幽刻の河納涼祭、賑やかなりけり
ある時の創設者会議での出来事である。
「今度、冥府の幽刻の河にて納涼祭が開催される予定な訳だが。全員、よければ参加しないかね?」
冥王第一補佐官殿がそんな発言をしたのが、大体1週間ぐらい前のことである。
その時は七魔法王の全員で「行きたいね」「そッスねぇ」などと言っていた。現世とは違って冥府は死後の世界である。生きている人間がそう簡単に行けるような場所ではなく、手続きにはかなり面倒な手順を踏まなければならないのだ。
それなのに、である。
「わー、幽刻の河だー」
「凄いねぇ」
「大きな河だワ♪」
問題児でもあるユフィーリア、エドワード、アイゼルネの3人は目の前に広がる巨大な河川を前に呆然と呟く。
何度も言うが、冥府は死後の世界である。そして幽刻の河とは死んだ人間が船で渡る河川のことであり、普段はカロンと呼ばれる渡守が死者の魂を冥府総督府まで運ぶのだ。当然ながら生者がまだ生きたまま冥府の地を踏むことはあまりなく、手続きも面倒なので生きた人間が冥府を訪れることは滅多にない。
ないのだが、ユフィーリアたちは冥府の地を踏んでいる訳である。しかも巨大な幽刻の河には灯籠がいくつも浮かんでおり、ぷかぷかと川の流れに従って静かに遠くへ流されている。穏やかな水流が続く幽刻の河には数多くの屋形船が漂い、そこでは似たような生者が提供される食事を楽しんでいるではないか。黄泉竈食ひにならないのか。
そして当然ながら、訪れたのはユフィーリアたち問題児だけではない。
「まさか本当に来れちゃうなんてね」
「これ手続きが面倒だって聞いたんスけど」
「特に手続きなんてした記憶はないんですの」
「はて、では儂らは死んだのかのぅ?」
「し、死んじゃったんですか……!?」
グローリアたち七魔法王も、何故か冥府の地を踏むことになっていた。急にキクガから「準備が出来た訳だが」とか言われながら渡された浴衣を身につけさせられ、冥府転移門を潜って連行されてきた訳である。
もちろんユフィーリアたちも浴衣である。これは事前に自分たちで用意していた浴衣であり、キクガに着付けを手伝ってもらうようなことはなかった。問題児には着付けの熟練者が2名いるので手伝う必要性がなかったのだ。
幽刻の河を前に目を輝かせる未成年組のハルアとショウは、ユフィーリアの袖を引いてはしゃぐ。
「ユフィーリア、ユフィーリア。屋形船があるぞ。あそこでご飯が食べられるのか?」
「ユーリユーリユーリ、オレ河で泳ぎたい!!」
「お前ら落ち着け、はしゃぐな。親父さんが来るから」
はしゃぐ未成年組をどうにか落ち着けようとしていると、ユフィーリアたちが待つ船着き場へ滑るように屋形船がやってくる。
木製の船に瓦屋根が特徴的な部屋が取り付けられた、ユフィーリアの記憶にある通りの典型的な屋形船である。極東地域でも夏場にはよく見かける代物だが、あれらは非常に人気が高くて数年先まで予約が埋まっているものだから乗ることさえ困難を極める。
それが今、目の前にこうして普通に停まった訳だ。感慨深いものがある。ユフィーリアも長く生きているが屋形船など片手で数えられる程度しか経験がないので、ほんのちょっぴりだけワクワクしていたりする。
屋形船から姿を見せたのは、
「待たせた訳だが」
「こんにちは。納涼祭へようこそ」
濃紺の浴衣を身につけたキクガと、真っ黒い甚平を身につけたリアムである。納涼祭だから夏の装いのようだった。
「本当は渡守には人気のベテランをつける手筈だった訳だが、あいにくと定刻通りに出勤してこなかった訳だが」
「それいいのか、親父さん的に」
「おそらく幽刻の河に棲息する海蛇や巨大蟹などの世話をしているから遅くなっているのだろうが……まあ、あとでお説教はする予定な訳だが」
朗らかに笑うキクガだが、彼の説教がグローリアから減給を言い渡される時よりも遥かに怖いことをユフィーリアは知っている。その怖さを思い出してしまい、自然と身震いしてしまった。
