第七話
(……いかん。激しく乗せられてる気がするぞ)
気づけば、雅史は渚の部屋にいた。彼が覚えているのは、渚に誘われるままに黒塗りで長い胴体を持つ高級そうな車に乗り込むところまでで、車内での会話どころか、一体いつ降りたのかすら判然としていなかった。魔法でもかけられたみたいだ、とぼんやりとした頭で思う。
「……雅史様? 紅茶が冷めますわよ」
「ん……? あ、ああ」
紅茶? と尋ね返そうになって、自分の右手がティーカップを握っていることに気づいた。気分を落ち着ける意味合いも兼ねて、一気に飲み干す。この状況がそうさせているのか、これまで経験した中で一番美味しい飲み物だと感じた。
「……うまいな。渚は、いつもこんなの飲んでるのか?」
「! は、はい……雅史様がお望みなら、いつでもいくらでも用意させますわ」
洋風の部屋なのに、何故か雅史と渚は座布団の上に座っている。渚に至っては正座している。雅史がそれなりに冷静で、もっと周囲を見渡す余裕があったなら、巨大な王将の駒や木彫りの熊を発見することが出来ただろう。いずれにせよ、女の子の部屋に相応しい物とは言い難い代物だが、これら和風の物は渚の兄の物だった。
(それはいいんだが……いや、よくないんだが。なんだ、何で俺はこんなところにいるんだ?)
今更のように、雅史はカップからたちこめる僅かな煙と、その向こうにいる気高くも未完成な原石を思わせる美しさを持つ渚をぼんやり眺めながら、過去を回想する。
始めは、ただの人助けだった。いつものように、自分が正しいと思ったことをした結果、渚を助けることが出来た。それはいい。
だが、問題なのはその後。お返しとして得た諸々の行為は、彼の基準において測るならば、彼には身に余るものだった。もっとも、渚にとって雅史は命の恩人で、この程度では全然足りないとさえ思っているのだが。
(だから、もういいって断ったんだよな。断った……筈なのに)
これは――なんだろう。つまり、損得勘定を抜きに、彼女と一緒にいたい理由があったのだろうか。だとするなら、それは、
「――でも、本当に私は幸運でしたわ」
「え?」
渚は、空になったカップを静かに受け皿に置く。
「雅史様がいなければ、私は間違いなく……その、死んでいましたから」
「……かも、しれないな」
「でも、逆もまた然りですわ」
「……え?」
「差し支えなければ教えて頂きたいですわね。雅史様。あなたはどうして、見知らぬ他人のために、そこまで必死になれるのですか?」
それは、渚からすれば当然の疑問だった。
「それ、は…………」
紅茶を飲み干した直後だというのに、雅史は渇きを感じて喉を鳴らした。
彼が、人を助ける理由。
「俺は、ただ間違ってるのが嫌いなだけで……正しいと思うことを、やってるだけだ」
だが、その思想は。
一体、どこを起源として生まれたものなのか――?
「はぁ。何故そう思うように?」
「なんで、って…………」
小さい頃から、一緒だったヤツがいて。
他人事を自分のことのように心配してくれて、一喜一憂してくれて。
しっかりしてるくせに、変なところで危なっかしくて。
ただケンカばかりしていた俺は、その生き方に憧れて。
せめてそいつだけは守れるように、正しくあろうと思って――
「――ああ。なんでこんな大事なこと、忘れてたんだ!」
「ま、雅史様? ご用事ですか?」
雅史が突然叫んだかと思うと立ち上がったので、渚は目を丸くした。
「ごめんな。……ずっと忘れてた、大切な約束なんだ」
もはや渚に振り返ることもなく、雅史は部屋を出ようとする。
「で、でしたらお送りしますわ!」
雅史がどこか遠くへ行ってしまう気がして、渚は慌てて彼の袖を掴んで引き止めた。