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双子月の下の冒険者たち  作者: シンソン
1/1

サージャとカイエ

サージャとカイエ。

猫頭の獣人と森の狩人。

 サージャとカイエは警戒していた。

 薄暗い森の中、絡まりあう老木のブラインドからか細い月明かりが二人を照らす。一人は猫の頭だった。三角形の耳をひくひくと忙しなく動かしている。

 鳥獣の不快な鳴き声と三つの足音だけが響く。サージャとカイエ、二人の足音は腐葉土に沈むように枝葉を踏みつける。そしてもう一つ。

 斥候をこなすカイエがぴたりと足を止めた。

 フードの下で緑の目を光らせながら、先を歩くカイエが後ろを警戒するサージャに鬱陶しそうに尋ねた。


「なにか血の臭いがしませんか、前のほうで」


 促されたサージャは荒地の猫族に与えられた湿った黒い鼻をひくつかせ、前に広がる巨大な陰に目を凝らす。


「この匂いは……狼だ、大きいのと小さいの。右を頼んだよ」


 今は追われている身、迂回する時間が惜しい。

 言われたカイエは素早く弓を構え、暗闇の中にさっと放った。獣の断末魔が聞こえるのと同時、剣を抜いたサージャがカイエの横を闇に吸い込まれるように駆け抜ける。

 仲間が崩れ動揺した狼は、しかし前から突進してきたサージャに気がつくと、肩を低くし、ひと吼えするなり敢然と飛びかかった。それをサージャは左手の丸盾で叩き落とし、間髪いれず倒れた狼の腹に剣を深々と突き刺した。

 簡素な装飾の曲剣で釘を打ちこむようにしっかりと狼の腹を地面に繋ぎ止め、サージャは血を吐きながらもがく小柄な狼の首をへし折った。

 絶命を確認したサージャが狼の死体に祈りを捧げているとき、追いついたカイエが言った。


「血の匂いの正体はあれですか」


「かなり酷いよ」


「お食事中お邪魔しましたかね」


 二人の見つめる先には口よりも大きく開いた腹部から血と臓物が溢れ流れている男の死体があった。苦痛が刻まれた表情からして、不幸にも貪られながら息絶えたのだろう。

 ふとカイエが気づく。


「あの遺体、いやに身軽ですね。町服一枚にナイフ一つ持ってない。なんでまたこんな物騒な森に」


「普通じゃない。何かあったのか、僕たちみたいに追われてたとか」


「追われた理由は、さすがに食い逃げじゃあなさそうですね」


「食い逃げは不本意だった。お金ができればちゃんと払うよ」


「わざわざ戻って? 許してくれますかね?」


「許してくれないならまた逃げればいい」



 二人はつい半日ほど前までは宿場町で暢気に食事を楽しんでいた。

近くの戦場跡での漁りが成功したのだ。質屋に行くと結構な金額になり豪遊することに決めた。欲しいものはなんでも買って好きなだけ飲み食いして特上のベッドを借りるのだ。二人は宵越しの銭は持たない主義で、刹那を楽しむことを生きがいとしている。

質屋には店主の老婆の他に、客と思しき獣臭い大男がいた。がっちりとした体格でさらに全身を鎧で覆っている。なかなかいい剣を刷いていた。二人は大男を見上げながら心が躍るのを感じた。テンションが上がりまくった。上等な装備だ、自分たちのほつれや傷だらけの旅装束とは違う。だがいま、オレたちの財布の中身はパンパンだ。

すぐさま目につき興味を引いた古本や装飾品、価値の高そうな小物や携帯性の良いあれこれを買い漁った。無計画に買い漁った。まさかほとんど全額を質屋内で消費し尽くすとは思っていなかった。狭い空間で経済が回っていた。

 だが二人は刹那を楽しむことを生きがいとしている。

 随分と軽くなってしまった財布をポンポンと手のひらで遊ばせながら二人は宿場町で最も大きな飯屋に入った。特上ベッドのことは覚えていない。二人は宵越しの銭は持たない主義で、刹那を楽しむことを生きがいとしている。

 間もなく八皿目がやってくるとき、途中でカイエが気がついた。

あ、つぎに頼んだら払いきれないな……。

 相棒に伝えようとした矢先に八皿目がやって来た。同時にサージャが九皿目を頼んだ。サージャはそもそも金勘定を放棄していた。カイエも面倒くさかったのでそのまま黙って八皿目を平らげた。二人は刹那主義者である。


