メルローズ家は皆、モフモフに冒されている
モフモフほのぼのなお話です。
ひとりでも多くの方に、お楽しみいただけますように。
メルローズ家の人間には、奇妙な癖があった。
それは――。
「はぁ……。良い……。実に良い……。この香ばしい小麦のような香り……」
この屋敷の主が白い長毛に覆われたお腹に鼻先をうずめ、恍惚とした表情を浮かべた。
その隣ではその妻もうっとりと頬に手を当て、幸せそうに微笑みを浮かべている。
「あぁ……。たまらないですわねぇ……。どうしてこうも小動物の耳の後ろはこんなにいい匂いがするんですの……? この香りの香水があれば、一生買い続けますのに……」
その思いつきに、子どもたちがぱぁぁっと目を輝かせた。
「僕もそれほしいです、お母様! 僕、今から不安なんです。寄宿学校には動物がいないし、この子たちにも会えるのも年に二度の長期休みだけだし……。でもそんな香水があったら毎晩安心して眠れそうです!」
「あら、私ならダースで買いますわ! 私だってお嫁にいったら、この子たちと離れ離れになるのよ? せめて動物好きの旦那様が見つかるといいのだけれど……」
これがメルローズ家の日常だった。
メルローズ家の面々は皆、大の動物好きだった。特にモフモフとした毛に覆われた生き物に目がないのだ。
よってこの屋敷には、馬はもちろん羊やウサギ、犬といった動物たちが実にのびのびと暮らしていた。
メルローズ家の人間は、そのモフモフとしたやわらかい体に顔を埋めかぐわしい香りをかぐ行為――つまりモフ吸いがどうにも好きだった。
メルローズ家にある冬、赤子が生まれた。
雪のように白い肌に、ぱっちりとした大きな薄桃色の目。ほんのりと色づいた頬と唇はふっくらとして、とても愛らしい。髪の色はやや桃色がかった金色で、やわらかく波打っている。
その天使のようにかわいらしい末子に、両親と年の離れた姉弟は当然のこと、使用人たちや領民たちも皆夢中になった。
フィオリナと名づけられた少女は、すくすくと伸びやかに成長した。
けれどただ一点、フィオリナには生まれつき最大の問題があった。なんと魔力が皆無だったのである。
魔獣が闊歩するこの世界において、これは実に由々しき問題だった。魔力がないことは、身を守る術をまったく持たないことと同義だったのだから。
魔獣の中には、人を襲う大型の凶暴な魔獣だって存在しているのだ。
それらへの対抗手段として、人々は数々の魔道具を発明した。
それらを身につければ、魔物を寄せつけないようにもできるし防御も可能。
なんなら非力な女性や老人、小さな子どもでもある程度攻撃だってできるという、非常に便利な代物だった。
が、それは魔力ありきの話。魔力がなければ、それらを扱うことも身につけることも一切できない。
つまりフィオリナは、まったくもって無防備な状態でこの世に生まれ落ちたのだった。
両親は苦悩した。
魔獣たちが吐き出す瘴気にだってすぐに当てられて、倒れてしまうだろう。魔力がないということは瘴気に対する耐性もないということなのだから。
となれば、一生籠の鳥のように屋敷から一歩も外に出さずに暮らすか。
大人になるまで生き永らえられるかどうかだってあやうい。
けれどフィオリナが四歳になったある日、事態は好転した。
なぜか突然に瘴気への耐性がついたのだ。
そのきっかけとなったのが、ある日屋敷に現れた一匹の猫――らしき動物だった。
それを見つけたのは、フィオリナだった。
ふわふわとした綿毛に覆われたような小さな体は、今にも壊れそうに震えていた。それでも緋色に輝く大きな目に、フィオリナは確かな生命力を感じ取った。
『さぁ、おいで! 私があなたを助けてあげるわ。ふふっ。大丈夫、すぐに体をあたためてあげるからね。ごはんだって用意してあげるわ』
