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[一]の三


     三


 一月になって寒い。ここらの季節は、ただ不愉快を誇張するばかりの偏屈だ。暑い時は蒸し暑いのばかりが良かろうと思っている。一方で寒ければ寒いほど苦しかろうと知って風を吹かせる。ただし雪のひとつも降らせることは滅多にない。降らすにしても、積もらせはしない。

 受験生の冬はちっともいいものじゃない。クリスマスもお正月も、威光燦々の大義によって滅せられる。餅田くんの顔色は日に日に悪くなっている。こんな苦労は馬鹿げていると喚いてみても、受験生はそんなものだの一言だけで容易に押しすくめられる。その言論風潮に一番不満なのは受験生である。が、受験生も終われば風を煽る仲間となる。だから世の中は一向に変わらない。喉元を過ぎると大義の燦々が妙に神々しくなる。熱さを忘れるどころか、熱さに不気味な価値を付与して、率先して掲げる。見よ、受験生、これが君らの苦労の勲章なり、と惨憺たる自身の過去をあたかも輝かしいものとして示し、嘯く。その最たるが『合格体験記』なるものである。さて、餅田くんは一度もその冊子に目を通したことが無い。けれども今の身分が移れば、熟読するともしれない。

 Mは一層盛んである。こけしはどんどん色白く、不健康な血色に苛まれる。センター試験でひとまず明暗が分かれる。それで一切気楽になる者もある。人生を絶望する者も出てくる。今度絶望したのは、ほりくんである。

 堀くんは、これまた極端にMらの並べ立てる美辞麗句を真に受けている。それを遂行し切らねば屑人間だと信仰している。彼の結果は惨憺たるものであった。また、彼は浪人生を酷く軽蔑してきた。彼らのことを、現役で遊び呆けて一年を無駄にする、愚か者どもの集合だと思っている。今、自分がその仲間入りをしようとするものである。いざそうなれば、あとは二つに一つだ。態度を軟化するか、自分は屑だと潔く認めて、一刻も早くこの世から消え去ってみるかである。ほとんどは前者に傾く。懸命に勉学をする者でも、受験という一時に失敗することはあろう。そう解釈して、今度は、二度目の失敗はあり得ないと言う気構えで浪人年度に臨む。二度失敗する者が本当に屑だと言い聞かせる。一度の間違いは人間味に違いない。

 堀くんには気概がなかったから、都合の良い解釈を新たに練り直す作業を、今では必死にやっている。もしや今年中に何とかならないかとの望みも未だ捨てぬ。そうして受かれば、元の思想を取り戻すつもりでいる。

 餅田くんと堀くんは、これまでに多々会話を交わしてきている。その中身を、時系列を追って紹介しよう。

 まずは七月である。餅田くんは、夏休みは勉強したくないとぼやく。すると堀くんも概ね同意する。が、心中では大きく差をつけるつもりでいる。

「夏期講習はどれだけとった?」と堀くんが尋ねる。餅田くんの答えによると、随分少ない。すると、

「やばくね? Mの英語とらんとか、えっ、お前英語できるん?」

「いや、あんまり……」

「まあ、お前が良いならええけどな」

 この時堀くんは、精一杯餅田くんを見下した。Mの英語の授業を受けると言うだけで、既に餅田くんの遥か上を行った気でいる。

 人は底の見えぬものに畏れを抱くのである。たとえ実質、その底が酷く浅薄であったとしても、悟れぬうちには畏敬の念を抱く。良く有名人の伝記を読むと、とても自分には追いつけないという気になるのが例である。伝記からでは我々は底を見透すことができない。何故なら、その人の欠所は美談にならないからである。人は美しいものばかりを見たがる。醜いものだって存するにも関わらず、極力排除しようと試みる。美しいばかりを、気味悪く思うようにならなくてはいけない。汚い部分があってこそ、初めてその物語は現実に即し、尊い教えとなり得るのだ。ただ綺麗でばかりあるものは、単なる作り物、作品に過ぎない。

 堀くんにも餅田くんにも、Mの底は見えない。二人の違いは、餅田くんはMにきっと底があるだろうと予測し、堀くんは全く無考えであると言う点にある。

 また十月にはこんな会話を交わしている。

「なあ、カラオケに行かない?」と餅田くんが誘う。

「お前、余裕やなあ」

「さすがにあり得ないわ」

 堀くん含め他が同調する。餅田くんはやはりか、という気になる。この時少年は心底、受験生という立場を僻んだ。ちょっと遊びに行くくらいもできない。寸暇を惜しんで押しつけをこなす。けれども、本当に敷き詰めた計画通りに成し得る者はいない。結果、これは世間への体裁を繕う為の自己規制である。

 堀くんは既に失敗をほぼ確実なものとしている。餅田くんはどちらともつかぬ微妙である。

 あっという間に二月となる。雪を降らせぬはずの天気が、白で街をおおう。この日、餅田くんはずっと窓外の風景に気を取られていた。前日に予備校の進路指導係とこんな会話を交わした。

「さて、餅田くんの意思を聞こうか」

「この子は……あんまり自信がないみたいなのですけれど」

「ええ、そうですか。……しかし、十分に上が狙える位置であるのは確かです。今年は冒険してみても構わないのでは? 浪人覚悟と言うことにはなりますけどね」

 係の愛想笑いから餅田くんは目を背ける。

「どうかな?」

「あの、先生。……私は、息子にK大学を受けてほしいと思っています」

「そうですか。……餅田くん、どうかな。——ええ、やっぱり大事なのは本人の意思ですから。やる気ですから。——餅田くん、まだ答えは出しにくいか」

 黙って頷いた。

 餅田くんは無愛想だと思われたに違いない。控えめな子だと、レッテルを貼られたかもしれない。

餅田くんは雪街を家のベランダからじっと眺めている。薄く、道路や線路をコーティングした真っ白が、とかく視覚に照り映える。——少年は、K大に行きたいとは特段思わない。だから、毎日勉強を持続するのが酷く苦痛である。行ければいいな、というくらいの覚悟で、苦痛を耐え忍んでいる。とても堪えられそうに無い。

 餅田くんは近頃、暇さえあれば宇宙の本を読んでいる。私立の受験会場で、皆が間際の詰め込みに没頭する最中、一人宇宙の本をめくっていた。『宇宙の本』と言うと漠然としているが、それは写真集でも構わないし、ちょっと小難しい論文でも粛々読み進めていく。その間は彼にとって、憩いの時である。憧憬も空想も思案も、全部纏めて、無意識に巡らす。彼の脳はその時活発であり、血は清やかに行き渡り、一切の煩悶を書一点に注力する事が可能となる。早く受験が終わって、こんな時間ばかりになればなと思う。受験は少年にとって、人間らしい活動とその追求の弊害でしか無いのだ。

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