一方でリアムはぴょんと軽々しい足取りで船着き場に着地を果たすと、無表情のまま自らの遺伝子を使って作られた人造人間のハルアに飛びつく。広義的に見れば息子であるハルアを、リアムなりに可愛がっているのだろう。ハルアも嬉しそうに「父ちゃんだ!!」と喜んでいた。
ついでとばかりにリアムはハルアの後輩であるショウにも抱きついていた。いきなり先輩の父親みたいな存在であるリアムに抱きつかれ、ショウも状況が読めずに混乱している様子だ。
「よく来たね、ハルア。ショウも」
「父ちゃんは何かお手伝い!?」
「ううん、ぼくは2人のことを待ってたんだよ。屋形船はきっと退屈しちゃうんじゃないかって」
リアムは屋形船の後方に括り付けられている物体を指差す。
そこにあったのは真っ黒な二輪車である。どうやら水上用に換装してあるようで、ぷかぷかと幽刻の河に浮かんでいた。
深淵刑場と呼ばれる最下層の刑場で勤務するリアムの仕事道具『シュヴァルツレディ』である。元は黒い鋼鉄の馬の形をした神造兵器だったが、どこぞの馬鹿野郎が改造した為に現在の形になったらしい。
リアムはハルアとショウの2人にヘルメットを渡すと、
「乗りなよ。水上二輪車で遊ぼ」
「いいの!?」
「いいんですか!?」
「2人が乗るから安全運転ね」
すっかり屋形船から興味の対象がリアムの神造兵器に移ってしまい、未成年組は盛大にはしゃぐ。やはり感覚が子供だからだろうか。
ハルアとショウが水上用の二輪車にいそいそと乗り込む姿を確認してから、ユフィーリアはやれやれと肩を竦めた。納涼祭だから涼を感じる催しだとは思うが、水上用の二輪車は些か風情がないような気がしないでもない。
これはリアムなりにハルアとショウをもてなそうと考えた結果のようで、キクガも何も言うことはなかった。仕方なさそうに笑っているだけである。
「それでは残りは屋形船でゆっくりと川下りを楽しむ訳だが。料理などの準備は出来ている」
「それは調味料などを持ち込んでもいいんですの?」
「よくない訳だが。ふざけた真似をすると河に突き落とす」
ふざけたことを抜かすルージュに厳しいことを返すキクガの案内を受けて、ユフィーリアたちは屋形船に乗り込むのだった。
☆
屋形船は意外にも広い。
「おお、立派だな」
「だねぇ」
「素敵だワ♪」
縦長の部屋には大きめの机が用意されており、すでに人数分の皿が設置されている状態だった。天井から吊り下がる提灯が何ともいい雰囲気を出している。
料理はこれから出てくるのか、どの皿も何も乗っていない状態である。これからどんな料理が出てくるのか楽しみだ。
座布団に腰を下ろしたユフィーリアは、
「意外と揺れねえのな」
「幽刻の河自体がそれほど荒々しい水の流れをしていない訳だが」
キクガは屋形船の障子窓を開けて、
「リアム君、くれぐれも安全運転で」
「了解」
すでに出発準備を終えたらしい未成年組とリアムたちは、真っ黒な二輪車に乗って滑るように幽刻の河を駆け出していく。甲高い声が遠ざかっていき、伸びのあるものに変わっていった。
あれはあれで楽しいらしい。ユフィーリアも今度はあの真っ黒な二輪車に乗せてもらいたいものである。そうしたらショウが「冥砲ルナ・フェルノでいいではないか」と拗ねそうなものだが。
すると、
「やあやあ、諸君よ!! よくぞ来たなぁ!!」
「げ」
喧しい口調と共に屋形船の奥の方から姿を見せたのは、父親のオルトレイだった。浴衣を着てはいるものの袖を襷掛けで留めており、さらに腰には真っ白なエプロンを巻いた料理人スタイルでの登場である。
ユフィーリアはあからさまに顔を顰めた。
確かに冥府だからいることはいるのだろうが、どこにいるのかと思えば調理場を取り仕切っているとは。いや確かに彼の腕前ならば調理場に配属されてもおかしくないのだが。
オルトレイは「ふははははははは」と高々と笑い、
「オレだけではないぞ!!」
「皆様、ご無沙汰しております」
オルトレイの後ろから姿を見せたのは、キクガの奥さんであるサユリであった。楚々とした佇まいが極東美女らしく落ち着きがある。
今日はサユリも納涼祭らしく淡い水色の浴衣を身につけているが、オルトレイ同様に襷掛けで袖を留めていた。どうやら彼女も厨房に配属された様子である。
