[五]の三
三
彼女の第一声は、
「先生! 部活を諦めてきました」
どうも拘泥する。こうも『諦める』に執着する生徒も少なかろう。
「先生、諦めるするって言わない理由、分かりましたか?」
彼女は真っ白な並びの良い歯を持っている。それから、いつもは後ろで括っているのに、今日は下ろしている。彼女は、穏やかに笑う。
「調べてみたらね、諦めるの語源は『明らむ』らしいよ」
「へ?」
「書いてみせようか——事情などをはっきりさせること、らしい。諦観って言葉の語義は、物事の本質を見極めること、だ。見極めて次に進む。これが諦めるの本来の意味」
「ふうん……でもね、」
彼女の表情はむしろ、暗くなった。
「やっぱり、本質だって見えてないと思うんです、私には。余儀なくされるというか、私にはパティシエは無理だって、そう決めつけるのは危険だと思うんです。むしろ、諦められるのは凄いことなんじゃないかな、って、先生の話聞いて思いました。私がやってるのは、特別じゃない、その他諸々のあきらめるですよ」
「妥協ってこと?」
「そう」
私は途方に暮れる。今表明したのが今日一番の材料である。これから事態の好転する予感がしない。
ともかく、思考を発展させるには纏まらなくてもいいから、何かしら発句し続けなくてはいけない。人の脳が一番得意とするのは連想であり、閃きではない。だから、連想させて答えに行き着くのを気長に待つのが吉である。
「君はどう思う? 諦めるするって言わないのは」
「えっ? でも、それは……」
「いいから。今のは事実かもしれないけど、正解だとも言えないだろう」
「へえ、先生。可笑しな考え方」
「いいから、さあ」
「そうですねえ……諦めるするって言わないのは、きっと、諦めるのはしたら駄目な事だからですよ」
「諦めるはするものじゃないと?」
「するべきじゃないってことです。諦めるは」
「ふうん」
彼女は諦めるにどうしても否定的である。私は諦めるを推奨したい方に傾いている。
「でも人は諦めないと生きていけないよ」
「……先生、先生は、諦めたこと、ありますか」
「いっぱいあるよ!」
「でも、先生にはなれましたよね。一つ成し遂げているわけじゃないですか」
「それだ!」
私が急に大声を出すから、彼女は驚いている。
「それだよ! 人は一つの事が成し遂げられればいいのさ。全部しようと思わなくていい。君は幼稚園の先生とパティシエを諦めて——それで、君の成すべき事、その一つに段々集約されているんだよ。諦めるたびに、君の生き方は定まるんだ」
「そんな言い方をしたら、良く聞こえますけど……」
「きっとそうだよ! 諦めて諦めて、君の熱誠を注ぐべき器を見つけ出すのだ。君の潤いは全て、その器に賭けるべきだ」
「潤いって?」
「若さの事さ!」
「ううむ」
彼女は呻吟の域に入る。私はもう確信している。どうしても諦めるを正当化したい所に、恰好の論理を見つけたのだから、もうそれしか用いない。
「先生、何となく分かりました。ありがとうございます」
「うん。君との間ではこれから諦めるはひらがなで表そう」
「ええ? 私はひらがなのあきらめるは諦める以外の色々な諦めるのことと……」
「いや、いいんだ。妥協でも投了でも、全部次の段階へ上るべくの悟りには違いない。さて、君も部活のレギュラーは諦めなさい。精一杯やった結果だろう? 拘泥していては潤いの損だ」
「先生、滅茶苦茶なこと言ってるって、分かってます?」
「分からないでもないさ。でも良いじゃない。さあ、早く、君の器を見つけなさい。私は私で、教育にそれを全部注ぐから」
「確かに、先生はそうですね。それじゃ、」
彼女は去り際に一礼する。
私はこの件以来、生徒の悩みの相談に、大得意になって応じている。




