心の自由
ニールはここ数日の間、ミルドレットと顔を合わせる事ができずにいた。
彼女の部屋を訪れる度に、何かと理由付けされて門前払いをくらうのだ。明らかに避けられている様子に苛立ちを覚え、明日は忍び込んででもミルドレットに会いに行ってやろうと考えながら、月を見上げた。
だが、雲に覆われた月はその姿を見せる事無く、闇夜の墓碑はいつもより黒く冷たくそこに佇んでいる。
——彼女を殺そうとしたのだ。避けられるのは無理もない。
だが、薬に侵されていようとも彼女への愛の告白は本心だった。一生伝える事は無いはずの心の内を、不本意ながらも口にしてしまったのだ。
私に愛されていると知って、彼女はどんな気持ちだったのだろうか?
ただ恐ろしいとしか思わなかったのか? それとも、僅かばかりでも心動かしただろうか?
確かめようにも術が無い……。
もしも彼女の方からあれは本心だったのかと問われたのなら、私は必ず薬のせいの妄言だと偽るだろう。
本心を曝け出す事は恐ろしい。それを否定されたのなら……
「意気地の無いことです……」
ニールは唇を噛みしめて俯いた。月の無い闇夜でも、暗殺者として訓練された彼の目は日中とさほど変わらない程によく見える。
手向けられた花が枯れているのを目にし、それを拾おうと屈んだ時、「あ」と、小さく上げる声に振り向いた。
月明かりが無くても、輝く様に美しい銀髪を揺らすサファイアの様な瞳の女性の姿は鮮明に見えた。
久方ぶりに見る彼女の姿に、ニールは視界の妨げになる白銀の仮面を投げ捨てたい衝動に駆られながらも、優雅にお辞儀をした。
ミルドレットも慌ててお辞儀をして、すまなそうに笑った。
「驚いちゃった。殿下って、物静かだからかな。いつも居る事に気づかないもの。無作法でごめんなさい」
ニールは白銀の仮面の下で上品に笑うと、「ミルドレット姫こそ、近くに来るまで気づきませんでした」と肩を竦めた。
「あたし、ここに来る時はいつも魔術で自分の気配を消して来てるから。だって、ここは秘密の場所でしょ?」
枯れている献花に視線を向け、ミルドレットは溜息を吐いた。
「ああ、暫く来てなかったからそのままになっちゃってた。ごめんなさい」
シハイルに強引に口づけされて以来、ミルドレットはここへ来る事を躊躇していた。それでも、王太子妃になると決めた以上恐れてばかりはいられないと思い、勇気を出して足を踏み入れたのだ。
——ニールは、あたしが王太子妃に選ばれる事を望んでいるんだから。
「殿下。生誕祭に着る為のドレスの仕立て屋さんを呼んでくださって有難うございます。あたしからも贈り物があるの。遅くなっちゃったけれど、これ……」
ずっと渡せずにいた、シハイルの為にと仕立てて貰ったマントをミルドレットは差し出した。
「私の為に、わざわざ用意してくださったのですか」
素知らぬ顔で、さも感激した様に受け取る彼にミルドレットはすまなそうに頷いた。
「殿下がアレッサの事をお気に入りなのは知ってるけど、でも、あたし。王太子妃になれるように頑張るから。今までは口ではそう言いながら逃げ腰だったけど」
ぎゅっと拳を握り締めて、ミルドレットは宣言するようにサファイアの様な瞳をニールへと向けた。
「殿下の気持ちは関係無いんだよね? それなら、あたしにもチャンスはあるよね?」
シハイルの妻になる為に努力する決意を固め、それでいて申し訳なさそうな瞳を向けるミルドレットを見つめ、ニールは腸が煮えくり返る気分を味わった。
王太子妃にミルドレットをと望んだのは明らかに自分であるというのに、兄シハイルの妃となる為に頑張ると言った彼女に凄まじい程に怒りを覚えたのだ。
矛盾する心がのたうち回るかのようにニールを蝕んでいく。
——ミルドレットは私のものだ。決して、兄シハイルのものではない……!!