サユリはその場で正座をし、深々とユフィーリアたちに頭を下げる。
「いつも主人と息子が大変お世話になっております。アズマ・サユリと申します。本日はよろしくお願いいたします」
「主人と息子ってことは、もしかしてキクガ君の奥さんでショウ君のお母様!?」
「嘘だ、こんな礼儀正しい女の人からあんな狂信者が生まれるんスか!?」
「あらまあ、朴念仁にしては素敵な奥様を捕まえましたことですの」
「ほほーう、美人じゃの。樟葉の次じゃが」
「わわわ、こ、こちらこそ息子様には大変お世話に……!!」
挨拶をしてきたサユリに、七魔法王たちもそれぞれ居住まいを正す。これだけ礼儀正しく挨拶されれば、それなりの礼節で持って返すのが当然だろう。
「本日の料理は私が腕によりをかけて作りました。お口に合うとよろしいのですが」
「無論、オレも作ったぞ。サユリ嬢にはお墨付きをもらったのでな、胸を張って出せる」
オルトレイは「楽しみにしているがいい!!」と高らかに笑いながら、厨房に引っ込んでしまった。その背中を追いかけてサユリも厨房に引っ込む。
「アッシュ、すまないが出してくれないかね」
「おう。でも、俺でいいんか?」
「私は今回、客人のもてなしを担当する訳だが。リアム君は水上二輪車で子供たちと遊びに出掛けてしまったし、消去法で行くと君にしか任せられない訳だが」
「トーマスさんを待った方がいいんじゃねえ?」
「おや、今はオリバー君ではなかったかね」
「あれ、どうだったっけ?」
屋形船の外から顔を覗かせた銀色の人狼――アッシュは「まあいいか」と言いながら、船の櫂を握り直す。
「転覆させそうだねぇ」
「ンだと馬鹿息子が、だったらやってみるか?」
「やだよぉ、今日はお客さんだもんねぇ」
労働側にさりげなく引き摺り込もうとしている父親の言葉をにべもなく断って、エドワードは早々に座布団の上で腰を落ち着ける。今日は働く気もないらしい。それはそうである。
「さて、出航と行こうではないか」
キクガの言葉で、屋形船は滑るように船着き場から出発したのだった。
☆
さて肝心の料理だが、
「おお、凄え」
「極東料理だね」
「華やかじゃのう」
用意された料理の数々に、ユフィーリアたち客側は瞳を輝かせる。
小型の船に乗せられた刺身と魚の煮付け、お吸い物など華やかな極東料理の数々が並んでいる。極東料理に混ざってドラゴン肉らしきもののステーキが出てきたので、おそらくあれはオルトレイの手製だろう。食欲の唆る匂いが鼻孔をくすぐる。
料理の数も多く、味も繊細で非常に美味しい。さらに提供される酒ともよく味が合うのでいくらでも酒が飲めてしまうという欠点を抱えていた。この状況では酔うのも早そうである。
「お刺身が肉厚で美味しいです……!!」
「リリアはもっと食べろよ。お前、夏だからってまた痩せたろ」
「ちゃ、ちゃんと食べてます。母様のご飯のおかげです!!」
刺身に舌鼓を打つリリアンティアだが、ユフィーリアに指摘されて「ちょ、ちょっとだけ痩せちゃったりもしましたけれども……」と言い訳をする。痩せたことには自覚があるらしい。
「お酒のおかわりは足りますか? お注ぎしましょうか?」
「美女に酌をされるとはいいさぁびすじゃのぅ、どれ儂にぎゃおす!?」
「サユリ、君は気にしなくていい訳だが。オルトの手伝いに専念してほしい」
調子に乗った八雲夕凪が空っぽの猪口をサユリに差し出そうとしたところで、キクガの腕が横から伸びてくる。容赦のない張り手が八雲夕凪を襲いかかった。
畳の上で伸びる八雲夕凪に、誰もが冷ややかな視線を投げかける。「またこのお爺ちゃんは……」「いい加減にしろですの」と態度も実に冷たいものである。
張り手を叩き込まれた八雲夕凪は早々に復活し、
「何をするんじゃい!?」
「妻によからぬことをさせる訳にはいかない訳だが。喧嘩なら買おう、かかってきなさい」
「止めよ、儂が負けるのじゃ!!」
喧嘩にやる気を見せるキクガに、八雲夕凪は白旗を上げる。愛妻家としても知られるキクガの嫁に手を出そうとした時点で彼の負けである。