 事態が一変したのは黙って店を出たとき。まさか隣のテーブルの客が警備兵だとは思わなかった。

「そんなに怒ることないのに」とサージャは思う。

食事は食べられるためにある。食べられてはじめて役割を全うするのだ。食べられない食事はただの命の無駄遣いだ。むしろ自分たちは食事の使命を助けたわけではないか。礼はいい。まあまあの味だったから。すべて口に出ていた。二人を呼び止めた警備兵の顔が真っ赤に染まる。カイエは両手で顔を覆った。サージャが黙っていればカイエが取りなすつもりでいた。

 勝算はあった。そもそもこの警備兵には一杯奢ってやっていたのだ。ましてや自分たちは二人とも酒の類を飲めないのに。

獣の嗅覚と聴覚を併せ持つ猫頭の獣人サージャは種の特徴として極端に酒に弱く、森と契約することで森に愛され、鳥獣の言葉を聞き、木々と心を交わす木立人コダチビトのカイエは戒律の一つで酒を飲むことが許されない。

 そんな自分たちがわざわざ一杯奢ったのだ。見逃してくれてもいいんじゃないか。見逃すのがむしろ筋ではないのか。滔々と頭によぎったが、筋を違えた身で筋を主張するのか。やっぱり勝算はなかった。気づけばカイエはサージャの手を引き一目散に駆けていた。

背後で警備兵の怒号と鐘の音が響いた。宿場町の土地勘はなく、町中での追いかけっこは不利である。

 カイエは戦場跡から帰る途中に大きな森があったのを思い出した。少し不気味な森だった。明らかに獣の殺気が多いし、木々の声はさんざめくようだったから。

でも躊躇はしない。宿場町を縦断する逃避行の中、いつのまにか追っ手は馬まで繰り出して刃物を振り上げていた。え、食い逃げで?

森の様子はおかしかったが、どっちがマシかは明白だ。

 程なくしてたどり着いた森には人の手はまったく入っておらず、短い岩場を挟んで人の世と隔絶しているようであった。後方から騎馬のいななきが聞こえる。

怯えているのか? 契約した森から離れても鳥獣の声をある程度は理解ができる。カイエには不安そうに聞こえた。

 なんとなく相棒の顔に目をやると、能天気なサージャからも森への警戒がうかがえた。

 瞬間、弓弦の音がした。

 二人は常人より遥かに耳がいい。すぐさま体勢を低くすると手前の地面に矢が刺さった。

行くよ。

カイエに声をかけながら、顎で森を示したサージャはすでに森に駆けていた。

瞬発力があるのだ。身体能力だけの話ではない。普段は能天気だし危機感がないしなんなら何も考えていないが、なかなかの馬鹿だが、いざというときには誰よりも速く動きだせる。カイエはサージャを信頼している。彼とともになら、たいていのことはどうにかなるだろう。

カイエはサージャの背中を追いかけながら森へと踏み込んだ。

それから数時間が経っている。



「ーーで、ですよ」


 カイエはサージャとの応酬を中断しながら、狼に食われた男に視線を戻す。


 二人ですら入るのに数瞬躊躇わずにはいられなかったこの森に、どうしてこの男はまともな装備もなしに立ち入ったのか。


 剣に付着した狼の血を拭いながら夜目の効く猫の丸い眼で周囲を窺うサージャに代わり、検分を買って出たカイエが身分を証明してくれる遺品は無いかと、慣れた動作で赤いところを避けながら死体の懐に手をのばす。


「どうやら、食い逃げ仲間じゃないようですね」


 窃笑しながらカイエが渡した手紙にサージャの猫の瞳はいっそう丸くなる。手紙の封蝋には見覚えがあった。それはサージャに限ったことではない。この国で多少世情に明るい者なら誰もが知っている。


