第三話 バック・アイリド・マジックサークル
3 瞼の裏の魔法陣
地面から頭だけ出している状態で、相当な時間が経った気がする。
首が180°しか回転しないので、後方の太陽が見えず、今がどれくらいの時間なのかは分からないが、まだ充分明るい。
もしかしたら、一時間も経っていないのかもしれない。
ただ、このまま夜になったらまずいことになるのは、いまから少し前のことで分かった。
先程から、地に埋まりながら色々考えていたのだが、自分はどうやら異世界に転移してしまったらしい。
この答えにたどり着くまでたくさんの思索を巡らせた。
もしかしたら昨夜の、通称パンダダイブにより、落下の衝撃で崖下の地面に身体が突き刺さってこうなったとか。
それとも、パンダに襲われたのは、就活ノイローゼで酒を飲みまくったことによる幻覚で、酔った勢いでヤクザに突っかかった結果、落とし前をとらされてこうなってしまったのか、とか。
助けを呼びながら色々考えていたのだが、頭上を大風とともにワイバーンが飛び過ぎて行くのを見て、一気に理解し、瞬時に助けを叫ぶ口をチャックした。
にわかには信じられない。夢かもしれない。
目が覚めたら、病院のベッドかもしれない。
夢ならば覚めてくれ。
それになんで地面に埋まっているんだ。なんだこの頭は。ポルナレフもびっくりの頭だ。
残された選択肢は、ただひとつだけ。
善意の人間が発見してくれるのを祈りただ待つのみ。
助けを叫んでも、向こうにそびえる山々に反響して、やまびこするだけだし、声に寄ってきてさっきのみたいなやばいモンスターがやってきたら詰むし(今の状況でも充分詰んでいると言っても過言ではない)、もうなにも出来ることはない。
幸い、地中は湿度と温度が適度に保たれており、存外に快適である。
このまま見の前に広がる雄大な自然を眺めて過ごすのもやぶさかではない。
だが、このまま夜を迎えるのはまずい。
まずここは、地球の常識が通用しないであろう異世界。夜はどんな原生生物がこの山を徘徊するのか分からない。
そのまえに誰か、いないのか。
迷える一匹の子羊をお救いくださる救世主は。
できることなら、美少女金髪エルフを所望。
…ちょっと待てよ。さっきから当たり前のように
異世界だとか、人間だとか言っているが、もしかしたら人間が存在しない世界だってあるかもしれないじゃないか。
先刻の空とぶ巨大爬虫類を見て、恐竜が跋扈する地球の原始時代を連想した。
もしかしたら、ここは異世界などではなく、死んで斯々然々(かくかくしかじか)、太古の時代にタイムスリップしてしまったという可能性もある。
まず、異世界転生なんて発想に至ったのも、自分がなろう系小説やアニメなどの創作物に感化されたからに過ぎない。
これは現実なのだ(たぶん)。どんな残酷な処遇だってあり得る。
だが、さきほどのワイバーンはなんだ。
あれは完全におとぎ話にでてくる幻想の生き物そのものだった。
きっと、これは、神が恵まれない自分に与え給うた輝かしい第二の人生なのだ。
ここで、幼い頃夢見ていた世界を救う勇者になれ。という、不幸な死を遂げた私への奇跡の贈り物。
そうなのですよね。神様。そうだったら、なんか言ってくれよ。
放置プレイはなしですよ。神様。
いつの間にか日は完全に傾き、夜となった。
もはや考えることも無くなり、考えても、悲観的なものしか浮かばないので、なるべく考えないようにしていた。
今はただ、喉が渇いて仕方がない。
夜になると、日中の快適さは一転。顔が刺すように寒い。
地中も段々と、溜め込んでいた太陽の熱を放出し、じわじわと体温を奪っていくのを感じた。
もう気を抜くと、土に還っていってしまいそうだ。
状況は悪化していくばかりだが、追い打ちを掛けるように、高橋の耳がひとつの音を捉えた。
先程から辺りで鳴り響く、無数の聴いたこともない虫の声。
それに紛れて、どしん、どしん、という重低音が一定の間隔で地面を揺らしていた。
地面に埋まっている分、衝撃が伝わりやすいため、よく分かった。
音は、近づいてきている。
脳裏をよぎるのは、日中見た頭上を飛び去る巨大なワイバーン。
