第2話 ノイズとセオリー
夜の静寂が支配する自室で、神凪蓮はホログラムスクリーンに映し出された光の粒子を、ただじっと見つめていた。
それは、数日前のシミュレーターで記録された、一人の転校生の戦闘ログ。
同じデータが、既に百回以上は繰り返し再生されている。
『――なんだ、あの動きは! セオリーから外れすぎてる!』
管制ブースで聞こえた他の生徒の声が、脳内で反響する。その通りだ。彼女、天野光の操るアストラル・ドールの動きは、戦術教本に書かれているセオリーをことごとく無視していた。
敵の射線にわざと身を晒すような無謀な接近。防御を度外視した大振りの攻撃。一つ一つの挙動は非効率の極みであり、撃墜されて当然の自殺行為に等しい。
だが、結果は違う。
蓮の脳内シミュレーションが「撃墜確率98%」と結論づける局面で、彼女の機体は紙一重で致命打を回避し、予測不能のタイミングでカウンターを叩き込んでいた。
「……非効率な動きだ。無駄が多い。だが……」
蓮は無意識のうちに呟いていた。
彼の完璧な戦術理論では、この結果は説明できない。まるで、あらゆる物理法則を無視して飛ぶ蝶のようだ。不規則で、予測不能で、そして――目を離すことができない。
不意に、あの時の言葉が耳の奥で蘇る。
『――なんだか悲しそうに見えるよ』
その瞬間、蓮の思考に微かなノイズが走った。彼は小さく舌打ちをすると、再生を停止し、スクリーンを強制的にシャットダウンした。暗転した視界の奥で、屈託のない笑顔の残像が揺らめいていた。
◇
翌日の昼休み。
国際戦略育成機関アストラル学苑の巨大な食堂は、多くの生徒たちの喧騒で満ちている。しかし、蓮が座るテーブルの周囲だけは、不自然な空白地帯となっていた。彼は栄養バランスと摂取カロリーだけを計算して選んだ簡素な食事を、感情の介在しない、ただのエネルギー補給作業として無心に口へ運んでいた。
「あ、いたいた! 神凪くん、相席いいかな?」
その声は、静寂を切り裂くように、何の遠慮もなく蓮の耳に届いた。
見ると、野菜たっぷりのランチプレートを乗せたトレーを持った天野光が、にこやかに立っている。
蓮は返事をしなかった。視線すら合わせず、黙々と食事を続ける。それが彼の世界のルールであり、他者を拒絶する無言の壁だ。
だが、光はその壁を意にも介さず、当たり前のように向かいの席に腰を下ろした。
「わ、神凪くんの食事って、なんかすごいね。全部計算されてそう!」
「……」
「あ、そうだ! 昨日のシミュレーター、私どうだったかな? もっともっと強くなって、ちゃんとみんなの役に立ちたいんだ!」
太陽のような笑顔で語る光に、蓮は初めて動作を止めた。フォークを置き、色のない瞳で彼女を真っ直ぐに見る。
「……強くなって、どうする」
初めて返ってきた問いに、光はきょとんとした顔を見せた後、満面の笑みで答えた。
「決まってるよ! 強くなって、大事な仲間を一人も失わないで勝てるようになりたいから!」
仲間を、一人も失わないで。
その言葉を聞いた瞬間、蓮の世界から再び音が消えた。それは、彼が父から、そして神凪家の教えから、最も非効率で実現不可能な「感傷」として切り捨てるように教え込まれてきた思想だった。
「無意味だ」
冷たく、突き放すような声が出た。
「勝利に必要なのは、感傷ではない。最も効率的な損益計算だ。犠牲を許容できぬ者に、司令官の資格はない」
そう言い放つと、蓮は残りの食事を数秒で胃に流し込み、トレーを持って席を立った。
「あ……」
背後で光が何かを言おうとしたが、彼は振り返らなかった。残された光は、遠ざかっていく彼の背中を、少しだけ寂しそうな目で見つめていた。
その日の放課後、蓮はアストラル・ドールが並ぶ巨大なハンガーを訪れていた。目的は天野光の適性データのより詳細な分析。彼女の「非論理的」な強さの正体を、彼の「論理」で解体する必要があった。
ハンガーの片隅で、彼女はいた。
自分の練習機である中量級のアストラル・ドールに寄り添い、柔らかい布で装甲を拭いている。その姿は、まるで愛馬を労う騎士のようだった。
「いつもありがとうね、この子。次も一緒に頑張ろうね」
