表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/16

[一]の二


     二


 みんな、自分が洗脳されているなどとは思わない。自分だけは、自分を貫き得ていると思っている。うん、多少は影響を受けていると認めよう、だが、自分は自分に必要だと思うことをして、自分の将来の為に活動するのだ、と信じて疑わない。これは、洗脳する側からすれば、すこぶる有難い人間の特性である。

 餅田くんも無論、『みんな』の一員である。まさか、自分が大掛かりな無意識的犯行によって、無数の俗人を製造する線路に乗せられているとは気が付かない。けれども、彼は不思議なくらいに潔白なのである。染められても染められても、白の下地が絶えず一思いに吸い取ってしまう。だから、中々染まり切らない、厄介な生徒である。

 固より、予備校講師Mにとってみれば、彼が従おうが従うまいが、他の屈従を見下ろして得意になっていれば良いから、餅田くん一人道を逸れても、Mの信条には何の支障も来されない。だから、得意の詭弁を弄してもすっとぼけた表情のままで居る少年を見て、違和感を持つことはあれど、別段深くは考えを及ばせなかった。

 Mは今度の英語構文の授業で、一つ大きいのを見舞ってやろうと考えた。退屈な授業を西日本中のあちこちでさせられる。年を跨って見れば、同様の講釈を何度一様の顔をした愚かしい生徒共に聞かせてやったか知れない。ちょっと、衆をあっと驚かせて悲壮と焦りとをその目に浮かばせるような現実を、突きつけてやろうと思った。

 さあ、空気の穢れた教室に入る。教壇にテキストを無造作に置くと、生徒らはこけしの様な恰好でシンとする。間抜けな面だ。こいつらは俺が這えと言えば這うし、呼吸をするなと言えば呼吸を自粛するのだろう。Mは大儀なのを生徒共にわざわざ示してみせるが如く、深い嘆声を二、三度やる。テキストをぞんざいに扱う態度もそうである。

「あのね、君らね」

 あんまり演説の中身も定めぬままに、滑り出す。

「英語っちゅうのは、やったらやった分だけ、自分らに返ってくる律儀な教科やねん。語学は大体そうやわなあ」

 天井とこけしの大群を、交互に見ながら語る。

「そんな素直な世界やったら、ええやろ? やったらやった分だけ、報われる。……でも、不思議なもんでね、大体、大体! そんな風に、世の中って出来てるんやねえ、全部やないよ? でもね、でもね、例えば受験なんか、やっぱりそういうもんなんちゃうかなあと、俺は思ってる」

 Mの身振り手振りは、本人には無意識に行われるものである。

「いや、呑気にやっとって受かる奴やって、そりゃあ一部にはおるんやで? けど大抵は——そうやなあ、俺の経験なら七八割、そういう奴らは駄目になる。こう言っちゃ悪いけど、世の中のゴミ。掃いて捨てる程おんねん! そう言う奴。偉い人はみんな、努力してる」

 こけしはゴクリと唾を飲み込む。Mは気分が良い。その群れの中に、一心に俯いて何か書いているものがいる。

「こういう話を、聞き逃してるんやろなあ。いや、アンテナをね、アンテナを張り巡らしとったらあ、こんな失敗なんてせえへんねん。だって、失敗してる奴ら山ほどおる。そいつらがどっかで! 君らに語ってるはずやねん、語りたがりやねん、そういう奴らは!」

 まだ顔を上げぬ。

「ほら、この教室にもちらほらおるなあ、アンテナがどっかにぶっ飛んでしもうてはるんやな」

 あんまり強く言い過ぎても信用を失う。そこいらの平衡を保つのが、予備校の講師が人気を維持する秘訣である。

「俺だってそやねん! 失敗した語りたがりやねん!」

 フフと微笑が漏れる。無表情で居る者は見る限り居らぬ。愛想笑いは日本人が大得意である。得意であるのが高じて、勝手に笑ってしまう。間が悪い時や、恥ずかしい時や、誤魔化したい時、ふと相好を破壊してしまう。すると相手には下等に見られる。取るに足らないなという気になる。愛想笑いは相手の言説に敗北した事を意味する。日本人はだから、しょっちゅう負けている。

「ほんで、まあ、これくらいで授業始めるけど」

 授業の前置きだけが、こけしいびりの機会ではない。むしろ、これから内容を進んでいく上で、彼らの不安を煽る時機が多々ある。Mは無論、そのつもりでいる。

 Mは人気講師である。人気講師は生徒に媚びるとも媚びないが、媚びないことも無い。先述したように、微妙な平衡なのである。Mはその取り方が上手い。この職業に必要な才を存分に有す。予備校講師にとって最も欠かしてはならないのは、生徒の焦燥を促進し、こけし化する煽動をやることである。生徒は不思議とこけしになりたがる。こけしになると、先生の授業がとても尊く感応される。無論、ある程度の実力と探究心は伴わなくてはならないが、あとは持って行き方次第なのだ。まさしく、洗脳の技術である。

 洗脳と言うと、疎遠な事のように自覚する者が大半だ。けれども、実際は極身近に、しかも頻繁に、人々は洗脳されているのである。ひとたびそれを外より観測すれば、滑稽に思える。そして、洗脳の下にうごめく者共が憐れになる。Mは、こけしの生徒たちを見て、その域に浸っている。

「さあ、この構文は? 君」

 当てられた者は声を裏返してどもる。

「……んなっ! 前やったよな! 聞き逃してるんやんな! 復習してへんやん! 受かるわけないやん!」

 畳み掛けておいて、ぞんざいに答えを口から放る。固より全員に丁寧に浸潤させようと言う気は無い。このぼそり、を敏感に聞き得るかどうかである。そう言っておけば大義は十分だ。

「この構文が俺は嫌いだ!」

「全部書いてあるから飛ばします」

「聞いてへん奴は知らんぞぉ」

「今黒板写してへんやつは、どう言うつもりで授業受けてはるんやろ」

 Mは大義を矢継ぎ早に言う。その実は滅茶苦茶な大義である。深く考えれば考えるほどに正当で、改めて考えてみればみるほどに押し付けがましい。

 餅田くんはこう考えた。この先生が嫌いだ。貴方がどの構文を好もうが自己の内に済ましておけば良い。書いてあることが分からんから塾に来るのだ。一言一句貴様の胴間声を聞いていられるか。必要が無いと思うから写さないのだ、これは無駄な労力を節減する賢明である。

 若い者は年寄りの言うことを聞いておけ、という大義がある。けれども年寄りがいつも正しい事を言い当てられる訳では無かろう。年寄りは自分より幾分か若い者より、長く生きる分、知識は多いか知らん。が、忘れたことも多いだろう。Mは餅田くんより年寄りである。だからと言って餅田くんより偉いとするのはちょっと短絡だ。先生だから生徒より全面的に権能を有すると言うのも、危うい思想である。餅田くんはこう思うのに、誰にもその意見を認めてもらえない。餅田くんは一介の受験生に過ぎぬ。受験生が世間様を批評するなどもってのほか、あらゆる俗物に謝意を表して然るべきとされる身分である、肩身の狭い身分である。

 Mはこの身分差を利用して、盛大にやっている。餅田くんはいい加減、彼らののさばりに我慢がならない。が、忍ばれなくとも何を打開することもできぬ。よって、餅田くんもやがては屈服して、俗物に頓首するようになるはずだ。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