すると、屋形船の外から何やら水の音が聞こえてきた。
不審に思ったユフィーリアは、ふと障子窓を開ける。その向こうには灯籠が浮かぶ幻想的な幽刻の河が広がっていたのだが、様子がおかしい。浮かぶ灯籠がやたら上下して揺れている。
何が起きたのかと思えば、
「あ、助けて」
「何してんだ、英雄様。ショウ坊とハルまで」
「今回は悪くないよ。本当だよ」
じゃばばばばばばばばば、と水を跳ねさせながら真っ黒な二輪車に乗るリアムが屋形船と並走しながらユフィーリアに助けを求めてきた。その後ろにはショウとハルアまでしがみついており、青い顔で「助けて!!」「助けてくれ!!」と助けを求めてきた。
安全運転で幽刻の河の川下りを楽しんでいたはずなのに、どうしてここまで怯えさせてしまうのか。事件が巻き起こってしまったのは目に見える。
ユフィーリアはショウとハルアに手を伸ばしながら、
「とりあえずショウ坊とハルはこっちに寄越せ。事情は?」
「前を進んでいる屋形船の渡守が乱暴に船を動かしたみたいで、幽刻の河に生きてる冥闇サメを怒らせちゃったんだ。その標的がぼくたちに移っちゃって」
「めっちゃ大きかったよ!!」
「怖かった!!」
ユフィーリアの腕を借りて障子窓から屋形船の部屋に飛び込んできたショウとハルアは、ようやく安全地帯に到達したことで息を吐く。それほど怖い思いをしてきたのだろう。
冥闇サメとは、幽刻の河に生息する生物の1種だ。巨大な鮫で、この幽刻の河を渡る罪人の魂を食らう性質がある。
そんなものの標的にされれば、確かに恐怖心はあるだろう。リアムは一生懸命に二輪車を走らせ、せめて後ろのショウとハルアだけでも逃がそうと逃げてきた様子である。素晴らしい判断力だ。
その時、
「おいキクガ、まずいぞ。冥闇サメがこの屋形船に向かってる!!」
「何だと」
船頭を務めるアッシュからの悲鳴に、キクガが障子窓を開けて状況を確認した。
確かに幽刻の河の表面から、巨大な背鰭が突き出ている。それが真っ直ぐにこちらへ向かってきているものだから、確実にこの船を狙っていた。
リアムが屋形船を目指して逃げてきたのが仇となったらしい。これは呑気に食事をしている場合ではない。
「何かございましたか?」
「サユリ、君は厨房に避難していなさい。リリア君、サユリを頼めるかね」
「承知しました。お気をつけて」
「え、どうする? 魔法とか使えないから僕も役に立たないんだけど」
「投網とかあるけど、それ使うッスか? ボクは自信がないからエドワード君とかに引っ張ってもらうことになりそうッスけど」
「でかしたよぉ、副学院長。任せなぁ」
「飛びかかってきたら叩き切ってやるか。おいクソ親父、タイミング合わせろ」
「酔っ払ってるからと言って鈍っている訳ではあるまいな、阿呆娘!!」
「あらみんなやる気だワ♪」
「凄い根性ですの」
スカイが持ち込んだらしい投網を片手に障子窓から身を乗り出すエドワードの側で、ユフィーリアとオルトレイが双剣を片手に待機する。戦闘に特化した魔法使い一族『エイクトベル家』の親子が揃って生きられるものなど存在しない。
水面から突き出た巨大な背鰭が、徐々に屋形船へ近づいている。あと少し接近を許してしまえば、確実に船を壊されて終わるだろう。それだけは勘弁してもらいたいところである。
誰もが冥闇サメと対峙することに覚悟を決めたその時、どこからか屋形船の船首に誰かが出現する。
「ジョセフィーヌ、止まるのですよ。客人を怖がらせてはいけないのであるぞ!!」
その誰かが一喝すると、冥闇サメの背鰭が驚いたように水面へ引っ込む。それから様子を伺うように頭だけを突き出してきた。
真っ黒な表皮につぶらな瞳、大きな口から覗く牙は闇のように黒い。汚れている訳ではなく元から黒いのだ。
冥闇サメは屋形船の船首に乗った誰かから鼻先を撫でられると、満足気味に泳ぎ去っていく。今までの恐怖は何だったのかとばかりの反応だった。
「やアやア、冥王第一補佐官殿。遅れてしまって申し訳ない!!」
屋形船に響き渡る、やたら芝居がかった声音。
