3.受付2
「ならそのインクはどこから持って来たらいいんだね」
ミミは訊ねた。アリアは静かに答えた。
「虫の腹から取り出すことでございます」
「虫……って」
「貴方様も目にされたかも知れません。この図書館を蚕食する大きな虫。彼らは腹に鮮やかなインクを蓄えております」
ミミは思い出した。己の腹を喰い破り、黒血を啜った雌の兜虫。
「……あれを?」
「いかにも。打ち殺して下されば、図書館にとっても喜ばしいことでございます」
アリアはまた、何かを思い出したようにカウンターを探った。やがて小物を一つ、カウンターに置いた。
「これも差し上げましょう。インク壺と申します」
蓋のないインク壺だった。首に細い紐が巻かれ、結わえて吊り下げられるようになっていた。
「虫を殺して腹を割れば、そのインクを独りでに集めるものです」
「蓋がないようだが」
「不思議と溢れることはございません」
「へえ」
ミミはインク壺を手に取った。透明な硝子の小さな容器。ミミは腰のベルトに吊るしておくことにした。
「これでいいかな?」
「よろしいかと存じます」
アリアは更に、都合五本の羽ペンをカウンターに並べた。
「これも差し上げておきましょう。貴方様が傷ついた時、インクに浸してお身体をなぞれば、傷を癒やすことができます」
「さっきの僕にしたようにか?」
「いかにも。この図書館において、傷病は記述の乱れに過ぎません。その羽ペンは乱れを正し、図書カードの記述に準じた姿を再び描き出すことでしょう」
「なるほどね……五本もいる?」
「一度使えば溶けて消えるものでございます。新しいものがご入用ならば、私にお申し付け下さい」
「対価はなんだね?」
「インクでございます」
「なるほど」
ミミは少々迷った末に、羽ペンをベストの胸元に刺し込んだ。
「……つまり、何にしてもインクが要るわけなんだ」
「いかにも、その通りでございます」
「ではそれは分かったよ。僕が僕を取り戻すためにはインクが必要だ。じゃあそうしたとして、この図書館はいったい何なんだ?何ができる?どうすべきなんだね?」
ミミはフードの影からアリアを見上げた。
「まるでたちの悪い遊戯のようだ。この図書館は、それと君達は、僕に何をさせようとしているんだ?」
アリアはまた、静かに答えた。
「……どうか、探究を」
アリアは目を伏せた。慨嘆の相だった。
「……我らの主はいつからかお見えにならず、図書館には虫が蔓延るようになりました。そして時を同じくし、貴方様のような利用者様がやって来るようになったのです。きっと何かの因果があるのでしょうが、私達はそれぞれの持ち場を離れることができません」
「君の他にも人形がいるのかい?」
「いかにも、おります。我が四体の妹達は、この図書館に散り散りになってしまいました。……願わくば、彼女達をもお救い下さい。そして恐らく、現在この図書館に起きている異常。その根元を探究し、解明することこそが、唯一の方途なのではないかと思われてなりません」
「……なるほどね」
ミミは小さく溜め息をついた。
「……分かったよ。僕はまず、僕のためにインクを探し、この図書館とやらを探ってみよう。それが果たして君のためになるか、知らないけれどね」
「きっと、そうなることでしょう……けれど、お気をつけ下さい」
アリアはミミを見据えて、図書カードを指し示した。
「この図書館で、貴方様は幾度となく死ぬことができます。蘇ることができます」
「……ほう」
「図書カードの記述を参照し、図書館は貴方様を描き出します。けれど幾度も描き直すうち、記述は滲み、掠れていってしまいます」
お気をつけ下さい。アリアは言った。
「いつか名前さえ失った時。貴方様はこの図書館においても、また、灰と塵に帰すでしょう」
「そう言えば、この剣は変わらないのか」
輪郭だけを残した、小振りの直剣のようなもの。ミミは知らぬ間に携えていた。
「恐らく、生前の貴方様と縁が深かったのでしょう。何か憶えておられますか?」
「いいや、何も……これもインクか」
「はい。インクを用いて細かな描写を取り戻せば、きっと貴方様の力となるでしょう」
「分かった。頼りないけど……頼るしかあるまい」
「行ってらっしゃいませ……ご武運を」
「……何だか、僕には似合わない言葉だね」
ミミは小さく笑って、受付のカウンターを離れた。カウンターの横には大きな廊下が口を開けている。
輪郭のぶれた剣を手に、ミミはゆっくりと歩いていった。
インク
図書館に満ちる具現の力、その結露。どこか古びた匂いがする。
生々しいインクは虫の腹に溜まる。欲するならばそれを割り裂き、啜るとよい。