プロローグ
「……ちくしょう」
稲村雅史は、切れた唇の痛みを感じつつ、小さく呟いた。場所は人気のない裏路地。先程までの喧騒はどこへやら、人どころか迷い猫一匹通らない。
雅史は、掃除などされたことのないアスファルトに大の字に寝転がっている。無論、睡眠が目的ではない。単に、殴打されながら酷使した足腰が命令を受け付けないのだった。
強い光を宿した精悍な顔つきから連想出来る通り、彼は荒事をむしろ得手とする部類の人間である。だが、さすがに五人を同時に相手にするのは無謀だった。三人と差し違えただけでも健闘したと言っていいだろう。
雅史は、立ち上がろうともせずに忌々しいほど晴れ渡った青空をぼんやりと眺めている。その表情に、不思議と後悔の色は浮かんでいない。
固形化した時が過ぎていく。生命が芽生える季節の穏やかな風も、すえた匂いのするこの袋小路には届かない。
と。打ち捨てられた人形のように動かない雅史に近づく、一つの影があった。
「……バカだよ」
「……美沙か」
雅史と上と下で見つめ合うす形で佇む影の主、岩沢美沙は、自身が痛みを感じているように眉をひそめた。
「バカだよ、雅史は。これで何回目?」
「さあな。忘れた、とっくに」
目を逸らさずに、雅史は淡々と答える。
「全然関係ない人のために、そんなに傷ついて。それで助けた人が、雅史に何をしてくれるの?」
「別に。ああ、五回に一回くらい、礼がもらえる」
「ーーだから! なんで雅史は、それで、たったそれだけのために、こんなこと続けてるの、って言ってるの!」
それは、怒号というよりは悲鳴に近かった。涙を瞳に溜め込んだ美沙は、感情の高揚を体現するかのように、肩を上下させる。
「泣くなよ。……俺が泣かせたみたいだ」
「っ、バカ! みたい、じゃないんだから!」
とうとう、美沙の悲しみは堰を切って溢れ出した。晴天の下、雅史は温かい雨を数滴、その頬に浴びる。
何度目がわからない、正解のない押し問答。
だからこそ雅史は、一度たりとも揺らぐことなく、一度たりとも譲ることなく、
「……ごめん。それでも、俺はーー」
己の信じる道を、宣誓のように口にした。
この物語はありきたりなラブコメディです。そうでないカオスな刺激をお求めの方は、
「終わり始まる物語」のほうを……って別の作品紹介してどうする自分。
まあとにかく、この作品ではベタを突っ走りたいと思います。目標は一日一回更新です。