ズカズカと土足で部屋に踏み込んできたのは、透き通るような金色の髪を持つ美丈夫である。絵本でよく見かける王子様のような見た目をしているものの、ボロボロのタキシードに身を包んだその姿は死者のようだ。
頭に乗せられたシルクハット、紳士が持つような杖を携え、整った顔立ちには自身ありげな笑みを見せる。「これはこれは、大変失礼しました」などと言って、彼はシルクハットを胸に当てて仰々しくお辞儀をした。
「本日は屋形船にご乗船いただき、誠にありがとうございます。遅ればせながら、渡守としてこのオリバーが務めさせていただきますぞ」
自らをオリバーと名乗った美丈夫だが、しかし別の方向から声が。
「…………パパ?」
アイゼルネの口から、とんでもねー発言が落ちるのだった。
☆
「ややや!! これは失敬失敬、まさか我が娘の乗る船だとは思わなんだ。海蛇たちに餌やりをしていて出発に遅れるとは、渡守として何たる恥か」
オリバーと名乗った美丈夫は、わざとらしく戯けて見せる。それが素なのか演技なのか分からない。
一方でアイゼルネは固まっていた。
それはそうだろう。まさか自分の父親が、渡守として冥府に勤務しているとは想定外である。しかも『嫌われているかもしれない』という感情を持っているからこそ、気まずい再会である。
オリバーは大股でアイゼルネへ歩み寄り、
「ああ、愛しの我が娘よ。アイ」
「ゼルネよ、パパ♪」
「むぎゅ」
抱きしめようとした父親の顔を押し退け、アイゼルネは自分の名前を告げる。
「私、名前をあげちゃったノ♪ 大事な魔女様ニ♪」
「…………なるほど」
オリバーは、それだけで意味を理解したようである。
アイゼルネは悪魔憑きだ。悪魔憑きは本名を秘匿しないと、取り憑かれた側の人間が死んでしまう。
ただし、悪魔憑き側が命を預けるという名目で本名を明かすことは可能だ。ユフィーリアはアイゼルネの命を預かっているという名目で、本名を知っている。そしてこの本名の秘匿性は冥府の台帳にも影響を及ぼし、名前が本名で記載されていないのだ。
「それなら、吾輩はこう呼ばせてもらおうか」
オリバーは今度こそアイゼルネを抱きしめて、
「愛しの我が娘、アイゼルネよ。また会えたことを父は大変喜ばしく思うぞ」
「……本当かしラ♪」
「んむ?」
アイゼルネは寂しそうに、
「私、姉さんに嫌いだって言われたわ。いつも邪魔だったって、いなければよかったのにって」
「それは違うぞ、アイゼルネよ。語弊がある」
アイゼルネの寂しそうな言葉を、オリバーは一蹴する。
「あの子は、最後までお前のことを悔いていた。『本当はあんなことを言うつもりはなかった』『私はなんてことをあの子に言ってしまったのだろうか』『ごめんなさい』と何度も謝っていたぞ」
「そんな」
「全て、悔いても遅いことであるがな。渡守を務めた吾輩に何度も謝るぐらいには、転生する最後まで気にしていたぞ」
オリバーは、アイゼルネの頭部を覆う南瓜のハリボテを取り払う。
その下から現れた、浮世離れした美貌。スッと通った鼻梁に見る方向から色を変える双眸、色鮮やかな緑色の髪、そして――左頬に裂けるような傷跡。悪魔憑きとしての証。
その頬を伝い落ちる彼女の透明な涙を指先で掬い、オリバーは仕方なさそうに笑う。その表情は紛れもなく父親らしかった。
「我が愛する娘よ、お前をただの一度だって嫌ったり疎ましく思うものか。両の足を落とさねば生きられぬと医者に言われ、お前を生かす為の親のエゴで不自由な人生を強要されてもなお、健気に生きるお前を誰よりも愛しているさ。パパと、ママの大事な娘だからな」
「そう言ってくれて、嬉しいわ」
今度こそ、アイゼルネはオリバーの背中に手を回す。
ようやく真実を知ることが出来た。彼女は、誰からも愛されなかった訳でも嫌われていた訳でもない。きちんと、愛されていたのだ。
死んだ姉からも、そして死んだ父親からも紛れもなく愛されて育った幸せな娘だったのだ。少しだけ言葉の行き違いが起きただけで、本当は間違いなく幸せだった。
「つーか、いい加減に働けオリバーよ。お前のせいで船が若干遅れたのだ、その分キリキリ働かねば船首に括り付けて歌でも歌わせるぞ」
