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約束された敗北の鬱令嬢は如何にして壁画を描くに至ったか?

前略

物質の価値は常に変動するのでつまり永遠も無償もこの世には無いってわけだよワトソン君

彼女はもっぱら、自分のことをたいした価値のある生き物だとは思っていなかった

それはもしかしたら空が青いのにも腹が立つ日がある自らの精神状況を冷徹すぎる腑分けによって観察した結果かもしれなかったし

それか、もっと即物的に言えば世の中の価値とやらに懐疑的な質からくるものかもしれなかった

彼女の中で価値とは物質にそれ以外の思考する葦共が勝手にラベリングした過程のものであって、しかもそれは恐ろしいことに可変性のものであったのだった

永遠を信じようとする少女めいた信仰は五つになるころには彼女の中に残っていなかったし、

女の子は砂糖とスパイス、それから素敵なもので出来てなんかいなかった


嘆かわしいことに、イリス=サンタマリア=クレーン伯爵家長女はこのラグーン大陸の列島諸国随一の立地を誇る西部のまぁまぁ歴史がないでもない家に生まれてなお、それを生かす気もない社交に消極的というより絶食気味と言っても差し支えない程度の引きこもり女だったってわけなのだ


とはいえ彼女も何も実家で引きこもり生活ばかりしているわけでもない

なぜかっていうと、家族と折り合いが悪いから

具体的には、10になるまえの貴族令嬢がストレス要因で胃潰瘍やら腸過敏なんか患いっぱなしで自家中毒起こして何かあれば上から下からぴーぴー洪水大惨事

これにはもはや実家で家族や他家の貴族の皆様方とふれあいコーナーさァさ寄ってらっしゃい見てラッシャイこれからデビュタント前の令嬢令息叩き売りタイムセールの始まりだよォ!なんて複製音のたっぷり含まれそうな人間活動なんざドクターストップもかかろうってなもんだ

だから彼女は持て余されている自分を自覚した隙にさっさと程よい田舎の辺境寄り程よい都会(列島諸国ならではの矛盾表現!)にあるタウンハウスの所有権を勝手に主張することにして、これまた勝手に移住

やれまた勝手に庭やらなにやらに手を入れ始めたのだったとさ

どっとはらい


そうこうしているうちにイリスの妹が産まれたし、そのうち第四子の妊娠の報も届いてくる。

生家の産業は植物の品種改良からなる造園関連で、この前また何やらラナンキュラスの新色を発表したらしかった。

イリスの分の予算は社交をしない分多くはないが、継続して確保分配されている。

つまり事業も問題なし

いい感じのおうちは外から見たお屋敷が荒れてるようじゃあいけないらしい

金回りがいいおうちってのはお庭が奇麗で、住んでる人の髪の毛と靴なんかがぴかぴかなものらしい

だから貴族はそこのところ気を使うし、特に庭なんかはめちゃくちゃ手をかける

新しい種類の花はまずお茶会なるもので切花として吟味されたりなんかして、

それからいろんな場所に植えられたりしてお金になるものらしい

そんなにたいしたものじゃあないけれど、イリスもイリスなりに庭いじりをしていた。

このタウンハウスの土壌は正直植物栽培には向いていない

でもそのかわり、なんだってこうなっているのかわからないほどにはいろいろな色の石ころが出てくるのだった

イリスはそれを取り出して洗っては、乳鉢や薬研でえっちらおっちらどうにか粉末状にしたりなんかして、画材を作っては陶器の瓶に詰めてみるなどして暮らしていた


「お嬢様、イリス様!」

「なぁに?ねぇや」

貴族社会では初老にも差し掛かろうという女性がイリスの骨ばった肩にそっと手を当てた

彼女は霧にけぶるような薄緑がよく似合う

ガヴァネスのように慎ましやかで襟の詰まった品の良いデイドレスは、彼女を唯のねえやとは言えないような佇まいを与えていた


「本日は外出の日でございますよ」

「あぁ、うん。そう。そうだったわね」

えぇ、覚えていますとも

イリスはちょっと眉間にしわを寄せて呟くようにしていった。

気鬱の人間は無理に外を歩き回ってストレスをためるのもよくないが、安心地帯にこもりすぎるのもよくない、というのがイリスなりの考えであったのだ

そのため、医者に何かを言われるまでもなく彼女は外出の日をその時々に定めていた

その時にはお仕着せのように決まった服装と髪型をして、己の中にこの格好のときには外で過ごそうという条件付けさえ試みようとしていたのだった

アイボリーの地色に黒い大ぶりの幾何学的花模様の刺繡が入ったワンピースドレスは、ちょうど裕福な商家の娘と暮らしぶりのあまりよくない下位貴族の娘どちらにも見えるような服装であった

コルセットは外付けのささやかなもので、締め付け過ぎないのでさほど気分を急に悪化させるほどのものではない。

レースやドレープの見事さよりも刺繍やカッティングで雰囲気がさりげなくよく見える塩梅のものだ

凡庸ともいえるありふれた色の髪は下の方でシニヨン風の編み込みにしてワインレッドのリボンを結ぶ

外出用の茶色い編み上げのブーツに履き替えて、ようやくイリスは薄っぺらな胸に両手を添えるのだった


「はァい、芋虫ちゃん ご機嫌いかが?」

「おいおい、今日はあいにくの晴天じゃないか マッタクもって憎らしい程空が青いときた!レディ・バードの強運冴えわたるとはこの事だなァ」

脳内フレンズを頭の左右にふんわり配置する

イリスは胸元の手をぱたぱたと無意味に動かしてはどうにか自分のやる気を示して見せようとした

そうすることで足に羽でも生えて、るんたったとワルツでも踊る風に鮮やかに街歩きができないものかと悪あがきをしたのだ。

これは間違いなく彼女の対人関係の薄っぺらさによる幼さの表れだった。


「いいわ、ねぇや 行きましょう」

「ええ、お嬢様」


二人は視線をほんの少し交わすと歩き出した

この辺りは程よく都会と言っても、貴族の別荘が立ち並んでいる避暑地のようなものだった

だから、少しばかりの職人街とも言えるような買い物が出来る場所と大きな図書館

併設の殆ど人気の無い教会

そして多くの緑が大きな湖の周りにあるばかりであった

カフェなどもあるにはある

しかしながらイリスがそこに立ち寄ることはいまだに無かった

概ね彼女は水場と緑に囲まれたひんやりとした空気を肺に満たすために足を向けるか

もしくは職人街を無作為にぶらついてよく知りもしない人々の中にどうにか紛れようと試みるばかりであったのだ

彼女が心から落ち着いて会話ができるのは、悲惨な事に人生の殆どを側で過ごしているねえやと

図書館の司書であるクライスラー子爵令嬢

そして教会のボッチ管理者オルタンシア司祭だけなのだった

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