♪忘れていた先生
トイレと言ったけれど、そんな意味はない。ただ恥ずかしかっただけだ。
コートを出てしまえば退屈になる。仕方がないから、中庭の自販機のジュースでも飲んで戻ることにしよう。
その中庭の自販機へと歩いて行ったとき、そこに白髪のおじさんが歩み寄ってくる。誰だったかな、憶えがない。
「こんにちは」
ひとまず会釈して挨拶をすると、おじさんは挨拶を返して立ち止まる。
「こんにちは、部活?」
「はい」
「暑いから気を付けて。それと、宿題もちゃんとやらないと、成績まずいからね」
「へ?」
授業を教わっている先生だったらしい。これはまずい、誰だったか思い出さないと。
「きみ、恵那みのりさんだよね?」
「はあ……そうですけど」
向こうはわたしを知っているのに、思い出せない!
「夏休みは特に、英語をちゃんとやるように」
「え? 英語は永江先生と飯尾先生ですよ」
一年生の英語はリーディングとライティングがある。永江先生はリーディングを教えてくれる若い女の先生で、同じく若い飯尾先生もライティングを受け持つ太った男の先生だ。どちらの先生も、目の前にいる眼鏡で顔の長いおじさんとは違う。
「ああ、僕は英語の主任。知らなかった?」
「そうなんですか……」
「言ったように、宿題はちゃんとやるようこと。さもなくば、今度こそ赤点。きみの成績がまずいって、永江先生も飯尾先生も言っているんだから」
「……はあい」
ここで、英語の主任の先生は手を腰に置き、少し笑いながら首を傾げる。
「まさか、僕のこと知らない?」
「……ごめんなさい」
「あはは、やだなあ。ここの校長だぞ」
「――ああ!」
思い出した、朝礼で見たことがあったのだ。
はっとして首からかけているネームプレートを見ると、『八重樫』とある。そうだ、永正学園の校長先生はこんな名前だった。下の名前は……『ふで』? いや、よく見るとフリガナは『ハジメ』となっているし、そもそもそんな名前のはずもない。見たことのない細かくて難しい漢字だ。
「すみません、八重樫先生」
「よかった、思い出したか」
ほっとしたように苦笑いする。ど忘れは仕方がない。
「そういえば、校長先生は何を?」
「ああ、いまから外へ出るところなんだ。出張」
「はあ、校長先生が」
「そうそう。いつでも校長室にいるわけじゃないのさ」
永正学園の校長室ってどこだったかな?
「さ、時間だから行こうかな。頑張れよ」
「はあい」
校長先生は自販機でペットボトルのお茶を買い、校門のほうへと歩いて行った。
さて、わたしもさっさとジュースを飲んで戻ろう。