5.第一閲覧室2
「うおあああああ……!」
ミミは剣を腰だめに構えて、兜虫にぶつかった。深く刺さった剣を手放し、肩を使って押し上げる。
「せえええええい!」
ごろりと、虫を引っ繰り返す。
ぎち。ぎち。虫は緩やかに足を動かし、起き上がることなく息絶えた。
「はあ……はあ……」
ミミは周囲を見回した。壁際。本棚。書机。椅子。
虫の影は見当たらない。
「ふう……よし」
ミミは剣を引き抜き、腹を割る。手管には少しの慣れが見えた。
インクを壺に収め、ミミは改めて周囲を確かめる。
「……もう、居ないかな……」
地上一階。赤絨毯の上に、虫は見当たらない。
「これでどうだい?」
「やってみましょう。その剣について、で宜しいのですね」
「望めるなら、是非にも」
アリアはまた、万年筆をインクに浸し、図書カードに滑らせた。インクの染みが広がるように、剣が輪郭と色を取り戻していく。
「おお……おおお……!」
白。
半透明。白濁した氷のような。
けれども、どこか暖かな。
灯火を吸い、幽かに煌めく。
その刀身は、晶石でできていた。
「これは……石英、でしょうか」
「そう……そうだ。その通り」
巨大な石英を削り出したようにも、無数の石英を圧し固めたようにも見える、不思議な剣。それがミミの第一の佩刀だった。
そしてまた、ミミの脳裏には、その剣の本来の扱い方がまざまざと思い出されていた。
ミミは呟いた。
「30-410」
どんな言葉ともつかない、奇妙な発音だった。母音と子音が複雑に入り混じって、単語を切り出すことが難しいほどに流暢な。
そして、どこか風雅な。優美な。
夜の海に詠うような。
湿った風に囁くような。
冴えた星月に祈るような。
それは、神秘を呼ぶ音韻だった。
ばちり。
「……雷」
「そうだ」
石英の刀身は、青い稲光を纏っていた。
「この剣は『リリリス』。僕の杖だよ」
「30-410!」
青い雷光が迸る。それは兜虫の鼻面を強かに打ち据え、大きく怯ませた。
ぎちぃっ!
「ぇええええええいっ!!」
ミミはまた、剣を構えて突き上げるように体ごとぶつかっていく。虫を刺し殺し、裏返して腹を割る。
宙を滑るインクを尻目に、周囲を見回して一息をついた。
「……大分、楽になるな。やることは変わらないけど」
雷の魔術は、虫を遠くから打ち、怯ませる。それはミミにとって大きな助けとなった。
「よし、よし……行ってみよう」
ミミは上階へ向かうことにした。
階段にも絨毯は敷かれていた。手摺には細工が施され、良く磨き上げられて、黒く光っていた。
この図書館は何なのだろう。
ミミは疑問を抱いた。抱かずにはいられなかった。
豪奢な造り。行き届いた手入れ。
莫大な蔵書は知らない文字で著されている。
汎用永久自動人形。インクを啜る虫。
図書カード。利用者。
誰が造った?何の為に?
「……マクルア・ツェリス記念図書館」
人名だろうか。その人物の何を記念するものなのか。
図書館は本来の在り様を失っているという。今ミミが巻き込まれているのは、誰の求めた事態なのか。
分からないこと、知り得ないことだった。
それでもミミは考えた。考えずにはいられなかった。
そして。
「──ぁ、」
どごっ。
「全く……!全く……!」
ミミは絨毯を殴った。体のあちこちがインクに汚れ、ずきずきと痛む。
「僕は、ほとほと、戦いには向いていないんだな……」
ミミは嘆息した。次には、憤った。
「……悪いと言えば、状況が悪いんだ。魔術士の僕がなんでこんなことをしなきゃならない?」
周囲を確かめた上で、ミミはまた考えた。先程とは異なることを。
「生きていた頃は、どうしていたんだろう……」
雷の魔術は、戦いの為の業だった。剣と共に蘇ったということは、恐らく、最も剣に馴染んだものなのだろう。
ミミは剣と共に。剣は戦いの魔術と共に在った。けれども、ミミと戦いは近しいものではないようだった。
その意味する処に、ミミは思い至っていた。
「……誰か、居たのかな」
この魔術はミミの為のものではなかった。ミミが考えたのかも知れない。編み出したのかも知れない。だからこんなに剣に馴染んでいたのかも知れないけれど、活用したのはミミではなかった。
戦士。
魔術士の前に立つ、誰か。
その概念は、記憶の穴にすっぽりと収まるようだった。
「……居たのかも。でも……」
だとしても。
「……僕は今、独りだ」
誰も。
ミミの前には、誰も居ない。
「……行くか」
ミミは剣を携え、立ち上がった。