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第一話

「もう、信じらんないっ……!」

翌日。

美沙は、朝から機嫌が常のそれではなかった。無意識の内に早歩きしている自身にさえ気づいていない。荒々しい歩調に合わせて、ショートカットの髪が揺れる。そのため、

「ちょっとちょっとミサってば、速いよ〜!」

美沙といつも登校を共にしている、松原瑞希まつばら みずきは、小走りで追いついては離され、追いついてはまた離され……を繰り返していた。

「あ、ご、ごめんなさい!」

校門のすぐ手前にある赤信号で、二人は並んで立ち止まる。ただし、瑞希は膝に手をついて息を切らしている。

「はぁ……はぁ」

「み、瑞希先輩、大丈夫ですか……?」

美沙は高校一年生、瑞希は二年である(ちなみに、雅史も二年だ)。が、身長はほぼ同じか、むしろ美沙の方がわずかに高いほどである。別に、美沙が飛び抜けて長身なわけではない。

「じゃないかも。……でさ〜、どしたのミサ? 今日」

「ふぇっ? な、何がですか?」

「競歩の大会にでも出るの?」

「え……そんな予定は、ないですけど」

「あれ?」

「へ?」

重ねて言うが、美沙は自分がいかなるスピードで駅から校門前まで踏破したのか認識していない。後の噂だが、このとき彼女に追い抜かれた陸上部生徒は「これが世界の壁か……」と呟いたとかなんとか。

「……まいっか。ところでさ、今日ってなんか小テストあったっけ?」

「あの……先輩とはクラスっていうか、学年が違うんですけど……」

「あ、思い出した古文が単語テストだっけ!?あ〜でもあたしアイツ大嫌いだからいいや」

「……そーゆー問題なんですか?」

通学路にある中で最も学校に近いこの信号は、何故か待ち時間が長い。そのため、これのせいで始業時間に間に合わず、遅刻になる生徒が少なくなく、通称「魔の赤信号」とよばれている。

「わ、青になってる!いこいこ!」

しかもこのように、待ち時間に話し込んでしまうせいで信号が青であるのに見逃してしまう場合も多々ある。こちらは通称「ル○ージ・ブルー」。存在感がない、の意である。

ともあれ、桜がまだまだ咲き誇る季節。

未来を夢見る少年少女たちの、変わり映えがないようで同じ日など一日たりともない日常が、今日もまた始まった。


彼女らが通う私立鶴ヶ丘高等学校は、来年で創立五十周年を迎える歴史ある進学校である。生徒総数は約千二百、施設も冷暖房完備、天井付き温水プール、食堂には自動販売機、などなど、なかなか設備が整っている。

「……だからって、皆が充実した学校生活を送ってるとは限らないワケで」

遥か昔に読んだこの学校のパンフレット、その内容をぼんやりと思い返しながら、雅史はひとりごちた。彼の席は窓際にあるので、校庭で体育を行っている他クラスの様子を眺めることが出来る。ちなみに、雅史の学年は、今学期はサッカー。

(っと、授業授業)

教科書をなぞるだけの単調な日本史の授業に、クラスの大半の生徒は意欲を失い気味で、何人かは内職しているが、雅史は集中を取り戻した。昨日の乱闘でこしらえた無数の傷の痛みが、丁度よい目覚ましとなっている。そんな彼のノートには、決して上手くはないが丁寧な文字が几帳面に並んでいる。

「うっわ〜、相変わらずバカみたいに綺麗な字。マサシ、ホントに男の子?」

雅史の隣の席に座る、そもそも教科書を机の上に出してさえいないクラスメイト、瑞希は顎を机に乗せ、両腕を前に投げ出してダレている。どうみても教師に注意されて然るべき授業態度だが、言動とは裏腹に、瑞希は成績が常に学年で三本の指に入る超優等生で、おまけに短気で気まぐれなので、下手に刺激しない方が懸命だ、というのが教師間の暗黙の了解だった。

「この顔で女だったらシャレにならんだろが」

目は黒板に向けたまま答え、雅史は内心でため息をついた。何を隠そう、瑞希はルックスまで学年トップクラス。女子にそれほど免疫のない雅史にとって、彼女と面と向かって会話するのはなかなかに難題なのだ。

「あ、差別反対。マサシ、アンタは今全国のあたしを敵に回しました」

(お前は不細工じゃないだろがっ!)

