第三話
翌日、朝七時半ごろ。
「ーーダメだ。負けましたっ!」
「そのようだな」
雅史は、将棋盤を挟んでクラスメイトの土方宗士と向き合っていた。場所は彼らの教室。宗士は、幽霊部員だらけの将棋部で、唯一まともに活動している。雅史は将棋部所属ではないが、宗士の熱意に打たれ、たった二人の朝練習をすることを了承したのだった。
「やっぱここの角切りがマズかったか?」
「いや。その手はむしろ妙手だった。雅史ならではの着想で、形勢は一旦そちらに傾いたが、こちらの桂打ちの応手を誤ったな。取るのではなく避けるべきだった」
「はー、なるほどね……」
この決着で、雅史の戦績は八勝三十四敗。数字だけ見れば雅史の惨敗だが、宗士がアマ四段クラスの実力を持っていることを考えれば、むしろ立派な成績と言えよう。
「……しかし、今日の雅史は少し精彩に欠けるな。体調不良か?」
早指しで二局ほど終えたところで、宗士は中指で眼鏡の位置を直しながら表情を変えずに尋ねた。
「ん、いや特には。……ああ、強いて言えば少し背中が痛い」
昨日の名誉の負傷は、一昨日、いや長年の蓄積によって傷付いた体では、睡眠時間だけでは回復出来ない程度には重い傷だった。
「背中?」
「ちょっとこけてな」
「本当か?」
「……ああ。本当だ」
雅史は、自らの名誉を自慢するような真似はしなかった。彼は、褒められたいがために、尊敬されたいがために善行をしているわけではないし、第一それが特別なことだとは考えていない。
「ーーならいいが。偶には自愛しろ、雅史」
「へいへい。怪我には気をつける」
「そうではない」
「は?」
「……次は時間制限なしで指す。特に、守りに気を配れ」
「あ、ああ……わかった」
雅史は、何か釈然としないものを感じつつも、どうにも感情が読みにくい友人との、今日三度目の対局に集中し始めた。
「おはらっきょー」
「おは……え、なんだって?」
朝のホームルームが始まる五分前。クラスメイトの大半がいる教室で、朝練を終えた雅史と宗士が雑談に花を咲かせていると、瑞希が妙なテンションで現れた。
「なんかね、気に食わないんだよね、あ〜ゆ〜の。マサシもそう思うでしょ?」
いつもの掴みどころのない雰囲気の中に怒気をにじませて、瑞希は雅史の隣の席に座る。
「いや、何が?」
「霊媒師みたいな?」
「みたいな?」
「昨日の昼からずっとやれ奥さんの魂はそこにいるとかあなたの肩を叩いてますとか私に囚われないでと言っていますとかさ。騙る方も騙る方だけど、騙される方も騙される方だよね」
ふん、と鼻息荒く言い放ち、瑞希はふて寝を始めた。
「ああ……そういえば、お通夜がどうとか言ってたっけか」
そこでウソ臭い自称霊能力者にあったり、その後テレビで似たような番組を観たんだろうな、と雅史は想像し、大筋正解だった。
「しかし、嫌なら観なきゃいいだろうに……」
「人間の心理は、ことのほか複雑らしい」
宗士は、両手を小さく広げて肩をすくめた。そこで、不意に雅史は手を打った。
「あ、そうだ。土方、今日誕生日なんだっけか?」
「む……否定しない」
宗士は、別段動揺した風もなく応じた。
「昼飯奢らせてくれ。いつも世話になってるからな」
「止せ、雅史。……それに、金銭面の援助は、食傷気味でな」
「ああ……そうだったな。悪い」
雅史は、宗士の家が結構な金持ちで、前に遊びに訪れた際に裏庭と称された森で迷子になったことを思い出した。
「何を言うか。その気持ちこそが至上の贈り物だ。感謝するぞ、雅史」
「……ったく、かなわないな、お前には」
雅史は頭を何度か掻いて、
「…………にゅぅ〜、それなんてフラグ?」
夢の中の瑞希が、意味もなく呟いた。
ふて寝した瑞希は、昼休みまで起きなかった。
「ん〜ねむねむ……。あ、そういえばミサから聞いたんだけど、また人助けしたんだって?」
「ん? ああ、まぁな」
実のところ、この時点で雅史は昨日の救出劇に対する興味をほとんど失っていた。確かに最近の中でも危険度は一番高い人助けだったが、既に解決した以上、とりたて覚えておく必要がないからだ。ただ、あの自分達と同じ学校の生徒らしい少女が、無事に家に帰れたのかどうかが唯一の気がかりだった。
「むくれてたぞ〜、ミサ」
「へ?なんでさ」
「直接会って聞いてみんさい」
「……ま、それもそうか」
というわけで、雅史はいつものようにコンビニのパンと牛乳を鞄から取り出して教室を出ようとする。
と。
「あ、あのっ、ちょっとお尋ねしたいんですけど、いいですかっ!?」
どこか見覚えのある少女が、いきなり話しかけて来た。
「えっと、何?」
時間が気にならなくもなかったが、無論雅史が邪険に対応しよう筈がない。
「このクラスに、わたしの……って、えっっ!!?」
目線が合った途端、少女は急に顔を赤らめて後退した。同時に、
「あ。あの時の!」
雅史も、少女が件の事故未遂少女であることを理解した。
「はわわわ……ななな、なんでこんなところにいらっしゃいますですか!?!?」
「いや、ここ俺のクラスだし。えっと、俺、稲村雅史」
「あ、わ、わたしは渚と申しますです!」
「と、とりあえず落ち着いてくれ……」
妙な敬語を使う渚に、返って雅史は平静さを取り戻した。
「は、はい……」
渚は、大げさに数回深呼吸。
「……じゃあ、渚ちゃん?あれから、怪我はなかった?」
「はい。念のため精密検査も受けましたが、お陰様で無傷でした」
「せいみ……?いやま、ならいいんだ。良かった」
「でも、事のあらましを話しましたら、お母様に叱られてしまいました。『路上で走るとは何事ですか』って」
「んんん……?そこか、そこなのか?」
「つきましてはですね、お礼に我が家に招待したいのですが、今日の放課後など何かご予定は?」
「いや……特にないけど、それはいいよ。別に、礼が欲しくてやったわけじゃない」
雅史は、もらえると嬉しいけどな、とは照れくさいので言わなかった。 だが、渚は雅史の謙虚な姿勢に感動したのか、胸の前で手を合わせて瞳を輝かせた。
「まあ!これが無償の愛というものなんですね!わたし、猛烈に感動いたしました!」
「い、いやだからそういうんじゃなくて、俺は自分のために、」
「なら、せめてこれをどうぞ!本当は兄のためにこしらえた物ですが、そちらはどうにでもなりますわ!」
「あ、う、うーん……ありがとう」
剣幕に圧され、雅史は渚が差し出した箱状の物を思わず受け取ってしまう。
「それでは雅史様、また放課後にお会いしましょう!失礼いたしますわ!」
言うなり、渚は疾風のごとく去っていった。
「……というか、また来るのか……」
一人残された雅史は、放課後を思うと嫌な予感を感じずにはいられなかった。