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ミルドレットのジレンマ

 鼓膜に響く、鞭打ちの音。凄まじい痛みで、背が焼ける様だ。


 ミルドレットは苦痛に顔を歪め必死に痛みに耐え続けていたが、限界はとっくに超え意識は朦朧としていた。


 ピタリと鞭を打つ手が止んだ。


 やっとこの地獄の時間が終わったのかと、虚ろな状態で鞭打ちをしていた相手へとそっと視線を向ける。


 ダークグリーンの瞳がギラリと光り、ミルドレットはゾッとした。


——ニール……!?


◇◇


 ハッと覚醒したミルドレットは、肩を上下させながら呼吸をし、キョロキョロと眼球だけを動かして辺りを伺った。

 天蓋から垂れ下がるカーテンを見つめて、ここがヒュリムトンの王城であることに気づく。


——夢? なんて最悪な夢!


 じっとりと汗を掻いている事を不快に思って起き上がると、ミルドレットは唇を噛みしめて両肩を抱く様に身体を縮めた。


 グォドレイの強力過ぎる惚れ薬の作用でおかしくなったニールは、暗殺者として沁みついた本能故か、背筋が凍りつく程に恐ろしかった。あの姿を目にしてしまっては、悪夢に魘されるのは当然の事だろう。


 まして、自分自身にその刃が向けられたのだから。


 ふとした瞬間に脳裏に過る、恐ろしく冷酷なダークグリーンの瞳に、ミルドレットは首を左右に振って思考を振り払った。


 気を取り直して部屋のカーテンを開け、朝日に瞳を細めた。中庭を手入れする庭師の姿を見つめながら心を落ち着かせ、ふぅっとため息を吐いた。


——あたしが怖がったりなんかしたら、きっとニールは傷つくよね。もとはと言えば、お師匠様の惚れ薬を持ち出したのはあたしなのに。


 扉がノックされ、入室を求めるエレンの声が聞こえ、ミルドレットは返事をした。


「もうお目覚めでございましたか」


 部屋のカーテンが開けられている事に気づき、エレンが困った様に言った。


「夕べはあまり眠れませんでしたか?」

「ちょっと変な夢を見ただけ。全然平気! 元気なのが取り柄だし!」


 エレンは気遣う様な笑みを浮かべると、「ご無理はいけません」と言いながら、ミルドレットの身支度を整える為の準備を始めた。他の侍女やメイド達も挨拶をしながら部屋へと入って来るとエレンを手伝った。

 ここのところ、ミルドレットへの嫌がらせ行為がピタリと止んでいた。恐らく紫焔の魔導士グォドレイがミルドレットの後ろ盾であると公表している為だろう。

 お陰でエレンを始めとするミルドレット付きの従者は皆、安全に仕事をする事ができた。


「ミルドレット様。私から一つ、お元気になる知らせがございます」

「え? どんな?」


顔を拭きながら聞き返したミルドレットに、エレンはもったいぶったように笑みを浮かべ、侍女達と共に着替えを手伝いながら、「王太子殿下からの贈り物がございます」と言った。


「へ? 殿下から? どうして?」


——殿下は、あたしの事なんか忘れちゃってるんだと思ってた。


 ぽかんとしているミルドレットを他所に、エレンは手際よくミルドレットの身支度を整えながら微笑んだ。


「国王陛下の生誕祭に着用するドレスを用立てる様にと、服飾師の方をお呼びくださったのですよ」

「じゃあ、アレッサも一緒なの? 王太子妃候補のお披露目パーティーの時みたいに」

「いいえ。今回はミルドレット様にだけでございますよ。良かったですね!」


侍女が嬉しそうに言った。エレンは得意気に胸を反らせると、「殿下もミルドレット様に大層お心を砕かれておいでのご様子ですね」と言ったが、ミルドレットは気まずそうに眉を下げた。


「あたし、ろくなドレスが無いから……」


 ルーデンベルンから持ち込んだ荷物には、安物のドレスが二着程しか入っておらず、お披露目パーティーで贈られたドレスと、皆で街に出かけた時に購入したドレスが数着だけと、仮にも王女という立場でありながら、ミルドレットのクローゼットは寂しい限りの状態だった。


