語らせてくれよ
警察官は震える手で銃を男に向けるが、がたがたと震えて狙いが定まらず、ついには拳銃を地面に落としてしまう。
「こいつを殺して全てが終わる。 ……しかと見届けな!」
男にそばには一つのベッドがあり、中には一人の少女が横たわっていた。少女は手だけを動かして何かを行っているが、誰も気にしない。
暗く、重い雨がざあざあと降っているほかは、3人を邪魔するものは何もない。壊れた機械のように思い通りに動かない手で、再度銃を手に取り、
「なんでこんなことをする! その子はやっと目覚めたばかりなのに、それを、こんな……!」
警察官は銃の焦点を合わせた。だが、上下左右ふらふらと動いてこのままでは男にあたる気配すらない。男は銃を向けられても怯えることなく、それどころか大きく笑った。
「ヒヒヒヒひゃははは! ほら、当ててみろよ! 俺を殺して見せろ!」
左手で手招きして警察官を挑発、右手はナイフを握っている。刃先にいるは少女の弱弱しい足である。何年も動いていなかったので、砕けそうなほど脆い足だ。
男がナイフを足から顔寄りへ手前に動かすと、クレーンゲームのようにプラプラと移動していく。今に、心臓に近づこうかとしていた時――。
急に男が刃先を振り下ろした。鋭利な刃物が少女の生命を絶たんと襲い掛かる。
「あぁあああ! やめ、やめてくれ!」
が、ナイフは少女の横に突き刺さるだけだった。警察官は呻きか、懇願かどちらともいえない声を喉から吐き出すと、床に突っ伏してしまう。まだ、30近い年齢だというのに警察官の顔にはしわが大量についていた。彼を知らないものが見れば、50後半というものもあるかもしれない。それほど、警察官は長い間疲弊していた。
間抜けな警察官を見下ろすと、男は邪悪な笑みを浮かべる。しかし、すぐに冷たい目に戻ると少女を睨んだ。憎しみのこもった目で呪い殺すように粘着に見続けている。
雨に打たれているのにかかわらず、少女は同じ動作を繰り返していた。一方の手を首に、もう一方の手を手の後ろにおいている。置くと手を上にあげて男を見上げ、また手を下げる。
「……素直に答えてくれるなら、病室で少し話すだけだったんだがな」
それは、男の最初の目的ではあったが、今はそうではない。
本来なら、病室で少女が目が覚めた後に一つか二つ聞くだけと、男は思っていた。『あの事件』から10年経っているが、どうしても知りたいことが男にはあった。そのために男は少女の医療費を出した。血がつながっているわけではないのに、累計で何百万は払い続けた。
暇があれば少女の目覚めを待った。周りからはストーカーだの、身の程知らずだの言われるが男は何も気にしない。『あの事件』で全てを失っているので、他の事には興味がなかった。今日こそは起きていてくれと病院に行く度に思い、看護師から退出を迫られるまで居座る日も多かった。
そして、10年の月日が流れた今日。少女はやっと重い目を開けてくれたのだ。男は少女の目が開いているのを確認すると、自然と口から言葉が出そうになる。目の前の光景が男はすぐには理解できない。それでも、長年の間少女の口から聞きたかったのは、
「わざと殺したのか? それとも、偶然なのか」
一言一句正確に男は発した。だが、少女は一回うなずくと、首を横に振るだけ。どうやら、喋る事が困難になっているらしい。しかし、男もそれくらいは予測しているので、ボロボロのバッグから本を何冊か取り出すと、少女に渡す。本の中身は手話であり、少女がたどたどしく本を読むのを男はじっと待つ。まもなく、本をパタンと閉じると少女は不器用に手を動かしていく。それは――。
