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[四]の三


     三


「まさか、優希がサークルに入るなんて、思いもしなかったけど」

「いやさ、私も酷い目に遭ったから、懲りたはずなんだけどねえ……またテニスやりたくなっちゃって」

 私は冷たい目をして、アイスティーを吸っている。今日は六月雨がじとじと降っている。

「ねえ、琴乃もやらない?」

「いや、私は……」

 私は、思案の巡り合わせから、端なくもあと少しで自傷しかけた身分である。そう、はたから見れば、皮膚を削るのは正気の沙汰でないかもしれない。が、私はただ、罪を削ぎ落としたいと考えただけなのだ。罪は私の皮膚に密着しているのだから、剥かなければなるまい。……でも、剥くって言葉を思い浮かべるたび、今日は吐き気がするようになった。

 それにしても優希は随分なお気楽さんである。『酷い目に遭った』とはまるで被害者気分だ。被害者は試合に勝ったにもかかわらず汚名を着せられた美優みう東野ひがしのやくるりんのことである。それから、『またテニスやりたくなっちゃって』で踏ん切りがつくのも大したものだ。彼女を見ていると、罪云々案じているのが馬鹿らしくなってくる。

「まっ、過ぎたことは過ぎたことだしさ」

 どうやら彼女は自身の罪を踏み倒すつもりらしい。それが正義とは到底思えない。私は正義を重んじている。正義は何があっても守られるべきもので、そうでなければ人の世は滅茶苦茶になってしまう。だから、優希のような楽天家は羨ましくもあるが、やっぱり危険である。仕方ない、仕方ないの連続だと人は何をやっても許されることになってしまう。私は正義の為に、自身の生肌まで剥ごうかと苦悩しているのに——彼女に正義の何たるか、語って聞かせてあげようか。……饒舌になるからやめた。彼女と私とは、論説口調を好む間柄では無い。

 優希とのことで語るべきはそれくらいである。後は、理沙との話をしなければいけない。理沙は、戦犯四人のうち、現状唯一テニスを持続している。優希がサークルに憩いを求めようとするのとは違う。わざわざまた厳しい環境に自らを置き、同じ競技で全くの罪滅ぼしを試す、最たる欺瞞に明け暮れる者である。

 理沙は、苛まれるでもなく、見て見ぬ振りをするでもなく、挑む。聞こえは良いが、蟻地獄に嵌って尚日の目が見られると信じ続けている分、頑固で愚かで、救いようが無い。もとい、私たちは皆救いようが無い。けれども理沙は、同じ地位から見てももはや憐れの域である。百姓が貴族に楯突く、部下が上司に喧嘩挑む、幼年が親の扶助を逃れる、苛めを無くそうと奔放する、これら全て理沙の成そうとする業である。儚き正義である。

 私の信じる正義は、現実だ。現実は、上手くできている。どうしても、皆が行き過ぎないようにできている。法律も国境も、手続きも契約も、罪も検挙も戦争も平和も、全部調和がとれている。犯罪の無い世界は正義ではない。警官が失職するから。次に啀み合いの無いのも正義で無い。裁判官が失職する。そして、差別が無いのも正義で無い。あらゆるものより尊厳が失われる。犯罪があって初めてそれを防止する機能がある。啀み合って、解決の余地に第三者の利益が滑り込む。差別があって、多数が幸福を得る。また少数が反抗して新たな少数が不幸となる。この釣り合いがあってやっと、人の世は保っていられるのである。ある者は一方的に悲酸を味わい、ある者は極小に悩み命を絶ち、ある者は他人の欲求に苦しめられ、ある者は語り尽くすことで一生を終える。語るのは、『夢の国』論者だ。それは理沙のことである。

 理沙は正義の世に在って通常の存在である。が、彼女の『夢の国』論は実現し得ない分、憐れ極まりない。

 理沙は今、目の前に広がる黄緑のコートでテニスをしている。小雨の中、球の音を森閑に響かせて打っている。

 男が、「あー!」と奇声を上げる。これは、自身のプレーの不甲斐なさに憤るところの表出である。更に、「何でミスするねん!」と痛々しい言い聞かせを自分に行う。どうやら等身大の自分が見えていないらしい。

 理沙は相変わらず、ふん、ふんと鼻を鳴らしながら懸命に打っている。小さな体を大きく奮い、球に圧力を加えている。放たれる打球の筋は糠雨を事も無げに弾き、鋭い回転が賦与されて地に擦れて飛び上がる。それがまた一方に打ち返される。その繰り返しである。一度ネットにかかると、どちらかが天を仰ぐ。テニスプレイヤーはたかが一球の行方に喜怒哀楽するのである。