メルローズ家の例にもれず、フィオリナはモフモフとした動物をこよなく愛していた。よって助けたのは当然のことだった。
フィオリナは自分の名前をもじり、その子にリオと名づけた。
おそらくは見た目からして、生まれて間もない子猫ではあるのだろう。
けれど断定はできなかった。猫にしては爪も牙も大き過ぎたし、手足もずいぶんと太かったし。
でもそんなこと、フィオリナにとってはどうでもいいことだった。
フィオリナはリオを目に入れても痛くないほどにかわいがり、慈しんだ。
眠る時はいつも一緒にベッドに入ったし、ベッドが重さできしみはじめてからはまるでフィオリナを守るように、すぐそばの床に大きくなった体を横たえ眠った。
リオもフィオリナと深く心を通わせ、まるで双子もしくは恋人同士のように仲睦まじく育ったのだった。
そんな穏やかな日々が続いたある日のこと。
リオと一緒に屋敷の周辺で遊んでいたフィオリナは、一匹の魔獣に襲われたのだった。
傷口から魔獣の血が入り込んだために、魔力のないフィオリナの体はどんどん弱っていった。
『フィオリナ!! しっかりして……。あなた……、一体どうしたら……。このままではこの子は……』
『大丈夫だ……。フィオリナは強い子だ。魔力などなくてもこんなにすくすくとたくましく成長したんだ。きっとこれくらいの傷、ちゃんと乗り越えられるさ……』
『フィオ! フィオ……!! お願いだよ……。目を開けて……! もう少しでフィオの十歳の誕生日じゃないかっ。フィオがほしがってた僕の動物図鑑、あげるから死んじゃだめだっ!!』
『あぁ……! 神様、どうか私のかわいい妹を連れて行かないでくださいっ。まだたったの九歳なのよ……? まだまだこれから楽しいことも幸せなことも待っているのに……。こんなことって……!!』
フィオリナの命は、もはや風前の灯だった。
皆が天に無事を祈った。何日も何日も。
リオも満足に眠ることも食べることもせずにフィオリナに寄り添い、毛むくじゃらのしっぽでフィオリナの体をなで続けた。
そしてその祈りは、ついに聞き届けられたのだった。
『信じられません……! あれほどの傷がすっかりふさがっておりますっ。これは間違いなく奇跡ですぞっ! それと、これはまったくもって驚くべきことなのですが……』
息を吹き返したフィオリナに、医者は驚きの顔で告げた。
魔力のないはずのフィオリナに瘴気耐性が身についているようだ、と。
そのせいで魔力があるのと近い反応が体内で起こり、命が救われたのだろうと。
何か思い当たる節はあるかとたずねた両親に、フィオリナは。
『夜にね、苦しくて体が熱くてもう無理って思ったらリオが私をぎゅってしてくれたの! そうしたら急に体が軽くなって、気がついたら楽になってたの。痛みももうすっかりないのよ? だからきっと、リオが私を助けてくれたんだと思うわ!』
『リオが……? しかし、そんなことどうやって……』
リオがただの猫でないだろうことは、すでに誰もがわかっていた。
拾ったばかりの頃は確かに体も小さく頼りなげで、猫と言えなくもなかった。喉をゴロゴロと鳴らして、とてもかわいらしい声で鳴いていたし。
けれど今は――。
ゴロゴロ、と喉を鳴らしているつもりではあるのだろう。ニャアンと鳴いているつもりであるのかもしれない。
けれどその声は、まるで地を這うおそろしい魔獣そのものといった鳴き声にしか聞こえなかった。
体だってそうだ。
すでにフィオリナの背丈を優に超し、手足も爪も猫などと呼べるようなかわいらしいものではなくなっていた。爪でチョン、と突かれでもしたら簡単に人の体など貫いてしまいそうなほど。
その上空まで飛べた。
