[三]
彼の一手は、勝負を決める。
勝ちが決まった途端、篤哉は緊張から放たれる。礼を済まして、彼は棋譜を追っていく。一つ気になる手があった。篤哉は、勝利への探究心旺盛なプロ棋士の青年である。
その一手を、ある譜に応用できないかと考えてみる。試合の時間外にも、勉強を欠かさない。
篤哉には倒すべき相手がある。抜かさなければならない、相手がある。その者の打ち方を研究し、努力を積み上げる。が、彼にとってそれは努力ではない。生きていく上で欠かすことのできぬ有意義である。
そもそも努力とは何か。何らかにおいて成功する為に要される条件か。だが、努力した者が必ず成功するとは限らないのが世の通則である。けれども、成功した者は須らく努力をしていると複雑なことを言う。また、努力が裏切ることはないとの全く矛盾するような思想も平気で流布する。
篤哉にとって日々の研鑽は努力ではない。努力か努力でないかで言えば、努力ではある。けれども、それは俗人が成功の可否やら果報を頻りに気にかける行為のこととはちょっと違う。篤哉にとって勉強は、為さねばならぬから為すのであり、また為そうと思うから為すのである。人はこれを、才能と呼ぶ。
棋士の才分を賜った篤哉は、心労に祟られている。寝ても醒めても、好敵手のことばかりを考える。いわば彼の事を、恋い焦がれている。彼を粉砕した時に、初めて篤哉の前に新たな段階が開ける。ともかく、今は彼を打ち倒すのに必死である。
すると、篤哉は体調を崩す。彼を砕かなければならぬと言う使命が急迫し、そればかりに囚われて、糧には頓着せず、俯き加減で消費ばかりをやっている。だから、努力も非効率であるし、枯れた脳髄を休ませてやる臨機応変を知らないから、どんどん蝕まれていく。篤哉はこと一手にかける心意気に関して最も優秀であるが、何せ賢しくない。自分の限界を知らぬ。器の容量を知らぬ。篤哉は勉強以外に、自身の向上法を思いつかない。
遂に篤哉は、死の病に冒される。これは尋常ではない。あまりにも自分が、見えなさ過ぎた。篤哉は、彼ばかり熟視していたから。篤哉はさすがに、代償にしたものの大きさを知った。が、それでも悔いは一点も生じぬ。寿命を削って彼に勝利できるならば、それで本望だ。一段でも高く、登れたのなら、それで人間として、命を全うし得たと言えよう。人間は皆、この抽象的な階段を一つでも踏み越えていく所に、自身の存在意義を認めるべきだ。
最終戦が、幕を開ける。身をやつし、脳髄に確然と焼き付けた彼の容姿が、今目前に対局している。一手の順を踏むたびに、篤哉はとうとう無我の境地へと至る。記憶を頼りにするのではない。まして、これまでの努力を自信に変換しようなどと言う手間はかけない。篤哉は生まれ落ちて、存在することが連続に積載するが末に、一手を盤に送る。その肉体の周縁には火の手を纏い、同時に洪水を湛えている。それは超常の類でも、自然の猛威でも無論ない。篤哉の集大成を苦し紛れに形容し、威厳を示す修飾である。
名状を試すが仇となり、愚弄な筆舌を伴えば品位を落とすから、篤哉は烈火の如く燃え盛り、幾条にも数えられる雨に鎮静されると——すなわち音もなく静かな様を大掛かりに言ってみる。
静寂の内に勝負は進む。篤哉は優勢である。そして、中途にも関わらず篤哉は勝利を確信し、彼は敗北を認めた。
さて、この時の篤哉の心境は、深く考察されなければならない。それは軽快に踏み入ると終始不可解に果て、結末を知れぬ無様となる。また、容易に見過ごすと、これも不可解となる。漠然とした尊い底知れぬ意義の在るのを、ともすると触覚し得るかもしれない。けれども後になってから一度思考すると、これは軽率の仲間である。よって、今出くわしたこの瞬時に、篤哉の動揺を汲み取り、実験しなくてはいけない。
篤哉が勝てば、全て終わる。篤哉諸共、灰に帰すのである。篤哉は命を、あと少しで焼き尽くす所まで来ている。今、燃え尽きてはなるまい。灯火は最期、消失する一時に一思いに吹き消されなければならない。篤哉の灯りは、彼への闘争心である。篤哉は彼に勝てば、もうその煌めきを保てぬ。
——致命的な一手。篤哉は、緊張故の過ちを犯したと周囲に理解された。篤哉は、自身の灯火を保った。篤哉は勝つはずであった。それなのに、敗北した。彼は心中穏やかでない。篤哉は体中澄み切っている。火事も洪水も、大風も地割れも、その一身に抱え込み、今彼は至って平穏である。凪のせいで、前進するとも後退するとも知れぬ。ただせいせいして、負けましたを遺言にする。
篤哉の死に際はうなされている。うんうん唸って、呻吟している。一手を打つ。また次の一手を打つ。記憶した一手を打つ。最後、たった一つ別の一手を打つ。篤哉は独り心で満足げに頷き、灯を吹き消す。