「ザーリス家の紋?」


「ええ、五大家筆頭ザーリスの紋章ですよ。それだけじゃない」


 遺体の検分を続けていたカイエにはもう一つ見覚えのあるものがあった。狩人の里の出であるカイエにとっては馴染み深い傷が男の足に刻まれていたのだ。


「右足のふくらはぎに矢傷があります。それで狼に血の匂いを嗅ぎつかれたんでしょう」


「矢傷? この男は狼にやられたんじゃないのか?」


「とどめを刺したのは狼でしょう。ですがこいつは明らかに人の仕業ですよ」


 不意に寒気がしたサージャは自分たちが歩いてきた木々の隙間に意識を向ける。カイエの推理は当たっていた。


「僕たちも食い逃げが原因じゃないみたいだ。途中からおかしかったんだ。だって食い逃げ犯相手にあんな奴を寄越せるほど、あの定食屋は儲かってなかった」


 できるだけ音を立てないよう努めながら森を逃げていたサージャたちとは対照的に、追手は些事など気にしないとばかり、バリバリと石や枯木を魚のフライを骨ごと食べるときのように踏み砕いて迫って来る。

 その足音からだけでも追手の巨躯であることが窺えた。

 カイエとサージャは見た目にもわかりやすい狩人と獣人である。その反撃を――しかも夜の森の中で――全く恐れる様子もなく、それどころか追い立てるようにわざと足音を響かせる。とても食堂で呑んだくれている警備兵ごときにできることではない。


 ヒュンッと足音の方から微かな音が聞こえた。サージャの頬で揺れる猫髭がびりりと震える。

 瞬間、頭を仰け反らせたサージャの目の前に風切り音が残った。後ろの老木に突き刺さった矢を見て、カイエが驚きの声を洩らす。

 もしもサージャが夜行性である猫の獣人でなければ、暗闇の中で月光を反射した矢尻に気づけなかったかもしれない。


 間一髪で矢を避けたサージャは曲剣を抜きながらカイエに臨戦態勢を促す。言われるがままに弓を構えたカイエは迷うことなく、矢が飛んできた暗闇の中に流麗な動作で矢を撃ち返した。

 命中。狩人として優秀な腕を持つカイエは標的に難なく矢を当てた。しかし二人の旅人は安堵の息を吐くことなく、再び闇の中に意識を集中させる。カイエの放った矢は分厚い金属に弾かれる音を残したのだ。


「相手は多分、鎧を着ている。僕が姿を確認するまで待ってくれ」


 言ったサージャにまたも追手が矢を放った。今度は落ち着いて左腕に構えた盾で捌いたサージャは状況を打開すべく、執拗に自分たちを追い詰めてきた追手に歩を向ける。

 三度放たれた矢を獣人特有の反射神経を用いて盾で払いながら駿足で追手との距離を詰めたサージャは、追手の姿を夜目で認めた途端、目を見開き、慌てて背後の木の陰に飛び退いた。直後、サージャのいた場所に地響きをたてて鉄塊が振り降ろされた。

 サージャは不用意に近づいた自分を悔いながら、後ろ跳びにカイエの横に戻る。


「あの男、鎧どころじゃなかった、死にかけたよ」


「何ですかあいつは。ふざけた大きさですが」


 追手が再度矢を放つことはなかった。牽制にしかならないとわかったのだろう。鈍重な足音で大気を震わせながら、木の葉の間から微かに零れた月光の中に追手の男はぬらりと姿を現した。

 その体躯は二人の予想を超えて巨大であった。老木の多いこの森の中で尚、その巨躯は梢に肩を並べるほどだ。そんな大男が全身を重厚な鎧に包み、鎖に繋がれた鉄塊を引き摺っている。鎖の反対側は大男の体に袈裟懸けに結ばれていた。

 ざっと自分たちの二倍だろうか、その偉丈夫ぶりにサージャは歯噛みしながら不安そうにこぼしたカイエに己の見立てを述べる。既視感、いや、既嗅感があった。


「獣人じゃないかな、たぶん、熊とかその辺りの。質屋にいた臭いのにそっくりだよ」


 言いながら、それにしても大きいけどと窃笑したサージャは胃に鉛を落とされたような声で呻いた。


 切迫した状況でありながら、二人の旅人は遺体を検分しさらには軽口を叩く余裕に包まれていた。旅人としての熟練した経験に裏打ちされた余裕が安堵を供給していたのだ。それが波の引くように失せていく。