高度はそれほどでもなかったが、屋敷の周辺をフィオリナを背中に乗せてふわふわと長時間飛び回る程度には。
そんな生き物を、猫などと呼べるはずもなかった。
かといって魔獣であるはずもない。魔獣ならばフィオリナがこうして平然と接することができるはずもないのだから。
まぁ何にしても、まさかそんな力がリオに備わっているとは両親にも医者にも到底思えなかった。
すっかり元気を取り戻したフィオリナは、リオの首元にぎゅうっと抱きついた。
『助けてくれてありがとう、リオ! 大好きよっ!! 瘴気が平気になったんなら、これからはあなたとどんなに遠くへだって行けるわねっ。楽しみだわっ』
『ンゴニャアアアアァァァァンッ!!』
リオも嬉しそうに大きくひと鳴きして、ゴロゴロ――いや、地を這うようなおそろしげな音を立てて喉を鳴らした。
そんなふたりを見やり、家族はひとまずほっと胸をなで下ろした。
なぜ急に体質が変わったのかはわからないが、少なくともリオがそばについている限りフィオリナは大丈夫だろうと思えたから。
『しかしいくら瘴気が平気になったからといって、くれぐれも危ない場所には近づいてはいけないよ? 森にはとんでもない大型の魔獣だっているんだし、そんなものに襲われたらいくらリオがいたってとても逃げられないだろうからね』
『……はいっ!! わ、わかってますわ。お父様!! ねっ、リオ!』
『ンゴ……? ンギュ……ギュアアアァァァォンッ!!』
『……本当に頼むぞ? フィオリナ、リオ……』
ともかくそれ以来フィオリナは、瘴気など気にすることなく自由にあちこちへと出歩けるようになったのだった。
◇◇◇
十七歳になったフィオリナは、美しく可憐に成長した。
雪のように白い肌はきめ細かで、薔薇色に染まった頬と唇とのコントラストが目を引いた。
瘴気のせいで少し虚弱気味だった体も今ではほどよく筋肉に覆われ、すらりと伸びた手足は健康的な色気すら感じさせる。
皆そんなフィオリナに心奪われ、その愛らしさの虜になった。
にも関わらず、いまだに縁談話は一件も舞い込んでいなかった。
それはひとえに、メルローズ家特有のモフ吸いという奇妙な癖のせいだった。
その上魔力がないという決定的な欠陥を持ち合わせていたゆえに、誰も結婚を望まなかったのだ。
けれどそんなこと、フィオリナは一向に気にしてはいなかった。
『さぁ! リオ、行くわよっ。今度は南の森に行ってみましょ! あそこには希少なキノコが群生してるって噂なのっ。たくさん採れればいいお金になるし、薬にもなるわ。領地の皆も喜んでくれるしっ』
『ブワオォォォォンッ!!』
フィオリナの快活なかけ声に、リオが一帯に響き渡るような声でいなないた。
背中にフィオリナを乗せたリオが、風をとらえて一気に空に舞い上がる。そして遠く遠くへと飛んでいくのだ。
『リオ! 今日はとってもいい天気ねっ。散策日和だわっ』
フィオリナが歓声を上げリオの背中をポンポンと叩けば、リオが喉をご機嫌に鳴らした。
フィオリナは瘴気耐性がついたことで、すっかり明朗活発な少女へと変わった。
リオとともにあちらこちらを飛び回っては、希少な薬草やキノコなどを採取したり新種の動物を見つけたりして。
さらに大きく成長し力も強くなったリオは、そんなフィオリナを魔獣からもさまざまな危険からも守り抜いていた。
そんなリオを、家族も領民も皆あたたかく受け入れていた。
リオが誰かを傷つけたことなんて一度だってなかったし、むしろフィオリナとともに領地のために働いてくれることさえあったのだから。
そんなリオへのフィオリナの愛情も、年々強くなっていった。メルローズ家の面々がドン引きするほどに。
「あぁ……。なんてかわいいの……。好き……、大好き……。たまらないわ……、この首の辺りの香りも、お腹も……。ずっとこうしていたいわ……」