とは雅史を始め周囲の男子生徒魂の叫び。

「……そういう意味じゃない。言葉の綾だ」

「じゃ、どーゆー意味よ」

「あーだからだな、つまり、」

「ところでさー」

雅史の逡巡する態度に、というか話題自体に飽きたのか、瑞希は猫のように伸びをし、ついで欠伸を一つ盛大にもらした。

「な、何だよ?」

「アンタ、ミサになんかした?」

「ーーーーっ!?」

雅史は、危うく消しゴムを手から滑り落とすところだった。動揺を隠すため、文字に埋まった黒板をより一層凝視する。質問に他意がないだけに、返答が難しい。下手にとぼけると、瑞希は悪意なく理性的に反論してくるのを、雅史は経験から学んでいた。

「……俺は、あいつに何もしてない。あっちが勝手に気にしてるだけだ」

「嬉しいクセに」

「はぁ!? な、なんでそんな話になるんだよ!っつーか何があったのかも知らないのに!」

「ケンカしたんでしょ?」

手を口に添えて二度目の欠伸を隠しつつ、当然のように瑞希は言った。

「な……」

「顔にアザついてるし。あ、でもミサとやったんじゃなくて、また正義の味方ごっこした結果とみた」

うりうり、と雅史の頬の青アザをつつく瑞希。

「痛いって」

その指を払い、いつの間にかまだ写していない板書が消されていたことに気づいた雅史は、もう一度ため息をつき、椅子に深く腰掛けた。

「……大筋は否定しない。別に、正義を気取ってるつもりはないけど」

「だよね〜。正義の味方は負けないし」

「……悪かったな」

「悪くないよ」

「は?」

瑞希の声色が変わった気がして、雅史はこの授業中初めて彼女の顔をみた。そこに、



「あたしは好きだよ、そーゆーの」



不意打ちの、一片の不純もない満面の笑顔があった。

「ーーーー」

雅史の卑屈な感情や、渦巻いていた諸々の思考は、一瞬で吹き飛ばされた。代わりに、鍋で茹で揚げられているように、体温の上昇と顔の紅潮を感じる。

「? どしたの、固まっちゃって」

にらめっこの練習?と尋ねる瑞希は、無論自身の容姿の破壊力を理解していない。

「な、なんでもないっ!」

耐えられなくなって雅史が立ち上がると同時に、タイミングよくチャイムが鳴った。余談だが、二人の会話はクラス中に聴こえている。が、もう皆慣れっこなのでいちいち気にする者はいなかった。


昼休み。授業という呪縛から解き放たれた生徒達は、嬉々として散開していく。

「……」

そんな中、雅史の足取りは鈍かった。いつもなら迷わず屋上のベンチに向かうのだが、そうすると、必然的に美沙と遭遇する羽目になるからだ。いや、遭遇というのは少し語弊がある。確かに確たる約束こそ交わしていないものの、雅史が食堂でも教室でもなく、人の少ない屋上で昼食をとるようになったのは今年の春。つまり美沙が入学してからであり、その符号は決して偶然ではないのだから。

「ひははいほ(行かないの)?」

コンビニで買ったパンを持ったままぼんやりしている雅史に、おにぎりを豪快に口を含んだまま瑞希は声をかける。口元が膨らんでいて、ハムスターのようだ、と雅史は思った。

「……とりあえず、食べるか喋るかどっちかにしてくれ」

「…………」

何を思ったのか、瑞希はおにぎり(昆布)を置くと、しゅばばば、と高速で両手を動かした。

「……?なんだ、手話か、それ?」

こくこく。首肯二回による肯定。

「いや、わからんし」

残念ながら、あるいは当然ながら、瑞希の意志は一ミリたりとも伝わらなかった。もっとも、手話を知るものが見たとしてもあのスピードでは捉えきれなかっただろうが。

「ーーんぐっ。いいじゃん、行ってくれば」

「やっと食べ終わったか。……そう簡単にいったら苦労しないんだよ」

雅史と美沙は一つ違いだが、幼なじみである。幼かった彼らにとってあまり意味を成さず、幼稚園から小学校まではなんの気兼ねなく手を取り合って遊んでいた。

「後回しにしてるともっと会いにくくなるにょ〜?」

「……わかってるよ」

雅史は、内心の葛藤を表すかのように頭を三度掻いた。それから、深くゆっくりと息を吐き出す。

「ん。いい顔になったね」

「母親か、お前は。とにかく、……そうだな。ここで逃げるのは、」

「「正しくない」」

雅史のお決まりの言葉に、瑞希が合わせる。数秒間を置いて、二人は同時に笑い出した。


数分後、雅史はいつもより心なしか重く感じる屋上の扉を開けた。清涼感のある柔らかな風が、頬をくすぐって駆け抜けて行った。

「……よ、美沙」

雅史は、平静を装って目的の人物、美沙に近づく。美沙は、目を丸くして、フォークでうさぎ型のりんごを刺したまま固まっている。

「……先輩。来たんですね」

ややあって、美沙はわざと敬語を用いて応対した。が、言葉の節々から感じられる棘は、どう解釈しても敬意を伴っていない。

「別に、どこで食おうが俺の自由だろ?」

躊躇うことなく、いや、躊躇いが生まれる前に、雅史は美沙の隣に座った。

(……座ったのはいいけど。何話せばいいんだ?)