 それでも意地だろうか、視野を独占する敵の威容に気負いながらも二人が舌を休ませることはない。


 思わず苦虫を噛み潰したように唸るサージャは一つの、できれば回避したかった答えに行き着いた。


「戦うしかないね」


「里じゃああんな大きな獲物、獣も化け物も狩ったことないですよ」


「なら、明日から誇れるじゃないか」


 尚も弱音を吐くカイエを叱咤しながら、自身も冷や汗が流れるのを感じたサージャは腰を低くし大男に向き直る。

 大男の正体がサージャの見たて通り熊の獣人であれば、いくら猫の獣人である自分とカイエであっても逃げきるのは難しい。自分たちが木や茂みの障害物を避けながら走るところを、相手は全て無視、いや破壊しながら直進するだろうからだ。それほどまでに熊の獣人の力は強い。


「カイエ、やれるかい?」


「見たところ矢も無駄ではないようですがね」


 言って弓に矢をつがえるカイエは、獣人の鎧に注視して素早く二射射かけた。

 熊の大男は鎧の腕甲でカイエの矢をはたき落とす。カイエが狙った脇の下の他にも、関節の各所は鎧の板金が薄いのだ。追手である以上、いかに熊の獣人と言えど鎧に俊敏性を阻害されるわけにはいかなかったのだろう。

 確信したカイエは矢筒に手を伸ばしながらサージャに分析した情報を報告する。


「なら僕がカイエの矢を防げないようにすればいいわけだ」


「簡単ですね」


「君の企画した食い逃げと同じくらいにね」


「なに人のせいにしようとしてるんですか」


 気の置けない応酬に少し落ち着きを取り戻したサージャは、足に溜めたばねを一気に解放し、風のように敵の足元に近づいた。

 大男は右から鉄塊で地面を抉りながらサージャを迎撃する。横薙ぎに振るわれた脅威を熊の大男の胴体に飛びつきながら回避したサージャは、逆手に構えた曲剣を鈍色に光る胸甲に突き立てた。それも一瞬、視界の端で犬歯を覗かせながらにやりと歪められた熊男の口端に気がついたサージャは、組みついた熊男の腹部を蹴り上げ、宙空でひらりと、サージャの虚を衝くように振るわれた剛腕を紙一重で回避する。

 着地地点に鉄塊を投げつけた熊男の行動を見透かしていたサージャは、直後地面に体を沈めた鉄塊を足場に、今度は熊男の空いた左腕に組みついた。サージャの身長と熊男の腕の長さがほぼ同一というあまりの体格差に、堪らずサージャは振り回される左腕から振り落とされそうになるが、鉄甲ごと男の肩に噛み付くことで辛うじて吹き飛ばされないよう踏みとどまる。


 カイエはこの機会を見過ごさなかった。まず男の鉄兜に射かけることで男を怯ませると、次に左腕の装甲の薄い部分に連続で弓を引いた。熊男を拘束していたサージャはギリギリで手を離し、着地際に鉄盾で熊男の足を打ち据える。

 たまらず態勢を崩し、膝をついた熊男は抵抗できずにカイエの矢に射抜かれるかと思われたが、熊男が大きく吼えながら鉄塊を振り回し、体を捩じったことで二人の連携は不発に終わった。


「あのクマちょっと凄くない?」


 思わずサージャは素直な感想を述べる。感心するほどの腕前であった。同じ戦士として敬意を表するに値する。

 だが、見事な腕前と素晴らしい体躯であるが、もはや優勢はこちらだ。


 打ち合ってわかった。熊男は見かけほどではない。

優に数倍はある体の面積と高い判断力に恐れを抱きはしたが、それだけだ。

 ヤツは自分やカイエよりも、鈍い。

目も悪く、先読みする能力でこちらより劣る。なによりも、反応速度で劣る相手に負けたことはない。きっと次の連携では一撃を加えられるだろう。相手もそう思っているはずだ。