「グルルル……。グワゥゥゥゥ……」
「リオ、あなたの毛並みって本当に素敵ね。ふふっ! 表の毛はちょっぴりゴワゴワしてるけど、内側の毛はこんなにふわふわでやわらかくって……」
フィオリナがうっとりとリオの背中に顔を埋める。それが済むと今度はやわらかなお腹をさわさわとなでては、頬を擦りつけるといった塩梅に。
お腹の辺りは少しこそばゆいのか、リオが身をよじりながらも気持ちよさそうに鳴き声を上げるのが常だった。
そんなフィオリナには、願いがあった。
「ねぇ、リオ? きっと魔力なしの私は、誰からも縁談を申し込んではもらえないわ。私と結婚したら、もしかしたら子どもに魔力なしが伝わってしまうかもしれないもの。皆が嫌がるのも当然よ。でもね、私そんなことちっとも気にしてないのよ!」
「ウウウウゥ……?」
「だって、そうしたらずっとここにいられるじゃない! さすがにあなたは他の領地へは連れていけないもの。でも私がお嫁に行かずにずっとここに残れば、これからもあなたと一緒に生きていけるでしょう? ね、とっても素敵だと思わない?」
生まれつき魔力のないフィオリナは、結婚の望み薄だった。
誰だってわざわざ魔力なしの伴侶を迎えて苦労したいと思う者はいないだろう。屋敷の管理だって大変になるし、気軽に外出することだって難しいのだから。
フィオリナがそう告げるたびに、リオは同意するように大きく声を上げるのだ。
「ンゴゥワォォォォンッ!! ングニャアアァァァォンッ!!」と。
フィオリナとリオのそんなやりとりを、家族はいつだって半分は心配そうに半分は仕方ないとあたたかな目で見守っていた。
フィオリナが幸せならばそれも悪くない、と――。
けれどそんな平穏な日々は長くは続かなかった。
◇◇◇
「フィオリナ! お前に……お前に縁談話がきた……。お相手は……第三王子のダリエル様だ……」
その知らせに、メルローズ家は暗く打ち沈んだ。
第三王子であるダリエルは、とかく悪評が絶えなかった。
女癖も酒癖も悪く、性格もずいぶんとネジ曲がっていると聞く。裏で犯罪ギリギリのことまでしているなどという噂すらあった。
なのに、ダリエルを産んだ側妃が現国王に寵愛されているせいで咎め立てる者もいなかった。
なぜよりにもよってそんな人物に、大切なフィオリナが目をつけられてしまったのか――。
普通に考えれば、王族がわざわざ魔力のないフィオリナを娶るなどあり得ないことだった。
もしも王族に魔力なしが生まれれば、間違いなくフィオリナは責め立てられるだろう。それに、メルローズ家と縁を結んだところで政略的に考えても何の利もないのだ。
「なぜこんなことに……。できることならば貴族位を捨ててでも断ってしまいたいが、そんなことをしたら間違いなくこの領地は……」
メルローズ家の管理する領地は、去年起きたひどい水害のせいで荒れ果てていた。立て直すには、国からの援助がどうしても必要だった。
その許可が下りてすぐに舞い込んだ縁談、しかも王族との縁談ともなればそもそも断れるはずもない。
「お父様……、よいのです。ダリエル殿下がそうお望みなら、致し方ありません。本当は私だってずっとここにいたい……。リオとお父様とお母様たちとずっと一緒にいたい。でも王命ですもの……。私、お嫁に参りますわ」
フィオリナは泣く泣く縁談を承知した。
自分のわがままで領民を犠牲にはできないし、まして家族を苦しめるわけにはいかないからと。
その日からフィオリナはリオとの別れの日数を数えながら、涙をこらえて精一杯の笑顔で過ごした。
けれど、現実はなんとも残酷だった。
「フィオリナ。そなたには婚儀が済み次第、すぐにこの薬を飲んでもらいたい」