「服装なんて気にした事が無かったから、服を変える魔術もお師匠様から教わってないし。失敗しちゃったなぁ。ちゃんと教わっておけば良かった」


 エレン達の手により身支度を終えたミルドレットは、質素なドレスに身を包み、ため息を吐いた。


「だったら教えてやるよ」


 その声に驚いて振り向くと、アメジストの様な瞳を向けてグォドレイがニッと笑った。


「グォドレイ様! 支度中のご婦人の部屋に勝手に入室されては困ります!」


 エレンがぷりぷりと怒り、グォドレイは困った様に眉を下げて「ご婦人? ああ、ミリーのことか」と言って深い紫色の髪の頭を掻いた。


「どれほどに偉大な魔導士であろうとも、礼儀はお守りくださいませ!」


エレンに続き、侍女達までもが大きく頷いた。グォドレイはぽりぽりと頭を掻き、肩を竦めた。


「そうだな、今度からはちゃんとノックしてから入るようにするから、すまなかった」


 嫌に素直にそう謝罪すると、グォドレイは笑みを向けた。息を呑む程の美形の笑顔なわけだが、エレンは「分かれば良いのです。以後お気をつけくださいませ」と言い、ミルドレットは「魔術教えて!」と子供の様にはしゃいだ。

 侍女達はというと、すっかりと絆された様に顔を赤らめて俯いた。

 それを見て、エレンが咳払いをして自重を促し、侍女達はハッとした様に頭を下げて、部屋から出て行った。


「ミルドレット様。殿下が手配くださった服飾師の方が朝食後にはお見えになるでしょうから、魔術のお勉強は本日は難しいかと」

「あ、そっか。お師匠様、今夜でもいい?」


すまなそうに言ったミルドレットの頭を優しく撫でながら、「悪いが、夜は依頼を片づけに行かなきゃならねぇんだ」と、アメジストの様な瞳を細めて言った。


「しっかし……服、ねぇ……」


 グォドレイは溜息を吐くと、チラリとミルドレットを見て、直ぐに視線を外した。


「女ってのは、なんでそんなに着飾りたいんだ? 俺様は、お前さんがみすぼらしい恰好しようが構わねぇが」

「あたしも、お師匠様が真っ裸でもどうでもいいけど?」

「まてまて、それはなんか意味が違わねぇか!?」


慌てふためくグォレイに、エレンはクスクスと笑った。グォドレイは困った様に眉を下げて項を掻くと、ソファへと腰を下ろした。深い紫色の髪が、窓から射し込む朝日に照らされて輝いている。


 エレンはお茶の用意をすると、ミルドレットの分と二客をテーブルに置き、「朝食の準備が整いましたらお声がけしますね」と言って部屋から出て行った。


「なあ、ミリー。お前さんは戻りてぇとは思わないのか? あの掘っ立て小屋での生活によ。俺様はお前さんとの生活が楽しかった。あの頃は平和だっただろう? 争い事も競争も、死の危険にさらされる事だって無かったし、着飾る必要だって無かった。それなのに、なんでわざわざこんな危険で面倒極まりない場所に身を置きたがるんだ?」


何も答えないミルドレットに舌打ちし、グォドレイはお茶に手をつけず、煙管を取り出してプカプカとふかし始めた。


 グォドレイの前のソファにミルドレットも腰かけると、エレンが用意してくれたお茶を一口飲み、「美味しい」と微笑んだ。淑女として身に着けた所作が、少しずつミルドレットの自然な行動へと変わっていく。


 洞窟の奥の掘っ立て小屋で二人で過ごした朝の風景とは全く異なっており、あの頃の生活がもう何年も昔の事の様に思えた。


「……本当は、戻りたいって思ってるよ。お師匠様」


ポツリとミルドレットがそう言うと、サファイアの様な瞳をグォドレイへと向けた。


「でもね、ルルネイアは王太子妃になる為に人生を賭けていた。アレッサもきっとそう。それなのにあたし一人が浮ついていたら、棄権したルルネイアに申し訳ないって思うんだ。

 王太子妃に選ばれなければ殺されちゃうからっていう、自分一人だけの理由じゃなく、あたしの甘えが皆に迷惑をかけて、失望させてしまう。そんなのは絶対に嫌だ」


ミルドレットはぎゅっと拳を握り締めると、俯いた。


「もう、あの掘っ立て小屋に戻りたくても戻ったりなんかできない。あたしも覚悟を決めないと。だから、殿下が望むなら着飾るし、マナーも頑張って身に付けなきゃ。あたしもお師匠様と二人の生活は楽しかったよ。でも、振り返ったりしたらいけないんだ」


 グォドレイは何度か小さく頷くと、ふぅっと煙を吐いた。


——リッケンハイアンドのお姫さんが棄権したせいで、ミリーは余計にこの王太子妃選抜レースから逃れられなくなっちまったってことか。ドワイトの奴。ミリーとあのお姫さんを天秤にかけやがったな? どこまでも強かな奴だ。


