4.第一閲覧室
石の廊下には灯火が焚かれ、床は綺麗なものだった。壁には絵画や美術品が並べられていた。
ことり、ことり。
ミミは歩いた。やがて何事もなく廊下は終わり、ミミは敷居を跨ぐ。
もすり。
足音が消えた。
大きな、大きな、吹き抜けの広間だった。
高い天井まで、階層は五つ。その一つ一つがミミの背丈の三倍を超え、壁一面に書物を蔵している。
巨大なシャンデリアが、橙色に広間を照らす。仄明るく、陰は色濃く、ぼうっとして。
床には暗い赤の絨毯。無数の机が並んでいる。椅子は整然と収められ、人気を全く感じさせなかった。
マクルア・ツェリス記念図書館。
その、威容だった。
「……何とも、見事な……」
ミミはふらりと足を進めた。ミミにはどうやら、知恵を求める強い本能が備わっているようだった。壁際に寄り、本を取る。
「……読めない」
それはミミの知らない文字だった。或いは、ミミが文字さえ知らないのか。
ミミは図書カードを取り出した。打刻された名は『ミラミオルミル』。
ミミはその文字を、読むことができた。
「……ならこれは、何語なんだ」
手につく限り、読める本は一つもなかった。
どごっ。
重く、鈍い音がした。ミミの視界はにわかに暗く閉ざされた。
「……ぁ……っ!」
なんだ?なにが……?
ぎち。
その音を聴いた瞬間、ミミは身体をめちゃくちゃに動かして、どうやったのか立ち上がった。
つまり、ミミは倒れていた。
「……っ、はぁ、はあっ……!」
額が痛んだ。液体が顔を伝う感覚があった。ふらつきながら振り返る。
ぎちぎち。ぎちぎち。
角のない雌の兜虫。黒い甲殻が、遠い灯火を照り返していた。
ミミは思わず苦笑した。生前、自分は戦いというのに無縁だったらしい。警戒を解き、不意討ちを許した。
「無様な」
そんなミミでも、剣は握れる。どこかで習ったのかもしれない。
「……ぅわぁああああああっ!!」
叫び、両手で突き込んだ刃は、
ぎちいっ!
幸運なことに、虫のどこぞを深々と貫いた。
剣は突き刺すよりも引き抜く方が難しかった。ミミは兜虫を何度も蹴りつけ、椅子を持ってきて繰り返し殴打し、ようやく弱らせた。剣をどうにか引き抜いて、改めて兜虫の頭を口元から串刺しにした。
それで虫は動かなくなった。
「はぁ、はぁ……ふぅぅ……」
ミミが思わず額を拭うと、灰色のシャツがべったりと黒く汚れた。それを見て、思い出したように頭がずきずき痛み始めた。
「あぁ……糞っ……。どうして僕がこんな目に」
ミミは再び剣を引き抜いた。
『インクは虫の腹に宿る』。それを確かめなければならなかった。
「……動いているより、死んでいる方が気持ち悪いな……畜生め」
躊躇いがちに、ミミは実行した。
輪郭のぶれた剣先は、硬いものを突き破り、軟らかいものを掻き分けていった。ミミの両手には、その感触がまざまざと伝わってきた。
「ぅぇぇ……」
刀身が根本まで沈み込むと、ミミはそれを横へ動かした。脆弱な虫の腹部は割り開かれ、そして。
とろり。
とろりとろり。
漆黒のインクが、零れて。
しかし、垂れることはなく。導かれるように浮き上がると、ミミの腰元、インク壺へと吸われていった。
「ほう……」
その工程は短かった。数秒にして虫の腹は潤いを失い、インクは容器に収まったようだった。
「これまた、不思議な……」
ミミはインク壺を取り上げて眺め回した。それはインク壺だった。
試しに引っくり返してみると、インクが零れることは無かった。たぷりと波打ち、口元にまで落ちかかっている。それでもなお。
げにも不思議な、インク壺だった。
「……図書館とは、いったい……っあ、」
どごっ。
「まったく、僕という奴は……!」
二匹目の兜虫を屠ったミミは、両膝をついて慨嘆した。同じように腹を裂き、インク壺にインクを吸わせた。
ミミの体はインクに汚れていた。また、あちこちが強く痛んだ。ミミは身動きの度に顔をしかめた。
「糞……ほんと糞……あぁ、これ使ってみるか……」
ミミは胸元から羽ペンを抜き取り、インク壺に浸した。少し迷ってから、シャツの腹に大きく線を引いた。
ぶわりと、インクが舞った。
「お?……おっ?」
少量のインクがミミを取り巻き、包み込むと、痛みや汚れは全くなくなっていた。
「おぉぉ……」
フードの陰で、薄桃色の瞳が輝いていた。
「……魔術だ……!」
「……それで、取って返して来られたというわけですか」
「その通りだ!僕は魔術士だったはずだよ。とてもそんな気がする。こうしてインクも持って来たから、また何かしらを戻してくれ」
決して、怖気づいたのではないからね。ミミは念押しをした上で、インク壺をカウンターに置いた。
「……まあ、最初ですから。あまり多くはありませんが、やってみましょう……ああ、その前に」
アリアはミミの胸元にある羽ペンを指し示した。
「羽ペンは一度インクに浸けてしまうことをお勧めします。そうすれば、いつでも使えますので」
「大丈夫なのかい?」
「汚れることも、乾くこともございません。これはそうしたものなのです」
「分かったよ」
ミミは四本の羽ペンをインク壺に浸した。羽ペンはインクを蓄え、滴ることもないようだった。
「このインク壺も……不思議なものだ。便利でもある」
「これは本来、当館の備品や購買物として製作されたものです。倒れても零れないインク壺や、インクを多く保持する筆記具。利用者様は、しばしばそうしたものをお望みになられました」
「分かるよ。共感できる……僕の版元も研究者だったのかな」
「では確かめてみましょう……インクが足りるかは分かりませんが」
「少ないかね?」
「……潤沢ではありませんが、さて」
アリアは手元の万年筆をミミのインク壺に浸し、また図書カードに一線を引いた。
ミミは不思議な心地を味わった。脳裏にインクが染みるように、記憶と知識が広がっていく。
図書館にいては知るはずのないことを。
図書館にいなければ知っていたことを。
それは例えば、ベッドの固さとシーツの手ざわり。
パンが一つ、卵が一つ、林檎が半分、薄い牛乳。いつもの朝食の味。
洗い替えの『学徒』の服。人目を憚るフードのついた肩掛けマント。
小さな研究室と、筆記をする自分の右手。
腰に下がった二つの重み。
「おお……おおお……!」
ミミは驚嘆した。自分が自分を取り戻していく。失っていたものを。奪われていたものを。
その感覚は、ミミにとって快いものだった。
そしてまた、記憶の中に、ミミは見出すべきものを見出した。
「確かに、僕は魔術を使っていた……」
ミミは手元に目を落とした。輪郭のぶれた、短めの直剣。
「……こんなところまで、来てくれたんだね」
ミミは剣を撫でると、アリアに差し出した。
「これだ。僕はこれで魔術を使える。元に戻してくれ」
アリアは静かに告げた。
「インクがもうありません」