王宮に呼び出されたフィオリナは、ダリエルに小さな包みを渡された。
中にあったのは、小さな丸薬がひとつ。それは永遠に子を産めなくするための薬だった。効果は一生涯、相手が誰であろうとも永遠に決して子をなすことはできなくなる。
「……! これを、私に飲め……と? それではなぜ殿下は私との婚姻を……?」
子をなさないつもりなら望みは一体なんなのか、と震える声でたずねたフィオリナに、ダリエルは薄笑いを浮かべ言った。
「そんなの決まっているだろう? 君は実にきれいで愛らしいからな。これまで付き合ってきた女たちもあれはあれで悪くはない。が、さすがに妻として迎えるには物足りないし品もなさ過ぎる。それにどうせ手元に置くのなら、見栄えのするものの方がいいに決まっているだろう?」
その瞬間、フィオリナの心は壊れた。
絶望にふらつきながらもようやく屋敷へ帰り着いたフィオリナは、すぐさまリオに泣きついた。
「リオ……。どうして私は、魔力なしとして生まれてきてしまったのかしら……。人並みに魔力があれば、もっと普通の結婚だってできたかもしれないわ。別に夢を見ていたわけではないのよ……? ただどうせ結婚するのなら、お父様とお母様、お姉様のようにあたたかい家庭を作れたらってそう思っただけなのに……」
両親には言えなかった。
自分を幼い頃からかわいがってくれる姉と兄にも。子を生まないただの愛玩人形として自分は求められただけだった、なんて――。
「うううぅぅぅっ……! ひっく……、ふ……うぅっ……!!」
激しくリオの大きな体にしがみつき泣きむせぶフィオリナを、リオはくるむように長いしっぽで包みこんだ。
まるでフィオリナを傷つけるすべてのものから守るように。
けれどこれほどに大きな体と驚異的な力を持つリオにだって、フィオリナの結婚まではどうにもすることはできない。
――そのはずだった。
それから一週間が過ぎた頃。
絶望のあまりすっかりやせ細り元気をなくしたフィオリナのもとに、一通の知らせが舞い込んだ。
「婚約の申し出を……撤回する、だと!? なぜ……なんでまた急にダリエル殿下は心変わりを!?」
真っ先に浮かんだのは喜び、次に浮かんだのは疑問だった。
「……あの、手紙にはなんて? 断りの理由については書かれていないのですか……?」
フィオリナは不安だった。
先日会ったダリエルには、絶対の自信がにじんでいた。必ずほしいものは手に入れるという、絶対的な自信が。
なのになぜ急に心変わりしたのか。
「それが……。なんともよくわからないんだよ。……『フィオリナ嬢に二度と近づかないと命をかけて誓うから、どうかこの話はなかったことにしてくれ』と。これは一体どういう意味だ?? さっぱりわからん」
父だけでなく、その場にいた全員が首を傾げた。
その時だった。
「大変ですっ!! 王宮からまたお手紙が届きましたっ。それにたくさんの花束に贈り物の山も……!!」
ダリエルからの手紙に続いて届いたのは、山のような贈り物の箱とむせ返るような香りを放つ美しいたくさんの花束だった。
「こ……これは……一体……??」
メイドから受け取った手紙を困惑顔で読み進める父の顔が、またしても蒼白になった。
「……あの、お父様? 今度は一体何の知らせですの? それもダリエル殿下から……?」
手紙を読み終えた父の手が、ぶるぶると震えていた。
「いや……今度は、ロイド殿下からの手紙だ」
「ロイド殿下!? ……って、まさか第一王子のロイド殿下ですかっ!?」
ロイドは、本来ならば次期国王となる権利を一番に有する王子だった。正妃の産んだ子であり、実に優秀かつ外見も性質も優れていると評判だったし。
――少なくとも、七年ほど前までは。