機体を「この子」と呼び、生き物のように話しかけている。蓮には理解不能な光景だった。
「天野」
背後から声をかけると、光はリスのように驚いて振り返った。
「神凪くん! どうしたの?」
「お前の機体データを見せろ。セッティングログを全て開示しろ」
命令口調にも関わらず、光は嬉しそうに頷くと、携帯端末を操作してデータを転送してきた。
蓮はその場でデータに目を通し、すぐに眉根を寄せた。
「……なんだこれは。セッティングが基本セオリーから外れすぎている。関節モーターのトルク配分も、エネルギー配分も、これでは機体性能を100%引き出せない。全てにおいて非効率だ」
それは、教科書を真っ向から否定するような、我流のセッティングだった。
光は少しむっとした表情で言い返す。
「でも、この子にはこっちのセッティングの方が合ってる気がするんだ。無理させてないっていうか……私、この子の声が聞こえる気がするから」
「……非科学的な妄言だ」
蓮はそれだけ言うと、踵を返した。
道具は道具だ。声など発するはずがない。性能を最大限に引き出し、壊れるまで使い潰す。それが正しい運用方法だ。
蓮の背後で、光が何かを呟いた気がしたが、彼の耳には届かなかった。
◇
数日後、学苑の空気は一変した。
ニュースは連日、日本と隣国「ファーデン帝国」との間で高まる地政学的リスクについて報じていた。海底資源の探査権を巡る対立が、一触即発の状態にあるのだと。
「なあ、また『試合』があるんじゃないか?」
「相手がファーデンじゃヤバいぞ。あいつらは勝つためなら非合法なことも平気でやるって話だ」
廊下や教室で交わされる生徒たちの囁きには、これまでとは違う、肌を刺すような緊張感が含まれていた。
そして、その日はやってきた。
全校生徒が講堂に集められ、学苑長が厳粛な面持ちで演台に立つ。
「諸君に伝える。この度、ファーデン帝国アカデミーとの『親善交流試合』の開催が決定した」
親善、という言葉の白々しさに、講堂全体が重苦しい沈黙に包まれる。誰もが理解していた。これはスポーツの交流試合などではない。国家の威信と莫大な利権を賭けた、ウォーゲームの皮を被った「本物の戦争」なのだと。
蓮は壇上を見つめながら、静かに目を閉じた。感じる。戦場の匂いを。血の匂いを。そして、己に課せられた宿命の重さを。
自室に戻ると、間を置かずに壁のスクリーンが起動した。父、神凪副長官からの緊急通信だ。
『聞いたな、蓮。相手はファーデンだ。これは戦争に他ならない』
その声は、いつも以上に冷たく、硬質だった。
『我が国の未来のため、いかなる犠牲を払ってでも勝利しろ。神凪家の名に泥を塗ることは、断じて許さん』
「――はい」
短い返事。それだけで、蓮の覚悟は決まった。
通信が切れると同時に、蓮はファーデン帝国アカデミーの過去の膨大な戦闘データを呼び出した。彼の指が、凄まじい速さでホログラム・キーボードを叩く。
数時間に及ぶ分析の末、敵の戦術パターンが明らかになった。彼らの得意戦術は、重装甲・高防御力を持つ盾役ユニットを囮にして敵の攻撃を一点に引きつけ、その隙に遊撃部隊が側面を突くというもの。極めて堅実で、一度ハマれば抜け出すのは困難な鉄壁の布陣だ。
この鉄壁の盾を、正面から打ち破るには――。
蓮は思考を巡らせ、必要なパイロットの適性データをシステムに入力した。
『――要求スキル:超々近接戦闘における、セオリー無視の突貫能力。予測回避パターンに依存しない、反射速度と直感。』
システムが最適解を検索し始める。そして、数秒の演算の後、一つの候補者を弾き出した。
モニターに、一人の生徒の顔写真がポップアップ表示される。
適性率――99.8%。
そこに映っていたのは、屈託のない笑顔を浮かべる、天野光の姿だった。
蓮はその写真――自分にとっての理解不能な「ノイズ」の象徴――を、色のない瞳で静かに見つめ、そして、冷たく呟いた。
「――最適解」
彼女を、最も危険で、最も効果的な「駒」として使うことを決意した、人形の瞳に感情はなかった。
ただ、その奥底で、何かが微かに軋んだ音を立てたのを、彼自身はまだ知らなかった。