第五話
(確かにありがたいんだが……いいのか?)
午後の授業が始まってからも、雅史は昼休みの一件が頭から離れなかった。あのときは半ば勢いに圧される形でOKしてしまったものの、冷静になってみると、どう考えても早計だった。
「食費も手間も一人分増えるわけだし……せめて金だけでも、いやそれは逆に失礼か……」
「おお迷える子羊よ、私に相談してみなしゃんせ」
延々と続く雅史の独り言に、瑞希は興味津々に目を輝かせて机ごと雅史に接近する。
「なんだその日本語。……いや。俺がどれだけ無力か、改めて感じてるところだ」
高校生になって、雅史は客観的に見ても心身共に立派に成長した。だが彼は、裏を返せばただそれだけで、例えばこんな小さくも心温まる好意のような、自発的に人を幸せにする術を持たない自分に思わず自嘲した。
「なーるーほーど。汝が悩みやがってることはわかりました」
ぐい、と。
やけに不機嫌顔の瑞希は、雅史の体を無理やり自分に向けた。
「な、なんだよ」
その異様な迫力に、雅史は、なんだか今日は脅かされっぱなしだな、と心の端で冷静に感じながら、瑞希の次の言葉を待った。
「問題です。1・一輪車、2・二輪車、3・三輪車、4・四輪車。あたしが乗れるのはどれでしょう」
「はあ?」
「どれでしょう!」
「……まあ、普通に考えれば2と、3か?」瑞希の質問の意図を掴めぬまま、雅史は頭を数回掻いてから答えた。
「ぶー。正解は、どれにも乗れない、でした」
「え、マジで?」
「えらくマジです。だってさー、せっかく人として生まれてきたんだから、自分の足で歩かないと損じゃない?」
瑞希は、上履きを脱いだ足をぶらぶらさせる。
「むしろ移動時間がもったいない気がするんだが……」
「いいの!人間らしいことをしてる時間が、意味がない筈が……って脱線してる!」
それは置いといて、と瑞希は架空の箱を隅にどけるジェスチャー。
「客観的に見て、あたしは天才です!」
瑞希は、惚れ惚れするほどハッキリと断言した。クラスの何人かが同時に吹き出す。
「……そうだな」
無論、クラスの中でその事実を一番よく知っている雅史が否定しよう筈もない。
「そんなあたしでもこのよーに、出来ないことはたくさんあるの! −−マサシ、あなたは、自分が凡人だと思うなら、本当にやりたいことだけは出来るようになりなさい。さもないと、大切なことだけ失敗する」
「…………」
だから瑞希は苦手なんだ、と雅史は思った。
本当になんでもないことのように−−今の俺に一番必要なことを、なんの躊躇いもなく、寸分の誤差もなく、一片の害意もなく、最小の容赦もなく、教えてくれるんだから、と。
「……わかったよ、マザー」
「わかればよろしいのです。って誰がマザーだ!あたしゃアザーだ!」
「……しょーもねえオチつけんな!これだからお前は−−」
真面目な空気はあっという間に消え去り、二人はしばしたわいもない口喧嘩に興じる。
最早言うまでもないが、一連の会話はやはり授業中に行われたもので、クラスメイト全員に筒抜けだった。