「で、でもロイド殿下は今では起き上がることも難しいほどにお体が弱っていらっしゃるのでは……? まったく人前にも姿を現さないと聞いています。だからこそ、次の王位につくのは第二王子かダリエル殿下のどちらかと噂されているのですよね??」
「それは……」
その問いに、見知らぬ声が答えた。
「その答えは私から説明しよう。フィオリナ」
突然背後から聞こえた聞き慣れない声に、フィオリナはぴょんと飛び上がった。
「あ……ああああ、あなたはっ!? い、いいいい一体どこから……??」
背後にいたのはリオだけだったはず。なのになぜ背後に見知らぬ青年が立っているのか。
恐怖と困惑に顔を引きつらせ、フィオリナはじりと後ずさった。
リオの姿はどこかへ消えてしまっていた。
もしかして外の人間に見られては困ると急いで姿を隠したのだろうか。けれどいつだって自分にぴったり張り付いているはずのリオが、何も言わずそばを離れるなんてあり得なかった。
「……?」
まるで絵画から抜け出してきたように凛々しく、実に華やかで美麗な青年だった。なめらかな流れるような髪に、吸い込まれるような強い緋色の目――。
その眼差しは、フィオリナが幼い頃からよく知っているものと同じだった。
「……あなたは、いえ……まさかそんなはず……」
そんなはずはない。あり得ない。だって――。
困惑するフィオリナに、青年はつと近づくと手をすっと差し出した。
「驚かせてごめん。フィオリナ」
「え??」
「この姿で会うのははじめてだね。なんだかおかしな気分だよ。ふふっ」
「……!!」
フィオリナを見つめる美しい緋色の目が、きらりときらめいた。
「まさか……あなたは……。でもどうしてそんなこと……?? だって……私が拾ったのは……」
絶対にそんなはずはない。なのに、それが正解だと心が告げている。これまでずっと一緒に過ごしてきた記憶が、その姿がカチリと音を立ててはまった。
自然にフィオリナの口から、その名前がこぼれた。
「リオ……、なの……?」
青年の顔が、ふわりとやわらかく解けた。
「……ふふっ。うん、そう。私がリオだよ、フィオリナ。本当の名前はロイドだけどね」
「……それってつまり、リオがロイド殿下で……ロイド殿下がリオってこと!?」
「その通り! あの贈り物も花束も全部君のために用意したんだよ。……あ、そうそう。フィオリナがずっと欲しがっていた、世界の動物図鑑全巻もあるよ」
「ええっ!?」
「あぁ、それから僕は君に求婚することにしたんだ。受けてくれると嬉しいな」
「き……求婚っ!? リオと私が……結婚!? ど、どういうこと??」
その青年――いや、ロイドの言葉に、屋敷は天と地がひっくり返ったような騒ぎに包まれた。
そしてあっという間に話は進み、一年後――。
◇◇◇
「緊張している? フィオリナ」
「当然よ! 足がガクガク震えて吐きそうだわ……。まさか自分が、こんな場所に立っているなんて今も信じられないの……」
純白のドレスの上に、王族のひとりとなった証である緋色のマントをまとったフィオリナ。その隣には、正装姿も凛々しいロイドが立っていた。
外には、記念すべきこの祝祭を見届けるべく集まった民たちの割れんばかりの歓声と拍手が鳴り響いていた。地面を大きく震わせるようなその熱狂に、フィオリナはこくりと息をのんだ。
これからはじまるのはなんと、フィオリナとロイドの婚礼だった。
ロイドがフィオリナに自分の正体を明かし求婚したあの日以来、ロイドは実に積極的――というか強引とも思える押しの強さで、フィオリナを落としにかかった。
フィオリナが魔力なしの自分が王子の伴侶になどなれないと尻込みすると、リオは決まってモフモフの姿へと変身するのだ。モフモフの体ですっぽりと包みこまれると、そのかぐわしい香りとあたたかさにフィオリナの思考はとろけてしまう。