現に、熊男の口からは不敵な笑みがなくなった。


「言ってる場合じゃないでしょ、もう謝っても許してくれませんよきっと」


 サージャに比べてカイエは慎重なタチだ。サージャの判断を疑ったことはないが、それでも慎重に警戒を重ねることに損はない。


 カイエの言った通り、涎を垂らしながら一目で激怒しているとわかる様子で熊男はぎらつく黄色い目で二人を睨むと、のっそりと立ち上がる。


「後悔するなよ」


突如、熊男は苦悶の声を上げる。

その口の中はなぜか粘ついた血で溢れていた。


「なにが?」


「さあ……?」


 訝しむ二人をよそに、熊男は先ほどまでとは打って変わって緩慢な動作で、ひどく煩わしそうに鉄兜を脱ぎ捨てた。

口中を満たしていた血は鼻や目からも流れ、黄色だったはずの瞳はすでに白濁としていた。

 不審な変貌を遂げた熊男は絞るような呻き声を漏らす。


「ハァ……ハァ……殺したい……殺したいよぉ……」


 サージャは眉を顰める。

 急すぎる。やけに息が荒い。カイエとの連携がヤツのタフネスを上回った?

 違う。

 やりやがったなアイツ。

 馬鹿なやつ、獣人のよしみはもうないぞ。


「少し、おかしくないですか」


「ああ、おそらく理性を捨てたよ。馬鹿め」


「え、それって……」


「獣還りだ。頭はダメになるけどさっきまでより強いよ」


「なんでそこまで」


「さっきの手紙、中身が気になってきた」


 そうしている間にも熊男の様子はみるみるおかしくなっていく。闇夜から弓矢で二人の実力を測っていた先ほどまでの追っ手の姿はもうどこにもない。


「殺すぅぅ! きめた! きめて、きめた、ころすに決めたァ!!」


「最初から殺す気だったろ」


「だま、れぇえ、ええ、え、え、え、ころ、こ、こ、ころ、殺すぅ!!」


「本当にそれが最後の言葉でいいのかい……?」


 獣還りをおこなった獣人はだんだんと人を失っていき、その代わりに獣の力を増していく。その有様は千差万別で腕力が劇的に上昇したり、鎧が壊れるほど筋肉が肥大化したり、爪が腕ほどの長さに伸びたり。だがその結末は一様だ。

 理性を失いただの獣と化す。その変化は不可逆であり実質的な死だ。そもそも獣化に体がついていかずに寿命も極端に短くなる。

 獣還りは獣人にのみ許された法であり、獣人としての気高さを捨てるその行為は忌避される。

それだけに、サージャは見事な戦士であったはずの熊男がただの獣へと堕ちていく様を哀しんだ。


「おお、お、オオ……」


「もうダメだ。クマの人は死んだ。来るよ」


「うっかり本当に死んでくれたなら良かったんですが」


「生命力は間違いなく増したよ」


 その軽口を合図に熊男は猛烈な突進を繰り出した。すんでのところで躱したカイエに続き、サージャも鉄塊と共に土を巻き上げながら突っ込んでくる熊男を盾で往なす。続けて連撃を加えてやろうと振り返りざまに剣を振るったサージャは逆に熊男のラリアットに吹き飛ばされた。


「サージャ!」


 受身を取れずに倒れたサージャを案じて、カイエはとにかく熊男の動きを阻害することだけを目的に間断なく矢を撃ち続けた。しかしそれは失敗であった。熊男が狙っていたのはサージャではなくカイエの方であったのだ。

 背中から倒れたことで肺から空気を奪われ、動けないサージャを尻目に、盾も鎧も持たないカイエに熊男は狙いを定めた。障害物を砕き、轟音を鳴らしながら叩きつけられた鉄塊を触れ合う直前で躱したカイエに、間髪いれず熊男の掌底が直撃した。

 サージャと同じく吹き飛ばされたカイエは老木に体を打ちつけ、ぐったりと動かなくなる。止めを刺そうと、鉄塊を引き上げた熊男の背後から、今度はサージャが襲いかかった。大仰に仁王立ちの姿勢でいた熊男の膝裏を盾の縁で殴りつけ、四つん這いの姿勢になったことで仰向けになった熊男のもう一方の膝裏を剣で思いきり突き刺した。


 広大な森の中に熊男の雄叫びがこだまする。間近で耳にしたサージャは意識が飛びそうになるのを堪え、立ち上がれないままの熊男の頭部を思いきり蹴り上げると、横になったままのカイエを肩に担ぎ、盾も捨てて全力で走り出した。


 猫の目を持つサージャは集中することで暗闇の中もある程度見通すことができる。だが背後に脅威を感じながら夜中の森で友人を背負って力走する今、それは簡単なことではない。