「いい加減に船頭を代われや、テメェの仕事だろうがよ」
「娘との感動の再会を邪魔するとは何事か!?」
オルトレイとアッシュに背中を蹴飛ばされ、オリバーは無理やり娘と引き剥がされる。その首根っこを掴まれるなり、オリバーは問答無用で屋形船の外に引っ張り出された。
それから何やら揉めていたのだが、停まっていた屋形船も滑るように動き始める。ご機嫌な鼻歌が外から聞こえてきた。
ユフィーリアはアイゼルネを見やり、
「よかったな」
「えエ♪」
アイゼルネは笑顔で頷き、
「キクガさん、父のアイザックをよろしくお願いしますネ♪」
「娘よ、父の本名をバラすとは何故!?」
「私と違ってパパは偽名を使う必要なんてないでショ♪」
娘に本名をバラされたオリバーならぬアイザックは「そんなぁ!?」と悲鳴を上げる。
こうして、冥府の納涼祭は賑やかに進んでいく。
灯籠が集まった幽刻の河は、七夕の天の川のようであったことはもはや言うまでもないだろう。
《登場人物》
【ユフィーリア】納涼祭に出てくる極東料理を楽しんだ。極東料理の達人であるサユリに料理を教えてもらった影響でレパートリーを順調に増やす父親のオルトレイが羨ましいので、このあと樟葉に極東料理を習おうと決める。
【エドワード】納涼祭に出てきたドラゴン肉のステーキが美味しくて、オルトレイに作り方を聞きに行った。ドラゴンの肉を狩ってきたのは父親だったのを聞いてちょっと見直した。
【ハルア】父ちゃんが水上二輪車を乗せてくれて大いに楽しんだ。やっぱり二輪車の免許ほしいな!
【アイゼルネ】父親が渡守として働いているとは想定外だったが、また会って話をしてみたいと思っていたので嬉しい。嫌われてなくてよかったと実感できた。
【ショウ】父親だけではなく母親とも一緒にご飯が出来て嬉しい。久々の家族団欒で楽しかった。母親から「ユフィーリアさんとはどうなの?」と恋バナで盛り上がり、父親が居た堪れない顔をしていたが。
【グローリア】屋形船は数える程度しか乗ったことはないし、お酒が飲めないのであまり乗りたくはなかった。今回は揺れも少ないし料理も美味しいし、次回もこんな行事があるなら参加したい。
【スカイ】屋形船は初めて乗ったけど、屋形船の設計はやったことがある。さすが天才発明家。
【ルージュ】豪華客船なら乗ったことあるのだが、屋形船は初めて乗るかもしれない。極東料理も繊細な味で美味しいんですの。
【八雲夕凪】キクガの奥さんが美人なので何度かお酌を頼むものの、その度に旦那から阻止される懲りないジジイ狐。最終的に一升瓶をキクガの手によって口の中に突っ込まれた。
【リリアンティア】夏の間に農作業や動き回って運動した影響で多少痩せてしまったが、夏バテなど関係のない食欲と元気の良さはある。極東の料理も美味しいですね!
【キクガ】納涼祭を開催にあたり、今年は息子や七魔法王を呼んでみた。料理の面は最初からオルトレイにたのむつもりだったが屋形船に合わせた料理の提供が難しいとオルトレイから言われたので、急遽、助っ人として妻のサユリを動員。
【サユリ】キクガの奥さんにしてショウの母親。極東料理の達人である嫋やかな極東美人。旦那様に依頼されてオルトレイに極東料理の先生として動員された。
【オルトレイ】料理上手なユフィーリアの実父。あらゆる料理の腕前には自信があるのだが、極東料理には他人に見せるほどの腕前がないのでサユリに助力を乞う。娘が参加するなら妥協はせん!!
【アッシュ】消去法で船頭を任されたエドワードの実父。アイゼルネの父親が来てからはキクガの手伝いと称してどさくさに紛れて酒を飲んではオルトレイに殴られていた。
【リアム】仕事道具を水上用に換装し、ハルアとショウを楽しませる為に参加。可愛い息子とそのお友達をとにかく可愛がる。
【アイザック】偽名として様々な名前を用意するアイゼルネの実父。母親はサユリ、ミランダ(エドワードの母親)と同様に社員寮で専業主婦として働く。よく回る口と幽刻の河に住まう生物の大半を従えているので、冥府総督府に送るまでの渡守として働いている。安心して裁判に臨めるということで非常に人気が高い。