第27話 偽りの日常と追跡者
錆びついた鉄の扉を開けた瞬間、流れ込んできたのは、忘れていたはずの、夜の冷たい空気と、遠くで響く都市の喧騒だった。
地獄のような学園を生き抜いてきた神凪蓮たちにとって、そのあまりに平和な光景は、まるで異世界の出来事のように、現実感がなかった。
ネオンの光が、重い雲に反射して、臨海工業地帯の無機質な建物の輪郭を、ぼんやりと浮かび上がらせている。
「……ゲホッ、ゲホッ…!」
外気に触れた途端、天野光が、苦しそうに激しく咳き込んだ。ラグナロクが始まって以来、ずっと医務室にいた彼女の身体は、まだ万全には程遠い。
蓮は、言葉もなく、自分が着ていたジャケットを、そっと彼女の肩にかけた。
「……ありがとう、蓮くん」
光は、小さな声で礼を言う。その顔は、月の光の下で、痛々しいほどに青白かった。
彼らは、人目を避けるようにして、近くの、今は使われていない巨大な廃倉庫へと、その身を隠した。アストラル・ドールを格納し、つかの間の休息を取るためだ。しかし、その平穏は、あまりにも脆く、儚いものだった。
◇
廃倉庫の片隅で、蓮たちが、おそるおそる携帯端末の通信機能を回復させると、その画面は、凄まじい量のニュースアラートによって、瞬く間に埋め尽くされた。
その見出しは、どれも衝撃的なものだった。
【速報:アストラル学園、テロリストにより占拠か】
【過激派学生グループ『アストレイ』、学園内で暴走。多数の負傷者】
【主犯格の生徒の顔写真を公開。警察は、テロ対策特別捜査本部を設置】
テレビ、ネットニュース、SNS……その全てが、「アストラル学園テロ事件」の特集で埋め尽くされていた。
そして、その「主犯」として、神凪蓮、月読朔、大友翔太――アストレイのメンバー全員の顔写真が、大々的に、そして悪意に満ちた形で、日本中に拡散されていた。
教育指導委員会による、完璧なまでの情報操作。
世界を救うための戦いを始めたはずの彼らは、一夜にして、社会の秩序を乱す、凶悪な「テロリスト」へと堕とされていたのだ。
「……なんだよ、これ……」
大友が、呆然と呟く。
その時だった。彼らの端末が通信を回復したことで、その位置情報が、当局に特定されてしまったのだ。
廃倉庫の外で、複数のサイレンの音が、急速に近づいてくる。
窓の隙間から外を窺うと、公安警察が運用する、多数の警備ドローン部隊が、既に倉庫を完全に包囲していた。
『――神凪蓮! テロの首謀者よ、ただちにおとなしく投降しろ! 抵抗は無意味だ!』
拡声器による、冷たい警告が響き渡る。
「……行くぞ」
蓮は、短く、しかし強い意志を込めて言った。
「ここから、俺たちの本当の戦いが始まる」
仲間たちは、無言で頷くと、それぞれのドールを再び起動させた。
ここから、彼らの、終わりが見えない、過酷な逃亡劇が始まった。
◇
都市部から、山間部へ。
アストラル・ドールという巨大な存在を隠しながら、人目を避け、昼は洞窟や森の中に潜伏し、夜にだけ移動する。その過酷な逃亡は、彼らの心身を、確実に削り取っていった。
食料も、ドールのエネルギーも、底が見え始めている。
特に、光の状態は、日に日に悪化していった。体調の悪化と、自分がチームの足手まといになっているという、精神的な負い目が、彼女を追い詰めていた。
「ごめん……私のせいで、みんなが……」
焚火の前で、涙を浮かべる光。
蓮は、その隣に座ると、力強く、しかし優しい声で言った。
「お前のせいじゃない。俺が、お前を守ると決めたんだ。それだけだ」
仲間たちの、言葉には出さない、温かい視線。その絆だけが、凍てつきそうな彼らの心を、かろうじて支えていた。
しかし、追跡の手は、緩むことを知らなかった。
ついに彼らは、委員会の息がかかった、最新鋭の戦闘ドローンで構成された、直属の追跡部隊に、山中の深い渓谷で、完全に追い詰められてしまった。
四方を険しい崖に囲まれ、逃げ場はない。
圧倒的な数の敵を前に、蓮が、全滅を覚悟した、その時だった。
――ゴオオオオオッ!
凄まじいエンジン音と共に、渓谷の崖の上から、巨大な影が現れた。
それは、旧式の、しかし頑強に改造された、大型のトレーラートラックだった。
次の瞬間、その巨大な車体が、信じられない変形を遂げた。荷台やコンテナが、轟音と共にスライドし、その内部に隠されていた、無数のミサイルポッドや、大口径のガトリング砲が、一斉に追跡部隊へと火を噴いたのだ。
突然の奇襲を受け、完璧な布陣を敷いていた追跡部隊は、一瞬にして混乱に陥る。
トレーラーに内蔵されたスピーカーから、快活で、しかしどこか飄々とした、女性の声が響き渡った。
『――やれやれ、派手にやられてるじゃないか、お尋ね者さんたち!』
『乗りな! ここは、あたしら『アルゴノーツ』に任せな!』
その言葉と共に、トレーラーの後部ハッチが、巨大なスロープとなって、蓮たちの目の前へと降りてくる。
蓮は一瞬ためらった。だが、他に選択肢はない。
彼は、仲間たちに合図を送ると、巨大な移動要塞、**『アルゴノーツ号』**へと、その身を預けた。
新たな仲間との、あまりにも劇的な出会い。
アストレイのドールを格納した鋼の船は、混乱する追跡部隊を振り切り、夜の闇へと、その巨体を消していく。