「……このサインなんだか、知ってるか!? ……殺してくださいだよ……! 違う! 俺が聞きたいのはそんな事じゃない。……お嬢ちゃんよ、頼むからイエスかノーで答えてくれよ!」
男の叫びは激しい雨にも負けない程けたたましい。まるで神が共感したかのように、ピシャリと雷が鳴った。呼応するように、雨は一層激しさを増す。
気が狂ったように慟哭する男を見て、警察官も泣いた。雨とともに頬を伝る涙は何なのか警察官も知らない。ただ、感動に揺り動かされるままに、目を真っ赤にしていく。相変わらず、少女は同じ動作を何度も繰り返している。
「もしあの時、外出を許可しなければ――」
まもなく、さながら己が少年になったかのように、男は幼い口調でぽつりぽつりと喋り始めた。
▽
僕の名前は佐藤樹。公立小学校に通っていて、友達と遊んだりそれなりに楽しい毎日を送っている。でも、女の子とはめったに遊ばないんだ。鬼ごっことか、缶蹴りをするので男友達と遊んでばかり。泥だらけになって、夕方には帰ってご飯を食べるのが日常さ。
でも、実をいうと家は嫌い。だって誰もいないんだもの。真っ暗な部屋で一人さみしくご飯を食べていると、お化けが出てきそうで怖くなっちゃう。お父さんは夜遅くにしか帰ってこないし、兄妹もいない。
――お母さんは死んじゃったんだって。でも、僕は死ぬって何のことかよくわからない。いつか帰ってくるんじゃないかって思っているんだ。けれど、お母さんを泥の中に埋めた時は思わず、泣いちゃった。そしたらお父さんもハラハラと涙を流して、僕をぎゅっと抱きしめたんだ。そしたら、さらに涙が出てきちゃった。なんで涙が出たのかよくわからないけど止まらなくなっちゃった。
だけど、僕はさみしくはないよ。お父さんがいるから。お父さんはいつも優しくて、強い。忙しくて、授業参観に出てこれないのは残念だけど、この間の運動会は見に来てくれた。僕すっごくうれしかったんだ。それで、リレーで一位を取ってお父さんにメダルを見せにいったんだ。
「どう! 僕やったよ……!」
そしたらお父さんは優しくこういったんだ。
「えらいぞ! いつきは将来は陸上選手になるかもな!」
へへ。誉めてくれた。それだけで頑張ってよかったって思える。来年も頑張ろうと、僕は誓う。そしたらお母さんも帰ってきてくれるよね、きっとそうだよ。そうに決まってる。
それに、最近は女の子とも遊ぶようになったよ。学校は違うけど、同じ学年の2年生。千代ちゃんっていうんだけど、とっても運動神経がいいんだ。千代ちゃんも両親の仲が悪くて家にいたがらないので、よく夜の公園でブランコに座っていたのを僕が声をかけたのが始まり。
千代ちゃんは女の子なのに活発で山へ登ったり、川へ行ったり。僕達の住んでいるのは田舎なので、自然が遊び場だ。網で魚を取って、くし刺しにして食べたこともあったけ。傷ついた鳥を見つけた時は家に持ち帰って元気になるまで世話してあげた事もあった。
最近は遠くの街まで自転車をこいで都会の品物を見るのが千代ちゃんのお気に入り。都会は僕達の住んでいる田舎と違って建物が高いんだ。それに、映画とかいうのに入ってみたけどびっくり。大きい画面で面白い話が展開されているのは目をぱちくりさせたよ。千代ちゃんも驚いた様子で、ジーとみていたね。
その日も千代ちゃんに誘われて街に遊びに出かけることになって、僕は支度をしていたら雨が降ってきちゃった。お父さんは今日はやめなさい、というけどその日はどうしても見たい映画があったんだ。
「お願い! どうしても見たいから行っていい?」
「……まあいいか。その代わり気をつけなよ」
「うん! ありがとう、お父さん! いってきま~す」
「いってらっしゃい!」