 私は時折こうしてテニス部の練習を見学に来ることがある。大抵は何事も無く立ち去る。——今日ばかりは、少し長居が過ぎたらしい。不幸にも、理沙が私に気づく。

「ことのー!」

 今の今まで一球を追っていた瞳が、この時私を映して豹変する。二度跳ねて手を振る。彼女は今、全くの凡人である。

 私も見つかったからには側へ寄る。辺りは蕭条の森である。球の音はまだ生きている。

「琴乃! 久しぶり」

「うん」

「もう六月だね。さすがに部員の募集は終わっちゃったけど……」

「入る気は無いよ」

「残念。……一回生はこうして空き時間に打つしかできないんだ。だからこんな雨の中だけど」

 理沙はずんぐり胴をくねらせ、白のサンバイザーに手をやり、へへと笑う。

「そう」と私の返事は素っ気ない。

「あっ、もう終わるからさ。ちょっと待っててよ、一緒に帰ろう」

「いいけど……」

 私は、とんだ迷惑に捕まったと思う。

 着替えて出てきた理沙に連れられる。男が「じゃあな」と言うのに応じている。

「同級生?」

「そっ」

「格好いいじゃん」

「まあ、ね。テニスはあんまり上手くないよ」

「ふうん」

 男はいつの間にか苛立ちを収めて、黙々と打っている。森を後にしてキャンパスに入る。

「琴乃、良く見に来るよね。練習」

「えっ?」

「偶にいるじゃん。私だって気づくよ」

「そっか……」

「何で、見に来るの?」

 彼女は何の意図があって聞くのかしら、と考える。ちょっと言葉を詰まらせる。理沙は返答を待っている。

「じゃあ……何で理沙はテニス続けるの?」

 私は窮して問う。理沙は突き返されて、よろめく。

「何でって……」

「何で?」

「何でって……やりたいからよ」

「テニスをしてはいけないと思わないの?」

「何それ、どういうこと?」

 私たちは今、木々を潜る。雨音が勢いづき、髪に打つようになる。

「私たち、戦犯なんだよ……」

 私は初めて他人に向かってこの文言を発した。それも、境遇を共にする仲間に向けて。

 私の動作は鈍くなる。半袖から覗く、肌色を見やる。

「ああ……そんなことか」

「そんなこと?」

「だって、そんなことよ」

「私たち、二十三年連続優勝の伝統を止めちゃったんだよ? 努力が足りなかったせいで……なのに、『そんなこと』って!」

 嫌な言葉ばかりが口をつく。それでも理沙は悟って雨を受けている。

「私、諦めたの」

「は?」

「背負うことを諦めたの」

 木々を抜ける。

「だって、背負っても良い結果は生まれなかった。……私たちの背中ってそんなに大きくないじゃない。ほとんどは背負い切れない。だから、自分の為にやるって決めたの。この四年間は、テニスを」

「そんな自分勝手な……」

「でも、うじうじしてたって仕方ないわ。まだ私たちは何十年も生きるんだよ?」

「けど……」

「また、新しいやり方をすれば良い」

 私は勘違いをしていたらしい、と気づかされる。理沙は、罪を揉み消そうと躍起になっていたのではない。過去に諦めをつけて生まれ変わることを目指しているのだ。なるほど、もしそんなことが本当に可能なら、その選択は賢いかも分からない。

「琴乃はまだ諦めきれないんだ。あの時勝っていればって——分かるよ、今の琴乃に、踏ん切りがつかないんだって」

「……だって、今の私は可愛いから」

「ははは! 確かにね。でも、次の琴乃もきっと可愛いよね」

「そうかなあ。……にしても、理沙はどうなってもテニスなんだね」

 私ははにかんで彼女を窺う。理沙は、眉を引き締めていた。

「諦めるって何だかネガティヴに捉えられることが多いけど、諦めたら次に挑めるのも確かでしょう? 今度はもっと賢いやり方をするんだあ。それで駄目なら、今度はもっとね」

 私は言葉では返答し得ない。

「琴乃……戦犯は私も! まあ、それも、今となっちゃあ、笑い話じゃない?」

「まさか、早過ぎるよ」

「あははは! だって、諦めちゃったから」

「意気地無し!」

 声を合わせて笑う。こんな愉快はいつ振りだろう。私たちは笑っている。いよいよ強まる雨の中、傘もささずに。

 私も諦めようかしら、と思う。

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