第二話
放課後になった。
「……松原(瑞希の名字)。終わったぞ、授業」
「うにゅ〜、もうお通夜は飽きたってば〜〜……」
瑞希は、安眠枕を抱いて幸せそうに眠っている。五時限目の始めにあった小テストからホームルームが終わった今まで、瑞希は外部からのいかなる干渉も受け付けなかった。いわゆる熟睡、あるいは爆睡である。
(お通夜って……どんな夢だ、そりゃ)
身内が連続して不幸に遭う夢でも視たのか。いやしかし飽きたと切り捨てる程度の軽さなら、それほど縁のない親戚かーー
(ってアホらしい。たかが夢に、何真面目になってるんだ、俺は)
自分の融通の利かなさを苦笑して、雅史は頭を掻いた。
「ま、別に何があるワケでもないし。放置しとくか」
瑞希も雅史も、そして美沙も部活には所属していない。故に三人で下校することが多いのだが、その際に周囲から放たれてくる無数の殺気に、雅史は辟易としていた。美沙と二人ならまだそれほどではない。かといって、美沙が不美人なのかといえば、少なくとも雅史は決してそう思っていないし、全校生徒にアンケートを採れば過半数は同じ回答を書くだろう。
「それじゃ、な」
安眠を妨げぬよう小声で別れを告げ、雅史は足早に校門を目指した。
「遅いです!」
急いで待ち合わせ場所にやってきた雅史を迎えたのは、頬をふくらせた美沙の罵倒だった。
「ごめん。松原が起きなくてさ」
「人のせいにしないで下さい!」
ちなみに、美沙は無意識に、人に会話が聞こえる可能性がある場面では雅史に敬語を使っている。
「いや、人のせいって……事実なんだからしょうがないだろ!?」
「嘘ですー! 『今日は用事があるから先に帰る』って瑞希先輩からメール貰ってますもん!」
ほら、と携帯の画面を見せる美沙。雅史がのぞき込むと、確かにその意を伝える文章があった。
「な……」
「遅刻の言い訳に関係ない人を使うなんて、先輩らしくないんじゃないですか!?最っ低!」
美沙は、朝よりは遅い早歩きで雅史を置いて行ってしまう。
「ま、待った! それは誤解ーー」
そこで、雅史はようやく
(そっ、そうか!松原の奴、起きてやがったなっ……!?)
つまり、昼休みに続いて、自分と美沙の仲を回復させるための計らいか、と理解したが、そのとき既に美沙は横断歩道を渡りきってちらりと雅史を睨んでいるところだった。
「ったく……」
この信号の長さを一年間の経験から熟知している雅史は、点滅する○イージ・ブルーに走り出しかけたが、無理やり渡るつもりらしく速度を緩めないトラックを見て、やっぱり安全第一だな、と踏みとどまりかけた。
だが。
その横を、誰かが駆け足で通り過ぎた。
「ーーおい!!?」
反射的に、雅史は飛び出していた。
トラックが僅かにスピードを緩めるが、間に合わない。更に悪いことに、予想外の速さで突っ込んでくるそれを見て、横断者である少女は体を硬直させ、道路の真ん中で立ち止まってしまった。
「くっそぉおおおおおおおおっ!!」
怒号一声、雅史はホームベースに突入するランナーのように跳躍した。少女の体をがむしゃらに掴み、庇いながらアスファルトを転がる。強い衝撃と痛みを感じながら、雅史はトラックがクラクションを鳴らしながら去って行く音を聞いた。
「ッハァッ、ハァッ、フゥッ……はぁ…………」
奇跡的にも、雅史にも少女にもさしたる怪我はなかったようだ。
「ちょ、ちょっと雅史大丈夫!?」
呆然と一部始終を眺めていた美沙はハッと我に帰り、雅史に駆け寄る。
「ああ、俺はなんとか……それより、えーっと、大丈夫か?」
雅史は、抱きかかえていた少女を見ようとアゴを引く。
「あ……」
「う……」
ひどく間近で、目が合った。
雅史は、波一つ立たない水面のように澄んだ少女の瞳を通して、間抜けな表情をしている自分を見た。少女は、倒れた際に引っ張られたらしく、胸元のリボンがほどけかけている。彼女の茶色がかったボリュームのある髪が雅史の頬をくすぐるほど、二人は接近していた。
「あ、あの」
「ーーわ、悪いっ!」
少女の言葉を制して、雅史は素早く少女ごと立ち上がり、二歩後退する。そこで初めて、背中に焼きつくような痛みを感じたが、声には出さない。
離れて見た少女は、美沙と同じ制服を着ていた。しかし顔に見覚えはなく、ということは一年生か、と雅史が考えていると、少女は突然頭を下げ、
「あ、危ないところを助けていただいて、どうもありがとうございました! このお礼は近日必ずしますので!」
聞き取れないほど早口で一方的に告げると、髪や衣服の乱れも直さず逃げるように走り出した。
「あ、こら、待ちなさいよ!」
美沙の制止に、意味はなかった。
「……いいって。無事ならそれで充分だ。お礼ももらえたしな」
雅史は特に気分を害した様子もなく、むしろ満足げに歩き出す。それが、逆に美沙の感情を逆なでした。
「よくないわよっ! 何よ今の態度、あれで謝ったつも「美沙」
憤慨する美沙を、雅史は少し強めに名前を呼ぶことでたしなめる。
「俺は、これが正しいと思ったからやった。それだけだ。感謝を押し売りしたら、それこそ『正義の味方ごっこ』になっちまう。ーー頼む」
「……わかった、です。先輩」
どう見ても納得していない表情で、美沙はしぶしぶ頷いた。その後の帰路、二人の会話は全く弾まなかった。
夜。
「うぉおお、しみる……っ!」
雅史は、布団の中で背中の痛みと戦っていた。事故当時はさほど気にならなかったが、時間が経つにつれ次第に傷は盛んに自己主張を始めた。
「我慢しろ我慢……名誉の勲章みたいなもんだ」
助けることのできた少女を思い出す。時間としては一瞬だったが、間近で見つめ合った少女の容姿は、雅史の脳裏にしっかり焼き付いていた。
「……しかも、地味にかわいかったな」
もう遭うこともないだろうことを、ほんの少しだけ残念に思ってから、
「いかんいかん!……寝よう」
雅史は、雑念を払うために掛け布団を被り、間もなく深い眠りについた。
一方その頃。
「もう……また無茶して!」
体育座りの姿勢でベッドに座る美沙は、やり場のない怒りを発散するように、羽毛布団をより一層強く抱き締めた。雅史の自らを省みない献身を嫌というほど見せつけられてきた美沙だが、今回は一歩間違えていれば死に直結していたような大事だ。募る不満もひとしおである。
「ホントもう、バカなんだから! ……アンタのこと心配してる人のことも、ちゃんと考えなさいよね……」
美沙の呟きは、優しく抱かれた枕に吸い込まれた。