 気に食わねぇな……。


「お前さんの望みは本当にそうなのか?」

「なんで? これがあたしの望みだけど」


 グォドレイは煙管を咥えてすぅっと吸い込むと、煙を吐き出しながら頷いた。


「なんか煮え切らねぇ感じがするんだよな。ニコニコ仮面の事はもういいのかよ」


 ヒヤリと、ミルドレットの背に悪寒が走った。脳裏に浮かぶ暗く冷たいニールのダークグリーンの瞳……。


「良く無いけど……」


 困惑しながらもそう言ったミルドレットを見つめながら、グォドレイは溜息を吐いた。


「あいつ、おっかねぇもんな?」


グォドレイの言葉に、ミルドレットは何も答えずに俯いた。


「まあ、いいさ。やれるだけ頑張ってみたらいい。俺様はお前さんの邪魔をしないようにするぜ」


そう言った後、グォドレイは付け加える様に「どうせ着飾ったところでちんちくりんはちんちくりんだろうけどな」と言って煙管をプカプカとふかした。


 ミルドレットはムッとして頬を膨らませ、唇を尖らせた。


「お師匠様が度肝抜くくらいの淑女になってやるんだからっ!」

「お前さん、その面を晒してる様じゃ、淑女なんて程遠いと思うぜ?」


 ミルドレットは膨らませた頬を窄めると、指先をもじもじと動かしながら瞳を伏せた。何やら言いづらそうにしている弟子を見つめながら、グォドレイは煙管をふかした。


「……なんだ? う〇こか?」


 ポツリと問いかけたグォドレイに、ミルドレットは「そうじゃなくて!」と言ってため息を吐いた。


「ニールとは、暫く距離を置こうと思うんだ」

「……へぇ? そりゃまたどういう風の吹き回しだ?」

「ニールは、あたしの初恋の人だから。いつまでも引きずってたらダメだなって。どうせニールは、あたしの事なんか殺したい程嫌いなんだろうし」


 惚れ薬に侵されて、ニールに殺されそうになった時の事を思い出し、ゾクリと鳥肌を立てて、ミルドレットは唇を噛みしめた。


「……いや、それはあいつが歪んでるだけで、嫌ってるわけじゃ」

「そうかな? ニールは、あたしに冷たいもの。興味もないみたいだし」


 ミルドレットの言葉に、グォドレイは『どこまでも過保護じゃねぇか!』と思ったが、口に出さずに眉を下げた。


 ミルドレットはぎゅっと拳を握り締めて俯いた。


「とにかく、あたしが浮ついているせいで誰にも傷付いて欲しくないし、傷つけて欲しくない。王太子妃になる為に真面目に頑張るよ。そう決めたら、お師匠様とニールは喧嘩しないよね?」


 ミルドレットの言葉に、グォドレイは何も言わずにプカプカと煙管をふかした。

 ふぅっと煙を吐いた後、グォドレイは小さく舌打ちをした。


「王太子妃がどんなものか、お前さんはよくわかっちゃいねぇみたいだが。それでもまあ、望みの一つくらいは聞いて貰えると思うぜ?」

「……あたしの望み?」


 扉がノックされ、廊下からニールの入室を求める声が聞こえた。ミルドレットの脳裏に冷酷なまでに冷たく光るダークグリーンの瞳が浮かび、思わず身体を強張らせ、唇を噛みしめた。


 ミルドレットの様子を見つめてグォドレイは溜息を吐くと、ソファから立ち上がり廊下へと出て行った。

 ニールと二人、部屋の扉の前で話す声が室内へと漏れ聞こえてくる。


「ミルドレット様に、朝食の準備が出来ましたとお伝えしに来たのですが」

「ああ、分かった。伝えておくぜ」

「いえ、私が直接……」

「待て待て! あいつな、腹痛くてう〇こしてぇって言ってたぜ?」


——お師匠様!?


「腹痛ですか。では、医師を呼びましょう」

「心配すんなって、俺様の魔法薬で直ぐよくなるからよ! まあ、そんなもんで、朝飯できたってのは俺様から伝えておくからよ」

「……分かりました」


 躊躇しつつもニールが立ち去る様子を伺い知り、ミルドレットはホッとした。

 朝食の後はドレスの仕立て屋が来る。男性は皆席を外さなければならない為、今日はもうニールと顔を合わせる事は無いだろう。


 そう考えて、ミルドレットは唇を噛みしめた。


——ニールに、逢いたいのに。なのに、逢いたくない。どうしてこんな事に……。


 つ、と涙が頬を伝い、カーペットへと零れ落ちた。

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