2.受付
ミミは目を覚ました。
埃っぽい古びた匂い。柔らかな毛足の赤い絨毯。薄明かりに濃い影が揺れた。
「ここは……」
ミミは跳ねるように起き上がった。
「っ!……何も、いないか……?」
「いいえ」
「わっ!?」
ミミが慌てて振り向くと、背の高い女が一人、立っている。長い金髪と青い瞳。司書服を着て、ミミを見下ろしている。
「いらっしゃいませ、利用者様。マクルア・ツェリス記念図書館へようこそ」
女は静かに告げた。
「私は汎用永久自動人形、受付のアリア。本日は何をお探しでしょうか」
ミミは辺りを見回した。高い天井の大広間。本棚は見当たらない。
「図書館……?ここが?」
「いかにも。マクルア・ツェリス記念図書館、ここはその受付でございます」
アリアは答えた。
広間の大半は柔らかな椅子と何種類かの机が占めている。一人用のものや、驚くほど大きいもの。中ぐらいのもの。低いもの。高いもの。
壁際には壺や絵画などの美術品が飾られている。大きな硝子のケースは、中に何も入っていない。
奥には受付のカウンターがあった。その横には大きな通路が口を開けている。
ミミとアリアは机の一つに着いて、話をしていた。
「自動人形……とは?君は何なんだ?」
「汎用永久自動人形でございます。当館を維持管理するための、摩耗しない労働力として配置されました」
「……僕を利用者と言ったな。僕に何が起こっているか分かるか?」
「ある程度は存じております。お聞きになりますか?」
「聞く」
アリアは静かに語り出した。
「当館は現世にあるものではありません」
「……では、僕は」
「既に何らかの事情でお亡くなりになっています」
「……続けて。この体はなんだ?」
ミミは手を翳した。色を失い、輪郭を幾重にもぶれさせた姿は、線描画のようだった。
「貴方様は図書館が描き出した似姿に過ぎません。その元となる情報が滲んでしまうと、そうなるのです」
「……似姿、とは」
「そのままの意味でございます。利用者様は、ご自身のお名前を憶えていらっしゃいますか」
「は?そりゃあ……」
ミミは言えなかった。何も言えなかった。
「……つまり僕は……偽物に過ぎないということか……?」
「現世に生き、情報源となった人物は既に落命しています。そちらを原本と言うのであれば、こちらにおられる貴方様は複製であると言えましょう」
「……」
ミミは少しの間呆然と黙り込むと、やがて大きく嘆息した。
「……悪い夢か、冗談みたいだ」
「私にとって、この図書館は現実のものです。恐らくは貴方様にとっても」
「幽世のものではないのかね……」
「夢幻の類ではありません」
ミミはまた、しばらく沈黙した。そしてまた大きく息を吐くと、ぶっきらぼうに問い掛けた。
「……僕は何者だ?」
「ええ」
アリアは小さく微笑んだ。
「お教え致しましょうとも。ここが貴方様の現実であれば」
二人は受付に場所を移した。アリアはカウンターの裏から何かの機械を取り出して、どすりと置いた。
古びて黒ずんだ木材、真鍮色の金具。レバーが一本伸びていて、その湾曲が灯明に照り輝いている。
「これは?」
「図書カードの発行機です」
「ほう?」
「より厳密に言えば、貴方様はまだ当館の利用者ではありません。ここで図書カードを発行して、初めてそうなるのです」
さあ、お手を。
アリアの催促に従い、ミミは機械に手を差し込んだ。アリアは機械のレバーを降ろした。
がちがちがちん!
「ぅわ!?」
「そのままでいて下さい。何でもありません、すぐに出来上がります」
やがてアリアがレバーを上げ、中の物を卓上に置いた。
真鍮でできた、小さな金属板だった。黒いインクで書かれた文字は、滲んで掠れてしまっている。
「これは貴方様が図書館利用者である証。図書館はこの記述を参照し、貴方様の姿を描き出します」
或いは、貴方様に残された記述だけが、図書カードに顕れます。アリアは告げた。
「貴方様のお名前は、『ミラミオルミル』。そうでございましょう?」
そうだった。
「……ミミと呼ばれていた、気がする」
「では、ミミ様と」
「ああ。それで、僕の姿は何も変わっていないのだが?」
ミミは図書カードを眺めた。『ミラミオルミル』の名が打刻された金属板は、それ以外の多くの文字が滲み、掠れて、失われている。
アリアは静かに答えた。
「いかにも。それはただ有様を写し出すのみです……ですが、初めだけは私がインクを融通致しましょう」
「ほう」
アリアは手元の万年筆を取った。インク壺に軽く浸し、無造作に図書カードをなぞる。
「……何をしてる?」
ミミは疑るような声を上げた。アリアはただ、金属板に黒い線を引いただけだったから。
「すぐに解りますとも」
アリアは万年筆の先でミミの胸元を指し示した。その無作法を咎める前に、ミミはそれを見た。
インクの染みが広がるように。
体が色と輪郭を取り戻していく。
灰色のシャツ。濃緑色のベスト。臙脂色のリボンタイ。暗灰色のズボン。白い手袋に、古びた革のブーツ。
目深に被ったフードのついた、黒い肩掛けマント。
「……これは」
「いかにも。貴方様のお姿です……お顔が隠れておりますね?」
「……っおい!」
「インクの代金とお考え下さい」
「あっ、ちょっ!」
「……ほう、これは」
ミミがどうする間もなく、アリアはフードを取り払った。
珍奇な薄桃色の髪は真っ直ぐでやや長く。
同色の瞳は丸々と大きく。
滑らかな肌は透けるように白く。
小振りな鼻はすっと通り、小さな唇は淡く色付く。
「可愛らしいものではありませんか」
「うるさいっ!」
ミミは頬を真っ赤に染めて、円らな瞳を精一杯に吊り上げた。カウンターから飛び退り、またフードを目深に被った。
「ふざけるなよ、貴様!」
「これはご無礼を……ところで、どうしてそんなに憤ろしいか解りますか?」
「それは……あれ?」
ミミは首を捻った。思い出せなかった。
「……解らない。でも、何か忌まわしいものだったように思う」
ミミは肩を落とした。
「僕は本当に紛い物だな……」
「いかにも。貴方様はインクによってお姿を取り戻され、けれども記憶はそうではありませんでした」
「……ということは、インクがあれば?」
「いかにも。更なるインクがあれば、私が図書カードを追記致しましょう」
アリアはミミを手を取り、微笑んでみせた。
「望むのならばインクをお求め下さい。この図書館では、ただそれだけが確かなのです」