そして気がつけば、すっかり懐柔されてしまっていたのだった。
フィオリナは震える手をぎゅっと握り合わせ、不安に目を潤ませた。
「すごく不安だわ……。皆魔力もない私が王子の伴侶になるなんてって、反対しないかしら……。ねぇ、どう思う? リオ」
今だにうっかりするとリオと呼んでしまう癖が抜けない。もちろんロイドはリオだし、リオはロイドでもあるのだから別に間違いではないのだけれど。
「まさかあの時拾った猫が王子様だったなんて……。物語みたいな本当の話って、本当にあるのね……」
つぶやいたフィオリナに、ロイドが苦笑した。
「言っておくけど、僕は猫じゃないよ? これでもれっきとした聖獣なんだけどな」
そう。実はリオは聖獣だった。
王族にのみ発現する聖なる血を持って生まれた存在とかで、人間と聖獣の両方の姿を自在に操り国を守るのだという。
それがリオだった。
もはや立派な聖獣として成長を遂げたロイドは、次期国王となることが満場一致で認められた。そのロイドと結婚するということは、つまり――。
「ふふっ。心配性だね、フィオリナは。君ほど未来の王妃にふさわしい人はいないよ。物怖じせずに僕の背に乗って空を飛ぶことだってできるし、たくましいし。魔獣が闊歩するこの世界では、たくましさは必須だからね」
「そりゃあ普通の貴族の令嬢とは違うのは認めるけど……。でもどうしてもっと早くに言ってくれなかったの? 自分が聖獣で、猫なんかじゃないって。私が小さい頃魔獣に襲われた時だって、聖なる力で助けたんだって話してくれたらよかったのに……」
あの時リオは、どうにかして命を救おうとして自分の血を飲ませたらしい。魔獣の血に毒されたフィオリナを助けるには、それしかなかったから。
その聖なる血が体内に入ったことによって、フィオリナは助かり瘴気にも耐えうる力を与えられたのだった。
確かにそれは嬉しい。おかげで瘴気耐性もついたし、リオと一緒に自由に外を飛び回れるようにだってなったのだし。
でも――。
思い起こせば、リオには何もかも打ち明けてきたのだ。どんな恥ずかしい悩みも不安も、時には誰かの悪口だって。
何ならリオの背中を涙と鼻水でぐっしょり濡らしたことだってあるし、大きくふっくらしたお腹に顔をスリスリしたことだって数え切れないほどある。
「あぁ……。あなたが王子だって知ってたら、あんなことはしなかったのに……! 顔から火が出そうよ!」
けれどロイドはくすくす楽しげに笑うばかり。
「君のそばにいられるなら、なんだっていいと思ったんだ。猫だって聖獣だって、なんだって。ダリエルが君にあんなことを言い出すまではね……」
ダリエルがフィオリナをただ汚い欲のために好きに扱おうとしていたことを知り、ロイドは決心したのだ。ダリエルも側妃も、自分の欲にかられた王宮内にはびこる者たちもこのままにはしておけないと。
だからリオとしてではなく、ロイドとしてフィオリナの前に姿を現したのだった。
「じゃああの一件がなかったら、一生人間の姿に戻る気はなかったの? もうとっくに人間の姿に戻ることも自由にできていたんでしょう?」
「うん。もうとっくに。でも君をこわがらせちゃいけないと思って隠してたんだ。いきなりロイドの姿に変わったら、さすがにびっくりして離れていっちゃうかなって思ったからさ。なんといっても聖獣の姿から人間に戻る時は裸だし」
「……!!」
フィオリナの顔が真っ赤に染まった。
「でもまぁ、ダリエルのおかげで君を独り占めできたんだからこれはこれでよかったのかな! こんなことでもなきゃ、絶対に王宮に戻る気にはなれなかったし」
ロイドが聖獣である兆しが現れたのは、まだ幼い頃。