「……背に、鞭打ちの痕がある女性を、貴族らが選ぶでしょうか?」
思わず口から零れた毒のある言葉に、ミルドレットは絶句した。だが、ニールは尚も続けた。
「罪人を国母と民は認めるでしょうか?」
眉を寄せ、悲しみをその表情に浮かべるミルドレットを白銀の仮面の下から見つめながら、ニールは僅かに口元に笑みを浮かべた。
まるで、兄シハイルがミルドレットを虐めている様を傍観しているような気分になったのだ。
「王太子妃選抜には明らかに不利でしょう。貴方の師であるグォドレイでも、その傷痕はどうにもならないのですか?」
どうにかできるものならしているだろうと分かっていながら、ニールは意地悪な質問をした。
「……古傷を、治療するのは難しいの。お師匠様は寿命が縮むって言ってた」
そして、ミルドレットは寂しげに言った。
「殿下は、あたしが傷物だから嫌いなの?」
ミルドレットのその言葉にズキリと胸に痛みが発した。その痛みが一体何なのか、理由が分からないままニールは肩を竦めてみせた。
「さて? 言ったではありませんか。私の気持ちなど無関係なのだと。私が誰を望もうとも無意味なのです」
暗殺者としての自分を今更変えられるはずもない。常に偽り続けてきたのだ、自分の本心など最早わからなくなってしまった。
「でも、心はあるし気持ちだってあるでしょ!? 殿下の本心はどうなの?」
ミルドレットの言葉に、ニールはピタリと動きを止めた。
——本心……? 兄の? それとも、私の……?
自嘲するかのように、ニールは口元に歪んだ笑みを浮かべた。
「本心など、一生隠して生きなければならないならば、無いに等しいではありませんか」
ずっと仮面を被り続けて生きて来た。ニールとしても、シハイルとしても、自分の心など無用で価値の無いものなのだ。
それならばいっそ、無くなってしまえばいい。
「心など、私に不要なのです」
嫌われてしまえばいい。シハイルは、ミルドレットに呆れられてしまえばいい。
激しいまでの嫉妬の熱に侵されながら、ニールは断言するようにそう言い放った。
ミルドレットが心の無い男に嫁げるものか。彼女は自分と違い、いつだって自分の心に素直であり続ける女性なのだから。
シハイルにも、ニールにも、彼女を手に入れる事などできない。
「……殿下は、ニールになんだか似てるね」
ポツリと言ったミルドレットの言葉に、ニールはハッとして息を呑んだ。
「ああ、ニールってルーデンベルンから来たあたしの護衛騎士で! あ、でも、ヒュリムトンの貴族らしいんだけど!」
「私とその男とどのような所が似ているのです?」
ミルドレットは一瞬躊躇った後、小さく唇を動かした。
「悲しくても、泣かないところ。そうじゃないか、泣けないのかな……」
「……!」
ミルドレットは悲し気に微笑むと、ふわりと詠唱した。歌う様なその音色は、相変わらず聞き惚れる程に美しい。
彼女はゆっくりと宙に舞い上がり、手を差し伸べた。
「あたしに少しつきあってよ。誰も見てないなら、別にいいでしょ?」
差し伸ばされた手を見つめ、ニールは白銀の仮面の下で訝し気に眉を寄せた。
「何処へ行くおつもりですか?」
「何処でも無いよ。でも、殿下はきっと行った事が無いところ。怖い?」
少しだけ生意気そうな顔を浮かべて試す様な仕草をするミルドレットが可愛らしく、ニールは「いいえ」と応えて手を伸ばした。
ニールがミルドレットの手を取った瞬間、彼の身体もふわりと宙へと舞った。
「今は自分だけの自由だよ。殿下」
