7.受付3
ミミは目を覚ました。埃っぽい古びた匂い。柔らかな赤絨毯。
「ぁ、れ……?」
ミミは起き上がろうとして。
「……っ!!」
はたと、腰の裏に手を回す。二度、三度、擦った場所に、
「……はぁぁ……」
何の痛みも傷も、無かった。
それでも、ミミの頬は血の気が引いて、薄桃色の瞳は揺れていた。強く握り込まれた指は、震えを隠すかのようだった。
死の記憶が、生々しいまでに、ミミの脳裏に焼き付いていた。
「お帰りなさいませ、ミミ様」
「……ああ」
背後からのアリアの呼び掛け。ミミは驚く気力もなく、力ない返事をした。
「虫の手に掛かられたのですね」
「……うん」
ミミは絨毯に座り込んだ。自分の掌を見つめる。
「……記述は滲み、掠れる……」
白い手袋は、しかしどこか色褪せて。
ほんの微かに、輪郭をぶれさせていた。
「……それが図書館の仕組みでございます」
アリアはミミに差し出した。海老茶色の、薄い毛布。
「少し、お休みになられると良いでしょう。死の経験は、人にとって……鮮烈に過ぎると申しますので」
「生憎ベッドはございませんが。どのソファで横になられても、今や咎める者もおりません」
ミミは受付を見回した。
「……なるほど。実に柔らかそうだ……」
ミミは適当な長椅子に転がった。ブーツを脱いで、毛布に包まった。
「しかし……人は死んでも尚、眠たくなったりするものなのだね……」
「利用者様は写し身とは言えど、心ある存在です。気持ちをお休めになるなら、お茶を一服するか、一眠りをするに限るでしょう」
「うん……道理だよ……」
ミミはフードを深く被った。受付の仄かな灯りさえ、暗く遮った。
「お休みなさい、ミミ様」
「……ん……」
ミミはあっという間に眠りに落ちた。青褪めた頬に、蝋燭の灯が照っていた。
「……ごゆっくりと、安らかになさいませ」
ミミは目を覚ました。フードの暗闇、体温を移した布。柔らかい長椅子から起き上がる。
「お早うございます」
「ああ……うん……おはよう」
ミミは何度か目を擦った。フードと手袋を脱ぎ、髪を梳いた。爪を撫で、手袋を着け直して、それからアリアを見た。
「あ……っと」
ミミはフードを被った。アリアは一連のそれを、見ないように振る舞った。
「どうぞ」
ことり。
ミミの前に、湯気を立てるマグカップが置かれた。黒い水面から芳香が広がる。湿り気を帯びた芳醇な香りは、図書館の古い空気を払っていく。
「粗茶ですが」
「……インクじゃないだろうね?」
「コーヒーでございますとも」
茶ではないんじゃないか。
ミミはマグカップを両手で包むと、眉根を寄せて口を歪めた。
「……僕は熱いものが苦手らしい」
「これは失礼を」
「いや……目覚めにはいいだろう」
ミミは温めた手を頬に添えた。顔に血色が戻り始める。それはまた、ミミの失った色彩が、まだ些少なものであることも示していた。
「……そう、僕は死んだんだったな……」
ミミはゆっくりと言った。アリアは静かに答えた。
「いかにも。……痛ましいことでございます」
「……ふはっ。そうだね」
ミミはマグカップと頬の手を入れ替えた。
「何とも……不思議な気分だ。ここに来てから、死んでばかりいる気がするよ。いや……ここに来る時にこそ、本当に死んでいて、今の僕にとって、死ぬことなんていうのは……取るに足りないこと、なのかな……」
ミミは自分の頬を抓った。唇を笑わせるように、引っ張り上げた。
「……これは結構、精神に来る。自分が分からなくなりそうだ。或いは僕が、特別に意志薄弱なのかも知れないが……」
ああ、そうだ。ミミは顔を上げてアリアを見た。
「記述が薄れたなら、直してもらえないか。インクは持っているから」
アリアは静かに答えた。
「いいえ。ミミ様のインクは失われていることでしょう」
「なんだって?」
ミミがインク壺を確かめると、中身は空になっている。
「……どういうことだ?いや、そうか。虫が取っていったのか」
「いかにも、ご明察でございます。虫はインクを求める者でございますゆえ、ミミ様の遺骸から、ある限りのインクを蓄えたことでしょう」
「……蓄えた」
「いかにも」
アリアは静かに告げた。
「できることなら……取り返すことでございます。虫は貪欲なれば、一滴漏らさず舐め取って、腹に収めていることでしょう」
けれども、お気をつけ下さい。
「……一度は敗れた相手でございます。お気をつけて、お臨み下さい」
ミミは暫く黙っていた。そして、ゆっくりと笑った。
「……上等だ。僕を殺した糞虫ども、熨斗付けてお礼を食らわせてやる」
ミミはコーヒーを煽った。マグカップを空にして、卓上に置いた。
笑みは、への字に歪んでいた。
「……僕は、苦いのも嫌いらしいな」
「これは、失礼を」
アリアはそれを、静かに見ていた。
羽ペン
くたびれた羽ペン。インクに浸せば一定量を保持し、乾くことなく常に濡れている。
振るうことで迸る少量のインクは、細かな記述の乱れを修正する。それはインクをそのものとして扱う、最も根源的な術である。
汎用永久自動人形、受付のアリアが自作したもの。さほど高い効果は望めない。