焦げた絨毯。
「……どうだ……?」
死んだ虫。
三匹の兜虫は、皆死んでいた。
「……やった……か……ゔぅっ」
ミミは剣を取り落とした。白い手袋は焼け焦げ、爛れた掌が覗いていた。
「糞っ……痛ぃ」
ミミは胸元から羽ペンを取り出した。手が震えて、それも落とした。
「ぅうううう……痛いよぉ……糞、糞、糞ぉ」
拾い上げて、掌をなぞる。羽ペンは宙に溶け、インクが損傷を修繕していく。
「……はぁ」
ミミは剣を拾い、虫の死骸へ打ち付けた。腹を割り、インクを集めた。
「……一度、戻るか……」
ミミは階段を降り始めた。ゆっくりと、周囲に気を配りながら。
ベルカナベル35
魔導師ベルカナベル・ナルカナランカの手になる35番目の鉱石剣。白い石英の刀身を持つ短めの直剣。
紆余を経て魔術士ミラミオルミルに与えられた後、電雷を放つ触媒としての用途を見出される。刀剣としての性能にも優れており、鋭く砥がれた刃は大変頑丈で傷つくことさえ稀。
『リリリス』と名付けられたこの剣は魔術士ミラミオルミルを象徴し、長く彼に重宝された。そして持ち主の死後、後を追うように忽然と姿を消したという。