ミルドレットが闇夜を指さし、にこりと笑みを向けた。雲で姿を消していたはずの月がいつの間にかその輝く姿を現し、ミルドレットの銀髪を神々しいまでに輝かせた。
「自由って、少し怖いよね。大丈夫?」
「……はい」
ニールは振り返りたくなる気持ちを抑え込みながら、ミルドレットから目を離さずにいた。彼女の背を追い、月夜へと舞い上がる。
ミルドレットの言った通り、そこはニールが一度も訪れた事の無い場所だった。
輝く星々が祝福するかのように迎え入れる夜空に、堂々と輝く月。喧噪とは無縁で、風の音だけが聞こえる世界。
そして、自分の傍らに寄り添うミルドレットの姿。彼女の微笑みも、息遣いも、今だけは全て独り占めする事ができる。
永遠にこの時間が続けばいい。
もう、自分がニールであろうと、シハイルであろうとどうでもいい。
——ミルドレットを、愛している。
「殿下。風が冷たいね。寒くない?」
時折気遣う様に声を掛けては、ミルドレットは眩い程の笑みを向けた。ニールはその姿に見惚れながら、問題ないと答えた。
「ミルドレット姫」
ニールは手を伸ばし、彼女の柔らかい頬に触れた。
「私の本心は貴方を求めています。誰が何と言おうとも。それだけは、信じてください」
サファイアの様な瞳を一瞬見開いた後、ミルドレットは頷いた。
「わかった。ありがとう、殿下」
「口づけを、赦していただけますか?」
ニールの申し出に、ミルドレットは僅かに表情を強張らせた。
——断るわけになんかいかないよね。あたしは、この人の妻になる為に頑張らなきゃいけないんだから。
頷くミルドレットを確認し、ニールは彼女の顎をそっと持ち上げると、唇を重ねた。
優しく抱きしめるつもりが、狂おしい程の欲求に駆られて、背に回した手を強引に自分の身へと引き寄せる。
細く華奢なミルドレットの身体を壊してしまいそうな程に抱きしめて、密着させた肉体の柔らかさや温もりを存分に味わった。
「殿下、苦しいよ……ん……!」
有無を言わさぬ様にミルドレットの唇を塞ぎ、舌を差し入れて彼女の全てを吸い尽くさんばかりに口内を犯した。
——誰にも渡すものか。泣き叫ぼうとも逃がすものか。一生私の側から離すものか……。
苦しみに顔を歪めているミルドレットに構うことなく、ニールは自分が兄シハイルの姿であることも忘れ、ただただ愛しいと思う自分の感情を彼女にぶつけた。
◇◇
白んで来た空から眩い朝日が差し込み、ミルドレットは自室へと戻る廊下をパタパタと駆けていた。
「よぉ、不良娘。朝帰りか?」
ドキリとして顔を上げると、寂しげにため息を吐く深い紫色の髪の男が立っていた。無論、ミルドレットは姿隠しの魔術を掛けていたわけだが、グォドレイに通用するはずもない。
ミルドレットは立ち止まると、ぎゅっとスカートを握り締めた。
そしてふいに、ぽたり、ぽたりと床に涙を零れ落とし、肩を揺らしながら瞳を手の甲で拭った。
「……なんだよ。別に叱ったりなんかしねぇが」
アメジストの様な瞳をしぱしぱと瞬きしながら、グォドレイは困った様に眉を下げた。
「泣くな、ミリー。な? 俺様が何でもしてやるから」
グォドレイのその言葉を聞き、ミルドレットは嗚咽を洩らしながら言葉を吐いた。
「お、お師匠様。背中の……」
「うん?」
「背中の、鞭打ちの痕を。消して……。お願い、お師匠様!」
ミルドレットはその場にしゃがみ込むと、訴える様に泣き出した。
グォドレイは朝日が差し込む廊下をゆっくりと歩を進めミルドレットの側へと赴くと、彼女を優しく抱きしめた。