 サージャは密生する樹々から顔面に降り注ぐ容赦ない枝葉の攻撃を気にもとめず、ときには転げそうになりながらも走り、先ほどから意識のない友人に声をかけ続けた。


「おお、オオぉォ!!」


「チッ」


 返事をしないカイエの代わりに背中に届いたのは復活した熊男の裂帛の怒声であった。

 猫の獣人の特性が軽やかさとしなやかさであるならば、熊の獣人の場合は力強さとその脅威的なタフネスである。加えて獣還りだ。サージャとカイエを襲う彼は右脚を貫かれたばかりであるにも関わらず、早くもサージャを凌駕する速度で迫り来ていた。


「るぅぅ、ぅ、オオオオおああああぁっ!」


 狂気を孕んだ脅嚇の雄叫びはサージャの背筋を凍らせた。吼え声は明らかにサージャの背中に近づいていた。

 サージャは憤激した敵の速度が自分を上回っていることを理解した。逃げきれない。とは言え、足に剣を突き立てられてもダメージを微塵も感じさせずに襲い来る敵に勝ち目などない。ここまでとは。もともと腕の立つ戦士でたり、恵まれた熊獣人種族でもあった。だが獣還りとはここまでのものであったか。

見るのは初めてではなかったがここまでの変化は初めてだった。

 どうにか、なにか、打開策はないのか、喘鳴しながら思考を巡らすサージャの耳が水の音を捉えた。


「川だ、カイエ、川があったよ!」


 相棒に聞こえているとは思えないが、サージャは言わずにはいられなかった。

 彼らを襲う大男は重厚な鎧に身を包んでいる。いかな熊の獣人といえど水深のある川なら渡ることはできないはずだ。ましてや理性を失った。脇目も振らず熊男からひた走ってきたサージャはどうか大きな川であることを期待しつつ、せせらぐ川へと向きを変えカイエへの鼓舞を続ける。


「大丈夫、もう大丈夫!」


 自身にとっても奮激である何度目かの掛け声を発したと同時、轟音と共にサージャの後ろで地面が揺れた。直後に熊男の怒罵がサージャを捕まえる。サージャの視界の端に再び黄金色の光を宿した熊男の双眸が映った。だがその色は狂気でしかない。振り下ろした剛腕がサージャが跳んだ岩を砕き、鉤爪は樹々を引き裂いた。

 真後ろから交互に襲いかかる破砕音と悪罵を躱しながら前へ前へと走る。一歩足を踏み出す度にせせらぎは大きくなり、一歩足を踏み出す度に前方の月明かりが広がっていく。

 そして最後の一歩、すでに熊男の熱い呼気を肌で感じていながら懸命に前へと運んだ足は、涼やかな突風を受けた。


「川じゃ、ない……!」


 眼前の光景に独り苦闘し続けていたサージャは足を止めた。肩から相棒がずるりと落ちた。

 彼を待っていたのは二人の身を守ってくれる豊かな川ではない。風切り音の止まない断崖だったのだ。谷の底から波の割れる音が微かに聞こえた。

 生唾を飲み込んだサージャはゆっくりと後ろを振り返る。恵まれた体躯の上で、熊男の目はにたりと歪められた。


「ブブふ、ブフェ、お、オ、ひヒヒィ……」


 ゆったりとした口調で嗜虐的な笑みを浮かべた熊男は口元から零れる涎を気にもとめず、恐怖心を煽るようにゆっくりゆっくりと距離を縮める。


「やられやしないよ、のろま」


 逃げ場はない。友が動かない以上、玉砕覚悟の無謀な戦いを挑むこともできない。

 最早逡巡する余裕もなかった。崖とは言え、下は川じゃないか。

 サージャは熊男を嘲笑うように一言吐き捨てると、カイエの体を引き寄せた。そのときである。


「……左、ポケット」


 カイエだった。もしかするとずっと前に意識を取り戻していたのかもしれない。羽音のように微かだったから、口許に耳を近づけるまで気づかなかった。


「投げろ」


 サージャは寸暇の迷いも見せず、カイエの外套の左ポケットの中身を熊男に投げつけた。同時にカイエが呪文かなにかを唱えた。


「……スコム・セバ・クエ」


 ポケットの中身は何かの薬瓶のようだった。顔に向かって投げつけられた薬瓶を熊男は驚きもせず、大口で掴みとり、バリバリと噛み砕いた。


「ほんとだ……馬鹿だ」


 カイエが苦しそうに窃笑をこぼすと同時、熊男が絶叫した。

砕けた薬瓶の中の液体は重く、粘度の高い光沢のある黄色っぽい液体だった。

樹液か?

