*大勝負
藤井英人のプレーは、やはり目を見張るものがあった。
コーチの球出しは練習が前提だから易しいものであるとはいえ、そのスピード、コントロール、パワー、いずれにおいてもプロとしか言いようがない。これで世界に通用しないとなると、テニスの世界の厳しさに眩暈がしそうだ。
僕もまともに続けていたらこれだけ上手くなれただろうか? いや、到底及びもしないだろう。経験、体格、才能……すべてが僕には不足している。何より、僕は厳しい世界で生き抜くだけの心のタフさがない。
諦めを再確認しつつスポーツドリンクで喉を潤す。まったく、体を動かすと時間が早く過ぎるように感じる。すでにレッスンは終了し、藤井英人はファンに囲われサインをせがまれている。みのりもその輪の中へ二枚の色紙を持って突入していったから、あとで譲ってもらおう。
しばらくすると、揉みくちゃにされていたみのりが戻って来た。息を切らしながら、僕にも色紙を一枚渡してくれる。
「お、ありがとう。わざわざ」
「すごい人気。やっぱり期待の選手なんだね」
みのりは微笑んだが、すぐに引っ込める。
「……訊くの?」
「そのつもり。多くは引き出せないにしても、ね」
みのりの切り替えに合わせて、僕もスイッチを入れる。憧れの選手との楽しい時間はお開き、これからは鋭い鷹の目を開かなくてはいけない。
人がはけるのを待ち、ついに最後のひとりが去って行ったのを見て藤井英人のところへ歩み寄った。本人はレッスンのときと同じ好青年然とした表情を崩さない。
「ああ、きみたちふたりか。どうしたの? まだ何かある?」
息を吐き、緊張を鎮める。
「ええ、実は訊きたいことがあって」
「うん? きみは確か、かなり上手だった憶えがあるけど、何か訊くことが? ああ、その前に名前を聞いておこうか」
「清瀬忠といいます。こちらは、恵那みのり」みのりの会釈を藤井英人が見届けたのを確認して、プロから褒められた嬉しさを噛み殺し慎重に続ける。「それで、訊きたいのはそういうことではないんです」
「じゃあ、何を?」
「僕たち、永正学園の生徒なんです。藤井選手と同じ」
「へえ、そうなんだ! 懐かしいね、この後ちょっと挨拶に寄ろうかと思っていたんだ」
「その永正学園で、僕たちはテニス部を作ろうとしているんです」
藤井英人の眉が寄った。
「テニス部が廃部になったこと、知っていますよね?」
「うん、OBだもの」
「そうでしょうね、ちょうど部長の時期だったはずです」
「おお、よく調べてあるね」
「はい……だって、僕たちは十年前に何が起こったのか、知ろうとしているんですから」
そのOBの目の色が変わる。僕より五センチは背が高いだろうか、斜に睨み合うような格好になる。怯まずに立ち向かう。
「知っていることを教えてもらえませんか? その様子だと、何か知っているようなので」
「そうだね……あまり思い出したくないんだよ。さすがに、母校でテニスができなくなったときの辛さは忘れたい」
「無論、無理は言いませんが……とはいえ、滅多にないチャンスですから、僕たちだってことを鮮明にしてしまいたいのです。長引かせると、復活させる意義が薄れてしまいますからね」
不意に、藤井英人はふっと鼻で笑った。
「熱意は伝わったよ、同じテニスを愛する者としてね。答えてあげなくもない、だから、僕からの我儘も聞いてもらえないかな?」
「……ええ、叶えられることなら」
「じゃあ、ゲームをしよう」
「――は?」
「一ゲームだけ……そうだね、サーブが片方じゃ面白くないから、タイブレーク方式でやろうか。清瀬くんが勝ったら、何かしら話せることを話すよ。無論、素人相手にそこまで本気にはならない。どう、乗る?」
――プロと、ゲーム?
手加減をされるとはいえ、勝ち目などあるのか? 事件のヒントを得るには避ける選択肢などないのは解っているが、勝てる見込みのない選択肢をわざわざ選んではただ損をするだけだ。
しかし、タイブレークというのもまた判断を困らせる。引き分けを避けるための方式で、七ポイントを二ポイント差以上で先取したときに勝ちになるから、二点差以上四点先取の普通のゲームよりもやや長丁場となる。長くなったら不利なのだが、サーブ権が移動することは考えたい。普通のゲームで一ゲームだけ試合をした場合、僕か藤井英人かが打ち続けることになる――当然サーバーが有利なスポーツだから、トスで勝負が決まってしまいかねない。僕から打つことが約束されるとやや希望が見える。
「忠……」
みのりが何か言おうとしたが、口を噤んでしまった。
天秤にかける。プロの力をコートに立って感じたいか、交渉を粘って情報を手に入れたいか。
「解りました、乗ります」