第7話 瓦礫の上の誓い
無機質な電子音が、生命の鼓動を代弁するように、静かに、そして規則正しく響いている。
そこは、国際戦略育成機関アストラル学苑の最奥に位置する、集中治療ユニット。
ガラス一枚を隔てた向こう側。白いシーツに沈むように、天野光は眠り続けていた。無数のチューブとコードが彼女の身体に繋がり、かろうじてその命をこの世に繋ぎとめている。
神凪蓮は、そのガラスに額を押し付けるようにして、無言で彼女の姿を見つめていた。
彼の顔に、かつての『感情のない人形』の面影は、もうどこにもなかった。
背後で、白衣を纏った医師が、淡々と、しかし残酷な現実を告げる。
「一命は取り留めました。奇跡と言っていいでしょう。しかし……NSIを介した過剰なフィードバックにより、神経系に深刻なダメージが見られます。脳波は安定していますが、意識がいつ戻るか……正直なところ、我々にも分かりません」
蓮は何も答えなかった。ただ、強く、強く拳を握りしめる。爪が掌に食い込み、血が滲んだ。ガラスに映る自分の顔は、どうしようもない悔しさと無力感に、醜く歪んでいた。
◇
学苑長室の重厚なマホガニーの机は、まるで法廷の被告席と判事席のように、蓮と学苑長とを隔てていた。
「まず、君のチームの勝利を祝福しよう、神凪くん。見事な逆転劇だったと聞いている」
学苑長は静かに口を開いた。
「ファーデン側の明確なレギュレーション違反だが、残念ながら、これは国家間の政治的取引により、『大規模な機材トラブル』として処理されることになった。公にはされない」
「……なぜです」
「大人の世界の、汚い取引だよ。そして、君の明確な命令違反も、結果的に勝利したという事実をもって不問とする。これが、上層部の決定だ」
学苑長はそこで言葉を切ると、意味深な視線を蓮に向けた。
「この『寛大な』処置が、君の父親である神凪副長官の政治的な力によるものだということを、忘れないように。……神凪くん、君はまだ、大きな鳥かごの中にいるのだよ」
その言葉は、見えない楔となって、蓮の胸に深く、重く突き刺さった。
自室に戻ると、待っていたかのように壁のスクリーンが起動した。父、神凪副長官からの通信だ。
そのホログラムは、労いの言葉一つなく、ただ冷たい断罪の言葉だけを投げつけてきた。
『結果を出したのは評価する。だが、お前の取った感情的な行動は、神凪家の人間として最大の禁忌だ。一体、誰に許されてその命令を下した?』
『今すぐそのくだらん感傷を捨て、完璧な道具に戻れ。それが、お前に与えられた最後の機会だ』
それは、絶対的な支配者からの最後通牒だった。
しかし、蓮はもう、その言葉に怯え、従うだけの少年ではなかった。
彼は初めて、明確な意志を持って、父に反逆の言葉を返した。
「――お断りします」
『……何だと?』
父のホログラムが、驚きに目を見開く。
「俺はもう、あなたの道具ではありません。俺は、俺の仲間たちと、誰一人見捨てない未来を掴みます。そのためなら、あなたにも、この国にも逆らう覚悟です」
『貴様ッ……!』
父が激昂する声を背に、蓮は自らの手で通信を一方的に遮断した。
それは、過去との、そして「道具」であった自分との、完全な決別を意味していた。
◇
夕暮れのトレーニング施設。
蓮は一人、黙々とトレーニングに打ち込んでいた。滴り落ちる汗が、彼の心にこびりついた迷いを洗い流していくようだった。
そこへ、「よぉ」というぶっきらぼうな声と共に、大友をはじめとするチームメイトたちが姿を現した。
少しだけ気まずい沈黙が流れた後、大友が口火を切る。
「天野のお見舞い、行ってきたぜ。顔色、昨日よりはマシになってた。……お前も、一人で全部抱え込むんじゃねえよ」
その言葉は、不器用だが、確かな優しさに満ちていた。
他の仲間たちも、次々に口を開く。
「次の試合、どうするんだ?」
「俺たちは、お前の指示を待ってるぜ、司令官」
彼らは、改めて蓮を自分たちのリーダーとして認める意志を、その態度で示していた。
蓮は、初めて感じる仲間との温かい繋がりに、ただ静かに頷き返すことしかできなかった。
その夜、蓮は自室で、今回の事件で入手したファーデンの違法兵器のデータを、独力で解析していた。
勝利の裏で、あまりにも多くの謎が残されていたからだ。
そして、彼はある恐るべき事実に気づく。
この兵器に使用されているOSの基幹技術の一部は、ファーデン単独で開発できるレベルを遥かに超えていた。その背後にいる、巨大な軍産複合体のような「何か」の存在が、暗い影となって浮かび上がる。
さらに――。
蓮は、その技術データの一部が、アストラル学苑の機密サーバーを経由した、微かな痕跡を見つけてしまった。
敵は、外だけにいるのではない。この学園の、内部にも……。
蓮は、吸い寄せられるように屋上へと向かった。
冷たい夜風が、火照った頭を冷やしていく。空を見上げると、そこには、同じように眠れずに集まってきた仲間たちの姿があった。
蓮は、仲間たちに、自分が突き止めた事実を、ありのままに話した。
「俺たちの本当の敵は、ファーデンじゃないのかもしれない。この偽りの戦争そのものを、裏で操っている巨大な悪意だ」
仲間たちは驚きに目を見開いたが、誰一人として蓮の言葉を疑う者はいなかった。あの死闘を共に戦い抜いた絆が、彼らを繋いでいた。
蓮は、仲間たちの顔を一人ひとり見渡し、決意を込めて宣言した。
「偽りの戦争を終わらせる。そして、天野をこんな目に遭わせた連中を、必ず俺たちの手で引きずり出す。それが、俺たちの新しい目標だ」
その言葉に、仲間たちも力強く頷いた。
彼らのチームは、この日、この瞬間、本当の意味で結成されたのだ。
――その頃。
誰にも知られることなく、学苑の集中治療ユニットで、小さな奇跡が起きていた。
眠り続ける光の指先が、ほんのわずかに、ピクリと動いた。
それは、夜明けを待つ世界に灯った、小さな、しかし確かな希望の兆しだった。
屋上で、ゆっくりと白み始める東の空を、蓮たちは見つめていた。
それは、偽りの平穏の終わりと、本当の戦いの始まりを告げる、夜明けの光だった。
その光を浴びる蓮の横顔は、もはや迷いを宿してはいなかった。ただ、揺るぎない決意だけが、そこにはあった。