サージャが推測した液体はカイエの呪文を引き金としたのか、ウネウネと熊男の口中で蠢き、いきなりズタズタに引き裂いた。


「あれはエキムシ(餌肌蟲)です」


「虫!?」


「……力が強く、樹液に擬態して飛び込んできた獲物を粉々にして捕食します。森の恩恵の一つですね」


 カイエがサージャに肩を借りながら呼吸を整える。


「加えて言うと食欲旺盛で、エネルギーになるならなんでも食べます。液状の排泄物がそのまま狩場の樹皮に吸収されるので樹とは共生関係にあります。良い子ですよ」


「なんてものを持ち運んでいるんだ……」


 顔中を引きつらせながら零したサージャの前ではこの世の物とは思えないような光景が広がっていた。

薬瓶いっぱいにつめこまれていた餌肌蟲はよほど空腹だったのか熊男の口中を貪り続け、熊男の頬は穴だらけになっている。その穴からはキラキラとした餌肌蟲たちが放射状に広がっていく食事風景が筒抜けだ。柔らかいのがお気に召したのかすでに熊男の口には舌がない。

最初は一かたまりだった餌肌蟲はどんどん薄く広がっていった結果、口中に収まりきらなくなった蟲達は口の表側や喉の奥へと侵食をはじめた。あっという間に熊男から唇がなくなった。

 熊男からはすでに絶叫は引き、ただただもがきのたうちまわる苦悶だけが感じ取れる。


「……なんか、蟲、気のせいだといいんだけど、増えてない?」


「あれは単一生殖できますからね。餌さえあればあっという間ですよ」


「……熊、一人分?」


「さすがに三分の一ほどで止まると思いますよ」


 中途半端に止まるなよ。サージャは三分の一ほどを捕食され、頬肉同様穴だらけになった熊男を想像して身震いした。

 あまりにもおぞましい。

 サージャは熊男と邂逅してからを反芻していた。

 はじめは用心すべき追っ手であり、次には優れた戦士であった。上手はこちらであったが、一対一ならわからなかったし、敬意すら抱いていた。

獣還りにより、理性を失った彼は自分の腕では手に負える存在ではなく、相棒が倒れたことで逃げるので精一杯であった。いや、それすら叶わなかった。

それが、これか。


「この世界には化物が多すぎる」


「酷いですね、この子は悪神の残し子じゃありませんよ」


「これを善なる被造物とは認めないぞ」


「もしかして虫、苦手です?」


「そもそも虫なのこれ? ほんとうに自然に属してる?」


「命の恩人なのに……」


「人ではない。獣還りすら人とは認めたくないのにあれはない」


 頑なに否定を続けながらもサージャは歯噛みをしていた。自分は相当に腕の立つ方の戦士であると思っていた。一日に二度負けた気分だ。一度は獣人の誇りを捨てた獣に。二度目はもはや摂理の外に属していそうな虫なる化物に。悔しかった。

 だからだろうか。


「そういや、コイツは結局手紙を追いかけていたんですかね?」


「確認しよう」


 言うと、サージャは懐にしまっておいた封筒をあっさり開けてしまった。

 許可なく五大家の機密文書に目を通せばどうなるか、二人は当然理解している。

だがそれ以上に好奇心が上回った。秘密を追いかけてみたくなった。なにかを追いかけてみたくなった。


「……つまり、これがトーダに届かないと何かとんでもないことが起こると?」


「大陸最大、ザーリスの中央神殿からの密書。もしこれが消えた神々関係だとしたら、ワクワクしない?」


 二人は顔を見合わせた。どちらともなく笑い出す。

次の目的地は決まった。稼ぎはいいがせせこましい戦場漁りはもうやめだ。冒険を始めよう。

 しかし二人は気づいていない。

 サージャは剣と盾を忘れている。

 カイエは弓を落としたままだ。

 二人は気づいていない。

 なぜなら二人は今を生きる。刹那主義者たちである。

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