月蝕病
「血が薄まったみたいな色やね…」
空を見上げてきみが言った。
食われる、というぐらいだから血ぐらい出るだろうと思ったけど、ぼくは鼻水をすすって口にしなかった。
きみの指は冷たくて、時折かたかたと手のひらで震えた。
月の流した血は、なにに薄まるのだろうかと考える。
今夜、みんなが同じこの月を見てる。不思議なことではないけれど、とても素敵なことだと思った。
静かにゆっくりと夜が暗くなる。秋の風は冷たかった。
「不吉なんやて」
ぽつりときみが言う。
「え?」
ブラッドムーンとも呼ばれるのだ。たしかに血を連想させる禍々しい色に染まっていて、昔の人は不吉がっていたという話にも納得してしまう。
見慣れているはずの月の模様は、濁った血の色をこびりつかせて、子供の頃に擦りむいたひざ小僧のかさぶたを思わせた。
寒さで耳が痛くなったぼくがふり返る。
きみは首を傾けて、ちっともぼくなんて見もしないで、「ああ、もうすぐ消える」と呟いた。
「消えないよ」
ぼくが言う。少しあわてて。
きみはふり返らない。ずっと月を見つめたまま。ぼくの手のなかで、指はずっとかたかた鳴り続けていた。
そのきれいな横顔は、光が欠けていくにつれて影に染まっていくのに気づいて、ぶるりとぼくは身震いした。
「知っとる」
きみはちょっとだけ笑った。
「月はね、腐食しとるんよ。いっつも太陽の光を受けてるから、ちぃとも見えへんけど、本当はもうずっと前からそうなんやて」
「そうなの?」
ちらりと横目でこちらを見て、きみは続けた。
「本当は見られとうないんかも知れへんね。そういえば、毎年ちょっとずつ地球から離れていってるって知っとる?」
「え。月が?」
「そう。私たち、いつまでこの神秘的な現象を見てられるんかね。…百年? 千年?」
宇宙を漂っていた月を地球の引力が捕まえたとか、地球に隕石がぶつかって誕生したのが月だとか、いろんな説があるけれど、ずっとずっと本当にぼくらが想像もつかないほど長い間、この惑星と一緒にいたのだ。
それがまた長い時間をかけて、離れ離れになってしまうだろうというその途方もない流れに、ぼくは空虚なさみしさをおぼえた。
日食も月食も、太陽と地球と月が絶妙の距離感にあるからこそ起こる現象だと聞く。
大昔の人だって、こうやって夜空を見上げてそれぞれのさまざまな思いを抱いたのだろう。そこに未来を描いたのだろう。
何千年後かは知らないけれど、その頃のぼくらはもうこの景色を見ることはないのだ。
そう考えるとぼくはたまらなくなって、きみの冷たい手をにぎりしめた。
するときみは、相変わらず空を見上げたままだったけど、なんだかすっかり安心したように口許をちょっとだけゆるめてぼくの名前を呼んだ。
「ごめんね。ちょっと助けてくれる? なんか首、違えたみたいで治らんのやけど…」