雅史は、意味もなく周囲を見渡す。他のベンチにも何組かの男女ペアがいたが、彼らとは違いみな話が大いに盛り上がっている。

「……傷は治ったの?」

不意に。

独り言のように、雅史が注意していなければ聞き取れなかっただろう声量で、美沙は呟いた。

「ぼちぼち」

「痛くない?」

「まあ、慣れっこだし」

「何回目だって、痛いのは痛いに決まってるでしょ!」

「……ま、な。でも、間違ってるのを見過ごす方が、もっと嫌だ」

気負うでもなく、雅史は平然と言い放った。美沙は、強く唇を噛む。

「バカ」

「もう聞いた」

「大バカ!」

「……それは初耳」

「……はぁ。なんであたし、こんなのを……」

言いかけて、美沙は何かに急かされるように慌ててりんごを口に含む。

「なんだって?」

「…………」

雅史の問いに、しゃくしゃく、と小気味よい音だけが返ってきた。

「……そうだったな」

そこでようやく、雅史は昼食の存在を思い出した。恐らく美沙の反応は、一緒に昼休みを過ごすことを許可してくれたんだろう、と判断し、パンの包みをやや強引に破った。


雅史と美沙の関係に変化が訪れたのは、雅史が中学生になってからである。次第に異性に対する異性としての興味が強まる年頃。だが、その点について雅史はさほど関心を示さなかった(このことが後々尾を引くのだが、当時の彼は知る由もない)。むしろ問題だったのは、如実に表れた身体能力の差、である。

(……あんなに大きいんだもん)

美沙は、パンを持つ雅史の無骨な皮の厚い右手をそっと見つめる。それから、自分の小さく柔らかな手をぎゅ、と握った。

二人の間で、喧嘩は少なくなかった。そして、弁論力などさして変わらない口喧嘩は、度々肉弾戦に発展した。

初めの内は、むしろ美沙に分があった。彼女はとある理由から、日頃から危機への対応力を鍛えられる場面に恵まれていたからだ。だが、小学校中学年を過ぎた辺りから、大勢は徐々に逆転して行った。今では、戦いにすらならないだろう。

(……あたしが、男だったらな……)

そうすれば、なんの迷いもなく雅史と肩を並べて笑えるのにーーそう思ったことは、一度や二度ではない。だが、論ずるまでもなく、それは叶わぬ夢想でしかない。

「ーー美沙?」

「ふふぇっ!?」

美沙が気づいたとき、既に昼食を食べ終え、ベンチから立ち上がった雅史が、彼女を見つめていた。強くも優しくもある、ずっと前から知っている、吸い込まれるような瞳。

「チャイム、鳴ったぞ?」

「あ……そ、そう。じゃなかった、知ってるわよ」

「いや、知ってるのは知ってるけど」

「じゃ、何よ!」

「いやいやいや。だから、授業始まるって」

「!」


「お帰りー」

「……おう」

雅史が教室に戻るのを見て、すっかり五時限目の準備を終えた瑞希はひらひら手を振った。と言っても、机に乗っているのは持参の安眠枕だが。

「寝る気まんまんじゃねーか!」

「何をいまさらちゃん」

「次、小テストだぞ?古文の」

「だいじょーぶだいじょーぶ、あんなの寝てても解けるから」

「…………」

雅史にとって非常に腹立たしいことに、それは、笑い飛ばせない事実だった。一体どんな仕組みになっているのか、瑞希は一度問題用紙と解答用紙をざっと眺めれば、文字通り目をつぶって解くことが出来る。

(天才って、こいつみたいな人間のことなんだろうな……)

ここまで突き抜けてくれると、いっそ嫉妬する余地さえなくむしろ清々しい。そんなことを考えながら、雅史は席に着いて古文単語帳をざっと見直す。一応、昨日予習はしてあるので、他のことに意識を割かない限り問題なさそうだった。やはり昼休みの内に美沙と会っておいて正解だった、と雅史は心中で頷いた。実際、悪くない手応えだった。



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