聖獣の力を持って生まれたと知れれば、間違いなく他の王位継承権を持つ者たちにロイドは命を狙われる。だから王妃はごく一部の信頼の置ける臣下以外には秘密にしていたのだ。伴侶である国王にさえ。
「大変だったんだよ。小さい頃はいつ誰に命を狙われるかもわからなかったし、聖獣の力があんまりにも強大過ぎて体が悲鳴を上げるしさ。……そんな時、ダリエルと側妃が僕に毒を盛ったんだよ」
「毒……!?」
ロイドは暗い影を漂わせた笑みを浮かべ、うなずいた。
毒は聖獣としての力で無効化できたものの、毒による一時的な体内の異常でロイドは人間の姿に戻れなくなった。
人間にも戻れず体の中で暴れる聖獣の力を持て余したロイドは、パニックを起こし王宮を飛び出した。
そしてたどり着いたのが、メルローズ家のお屋敷だった。
「君が助けてくれなかったら、僕はあのまま凍え死んでいたかもしれない。ドロドロした王宮も怖かったし、自分の体がどうなってしまうのか不安でいっぱいだったし。もうこのまま死んでもいいかなって……」
まだ小さな細い体を震わせていたリオを思い出しフィオリナの胸がツキリ、と痛んだ。
「でも君にぎゅっと抱き締められた時、思ったんだ。あぁ、ここにいればもう大丈夫だって。ここなら絶対に安全だって」
「リオ……」
「だからあのまま人間の姿に戻れなくてもいいと思ってたんだ。王子に戻ったらまたあの恐ろしい魔窟に戻る羽目になるし、君とも離れ離れになると思ったし」
「で……でも国は!? 王子として国を守らなきゃ、とか、民を守らなきゃとか……」
ロイドの口元に、どこか黒い笑みが浮かんだ。
「……ん、別に? だって君をそばで守れないんじゃ、国を守る意味なんてないじゃないか。僕が守りたいのは、君なんだから。君のためならなんだってできるよ? もしダリエルも国王も側妃ももろとも、国を滅ぼせって言うんなら今すぐそうしたっていい」
「ひっ!!」
なんて恐ろしいことを言うのだ、この王子は。
王子とは本来国を平穏に導くために頑張るものではないのか。
顔を引きつらせ、フィオリナは慌ててロイドの手をぎゅっと握りしめた。
「だっ……、だめ! そんなことしちゃ絶対にだめっ!! もうダリエル殿下も側妃様も一生牢屋から出られないんだし、国王陛下だって王妃様にがっちりお灸をすえられて心を入れ替えるって言ってるんだから!! だから、私と一緒にこれからずっとこの国を大事に守っていきましょうっ。ねっ!!」
やれやれ、どうやら拾った猫はとんだヤンデレ猫――、もといヤンデレ聖獣だったらしい。
フィオリナは期待と不安のない混じったため息をふぅ、と吐き出した。
「ふふっ! 君がそう言うなら、頑張るとしようかな。あと五年もすればきっと父は退位する。そうなったら君はいよいよこの国の王妃だね。覚悟はできてる?」
まるでいたずらっ子のようなキラキラとした緋色の目で、ロイドがのぞき込んだ。
それに負けじと目を輝かせ、フィオリナは笑った。
「もちろんよっ!! こうなったらどこまでもあなたと行くわっ。拾った子猫は最後までちゃんと面倒を見なきゃ! でしょ?」
それから長い年月が過ぎ、国は幾度かの大型魔獣による危機や災厄に見舞われながらもどんどん繁栄した。
美しい毛並みの燃えるような緋色の目をした聖獣と、その背に乗り時に勇敢に戦う美しい王妃の力で――。
そんなふたりの肖像画は、なぜか王妃が聖獣の首筋に顔を埋めるというなんともおかしな姿で描かれていた。
それを見た民たちは、口々に噂し合った。きっとこれは伴侶であり国を守護する聖獣でもある国王に口づけているのに違いない、と。
けれどまぁそれが実際に何を描いていたのかは、メルローズ家の人間ならば知っている――。
〈おしまい〉