僕は駅で千代ちゃんを待っていたが、いくら待っても来ない。13時に約束したのに、駅前の時計は14時を回っていた。最初はそんなに心配などしていなかった僕だけど、1時間も遅れるなんておかしいと思った。千代ちゃんは一度も遅れてきたことなく時間前にはついていたから。何かあったんじゃないかと不安になり、駅前から離れて千代ちゃんの家に向かった。
だが、それは杞憂だった。駅前から少し離れた交差点で千代ちゃんがこちらに走ってくるのを見つけた。傘をさしている千代ちゃんは僕を視界に入れると、
「ごめんね! 色々あって遅れちゃった」
一目散に走ってきた。僕も歩みよって、歩行者用の道路の真ん中で僕らは合流した。一心に遅刻の理由を謝ってくる千代ちゃんを見て、僕はほっと胸をなでおろした。僕は千代ちゃんが途中で怪我したんじゃないかと思っていたので、単なる遅刻なら本当にいいことだった。
その時、嫌な感じが体を襲った。横を振り向くと、赤信号なのに信号無視して突っ込んできてる。このままではぶつかると思った僕は千代ちゃんを引っ張ると歩道に出ようとした。けれど、千代ちゃんは進もうとしない。運転者は居眠り運転をしていて、止まる気配は全くなかった。当然、周りの人たちは見ているだけだ。助ける余裕なんかあるはずがなかった。
「早くしないと死んじゃうよ!」
その時、僕は死を知った。死ぬことの恐ろしさと哀しさを知って、お父さんがあの時泣いた理由が分かった。僕は息も絶え絶えになりながらも腹から声を張り上げた。
けれど、千代ちゃんは動かない。じっと僕を見て空を指さしながら、
「死ねば楽になれるかも。……一緒に死なない?」
僕の手を掴んで離さない。僕だけでも逃げようとしても、ワニのようにすごい力で僕を逃がそうとしない。人々の悲鳴の中、僕が最後に見たのは千代ちゃんの艶やかな笑顔だった。まるで死神が冥界に連れていくかのように死ぬことに恐れもなく、表情はニコニコとしていた。
▽
「――その女の逸脱した自殺願望によって、唯一の家族だった息子は殺されたんだぞ! 意識不明ということで、罪にも問われずマスコミからは被害者扱いされる始末。俺の! 俺の悲しみが、苦しみが分かるかお嬢ちゃんよ! ……わかるはずねぇよな。……わかったよ、だったら望み通りに殺してやるぜ!」
「やめてくれ! 頼む、この通りだ……!」
警察官は頭を下げて、中止を促している。だが、それでも男は殺戮行為をやめようとしない。どのみちこの先男が生きる道はない。少女――千代――にかけたお金は全て借金で、少女を殺した後に男は自殺するつもりなのだ。
確実にナイフを移動させて、心臓の真上で止めた。男の目は据わっていて、誰の声も届きそうにない。
「殺すな! 殺すならお前を撃つぞ!」
警察官は銃を男に向け、引き金を引いた。けれど、男は千代から目を離さない。そして――。
男は千代腹に鋭いナイフで刺した。刺されても千代は、苦しそうな顔一つせずそっと目を閉じた。次に男も倒れた。胸元を抑えて、苦しみに悶えている。警察官は男に近づくと思いっきり男の頭を蹴る。何度も、何度もサッカーボールのように足で嬲っていく。その顔は男同様に、憎しみに取りつかれたような顔つきだった。
「よくも、よくも! お前なんか死んでしまえ!」
男はもう答えない。残ったのは激しい雨の中で、男を蹴り続ける警察官だけであった。
▽
その翌日に警察官は逮捕された。一審では過剰防衛とも判断され刑は軽くなるはずだったが、警察官は反省の色を全く見せなかった。ついには死刑が言い渡されるが、警察官はぼんやりと頷くだけである。
死刑が執行される日、刑務官は警察官に遺言を尋ねると警察官は一言、
「千代は私の娘なんだ……」
と嘆いた。