6.第一閲覧室3
大広間の上階は、四方を巡る回廊になっている。吹き抜けを横目に、ミミはゆっくりと進んでいく。
回廊は幅広い。大人が四人ほども擦れ違える。吹き抜け側には彫刻された格子。一定間隔でベンチが置かれていた。
そんな場所にも、虫達は蠢いていた。
「30-410っ!」
ミミの喉が不可思議な音韻を奏でた。青い雷が迸る。黒い甲殻に火花が散る。
ぎちいっ!
「でやあああああぁ……!」
虫が怯む。ミミは剣を突き出して体当たり。そのまま低く脚を踏ん張り、虫を裏返す。
ぎち!ぎち!
藻掻く虫の口元に剣先を宛てがい、ミミは呟いた。
「30-410」
雷光が虫の頭蓋を焼いて、虫は一度びくりと震え、動かなくなった。
「……慣れて来た。これが一番楽だな」
腹を割り、インクが宙を流れる。一連の動きにはもう、迷いや滞りはなかった。
とは言え。
「……はぁ。大変だ」
ミミは腰を軽く叩いた。ミミの小柄な体は、やはり、決して屈強ではないようだった。
ぎち。ぎち。
この図書館で、虫達が何をしているのか。
その答えを、ミミはもう知っていた。
角のない雌の兜虫。それは本棚から本を抜き出し、表紙を捲る。
「……器用な」
ミミは呻いた。虫の振る舞い。知性を持つかのような行動が、いやに不気味だったから。
ぎち。
そして虫は、本のページを舐め始めた。
ぎち。ぎち。
ゆっくりと。味わうように。きっと、そうしているのだろう。
インクを、舐めているのだ。
虫の腹に溜まるインク。それは、図書館の蔵書から抽出されたものだった。
「……恨むなよ」
虫がそうするように、ミミもまた、インクを求める。食事をする虫から大きく距離を置いて、ミミは石英の剣先を差し向けた。
「30-410──っ!?」
稲妻が放たれ、そしてミミは。
幾度目かの、打撃を受ける。
ぎちぃっ!
ミミがそうするように、虫達もインクを求める。
それはまた、いつかの兜虫が、ミミの腹を啜ったように。
ミミが虫の腹を裂き、インクを啜るように。
「──ぁ、っ」
気を配っていた筈だった。しかし、ミミは不意の襲撃に対応できなかった。
後ろから襲われ、顎を強く打った。口の中に広がる血。
頭蓋が揺れる。五体の感覚が失われ、閉ざされた視界に星が散る。
「……ぃ、ぎぅ!」
前後不覚。それが戻り、やがて来る痛みに、呻く暇も無く。
ぎちぎちっ!
虫の顎に、如何なる牙があるものか。
ぞぶり。
ぞぶりと、ミミの骨肉に、食い込んだ。
うつ伏せのミミの脚を抑え込む形。虫の顎は腰上の付近に突き立って、そして。
がり。
脊椎を、囓った。
「っく、ぁ──……!!」
声にならない、ミミの叫喚。ミミは目を大きく見開き、口を震えるように開閉させて、息を吸うことも吐くこともできずにいた。
「……ぁ、……ぁぅ、ぅ」
ほんの身動ぎさえすれば、下半身が千切れてしまうような。そう直感するほどの痛みが、ミミを襲っていた。
ぎち。ぎち。
がりっ。がりっ。がりっ。
「──っ!……ぁ!……ぅぁ!」
壮絶な呵責が、ミミを痛めつけた。眼尻からは涙が、口の端からはインクの混じった唾液が零れる。鋸のような虫の牙はミミの体に深々と突き刺さり、骨まで達し、そして。
ぎち。ぎちり。
「……ゃ。やだ、やめて……」
痺れるような激痛の奥、ミミは感じ取っていた。虫の顎が遂に、脊椎を囲うほどに喰い込んだこと。
噛み砕き、引き千切ろうとする、無機質な甲殻の意思を。
かり。さり。牙と擦れる、黒く濡れた骨が目に浮かぶようだった。
「やだ。だめ。お願い、お願いします。嫌、やめろ、やめて──」
虫は、噛み砕いた。
酷く乾いた、破砕の音。
奇妙なほどに大きく響く、脊椎が割れた音。
「──っ」
ぶちぶちぶちいっ!!
咬んでいた骨肉諸共、引き千切る。
熱と共に噴き出した、痛みというにも生温い、絶望的な破断の感覚。
「ぅああぁあぁあああアァアアアァアアアアアア……!!!」
ミミはとうとう、絶叫した。
ぐち。じゅる。じゅる。ぐちり。
骨の除かれた傷口。溢れ出す黒い血を、虫が啜る。
断続的に叫びを上げ続けたミミは、やがて声さえ尽き果てて、今は浅い呼吸だけを零していた。
じゅる。じゅる。にち。ぐち。
「……、……」
びくり、びくり、背が震える。フードの奥、薄桃色の瞳は涙さえ渇き、ひたすらに虚ろだった。
その目の前。
とすり。
ぎち、ぎち。
赤絨毯を踏んだのは、虫の脚。
始めにミミが狙っていた、もう一匹の虫。それがミミの頭を跨ぐように、現れたのだった。
虫はミミの首筋に、冷たい顎を据える。
「──ぁあ」
ぶちり。
そうしてやっと、ミミに終わりが訪れた。
インク壺
インクの入った小さな壺。紐が取り付けられている。
インクを独りでに集める不思議な容器。どんなに揺らしても中身が零れることはない。汎用永久自動人形、備品のアリエルにより作られた便利な道具、その一つ。