パンダに襲われた次の日はワイバーンか。
音は無情にも近づいてきている。地面の下の身体を揺さぶる振動もどんどん増していく。
息を殺す。
自らを包む地面と同化する。
暗くてわからないが、もう相当近くにいるというのが、地中を強く揺らす振動で伝わる。
いつの間にかパンツが熱くほとばしっていた。
その温かさが生を実感させる。
もう限界だ。目の前にいるらしい。荒い息遣いを感じた。
全力で強張った喉をこじ開け、叫んだ。
「ヘルプミーィィぃぃぃぃぃ!!!」
一応、万国共通語で叫んだ。
「ゴアアアァァァ!!!」
それに応えるように。
生温い突風とともに脳を揺らす轟音。
一瞬にして声はかき消され、悲痛の叫びは夜の闇に溶け込み、目の前の振動の主以外、どこにも届かなかったかに思われた。
その時。
一閃。
月すら出ていない、夜空の淡い輝きを吸い込んだその刃は、細く、しかし正確にワイバーンの鼻頭を走った。
「ガゥ!!」
ワイバーンの怯みの声。
数回、地面を揺らして後退した後、風を裂くような音。直後に頭がもげそうになるほどの暴風。
羽ばたき、飛び去っていくワイバーンの後ろ姿が、刃の一閃に応えるようにして顕になった月に照らし出されていた。
「何があった。」
耳慣れない言語に、横を振り向く。見上げると、そこには藍色のローブをまとった男の、月明かりに照らされた横顔が見える。
腰には小ぶりな刀剣が差してあり、柄にはまだ屈強そうな手が添えてあった。
相当な上背があり、見上げるのに苦労する。
男は、翼竜を見送った後、こちらを見下ろし、目を合わせる。
冷たく、力強さをはらんだ瞳だった。
我に帰った。取り敢えず感謝しなくては。
「あ、ありがとうございます。だ、だずかりました。」
涙と鼻水でぐしゃぐしゃだったが、なんとか言葉に出来た。
「?、聞いたことのない国の言葉だな。」
お互い言葉が通じていない。
なんと言っているのかわからないが、男の安心するような低い声に、涙しながら感謝を繰り返した。
「とりあえず掘り起こすぞ」
そう言うと、おもむろに高橋の頭近く、左右の地面に両手を置いた。
「ハァッ!」
男は気合を入れると、地面にみるみる指がめり込んでいき、万力のような握力で埋まった肩を掴むと、痛みを感じる間もなく、地面から高橋を引き抜いた。
収穫される野菜のように、無事、半地下から地上への帰還を果たした高橋だったが、すぐに力なく地面に倒れ伏した。
極限状態からの安堵で、一時的に、体に力が入らなくなってしまったようだ。
意識が、薄れてきた。
ぼやける視界の中で、男が自分を肩に背負うのが分かった。
助かった…のか。
男の、ちっちゃい重機乗せているような肩に身を預けながら、高橋の意識は微睡みへと溶けていった。
眩い光に目を細めた。目の前の閃光以外、他はなにもない。
不思議な夢だ。夢みたいな現実だったので、区別がつきづらいが、いまは夢の中。ということが漠然と理解できた。
堪えきれず、目を閉じる。
世界は闇に包まれ、瞼の裏に焼き付いた魔法陣のみが心に残っている。
鮮明に記憶していた。だがどこで覚えたものなのかは分からない。
その緻密な筆致。人間が描いたものとは思えなかった。
人間に理解できるものとも思えない。
ましてや自分が到底つくられるはずがない。
だが、忘れてはならない。
いつかの、その日まで。
窓から差す柔らかい光で目が覚めた。
朝日は特段好きではなかったが、夢の中での強すぎる光で、朝日がとてもやさしいものに感じた。
見知らぬ、天井。
そうだ、昨日はモンスターに殺されそうになったところを、間一髪であの剣士に助けられたのだった。
寝たまま、首だけであたりを見回した。
実家ではないことは勿論のこと、すくなくとも日本ではないことも明らかだった。
あの助けてもらった剣士の家だろうか。
天井、窓のフレーム、自分が寝かされていたベッドの装飾、扉など、この部屋のありとあらゆるものからアンティーク感が漂っており、上品な異国情緒が溢れる内装になっいる。
ベッドの右横に隣置されている小洒落た収納テーブルの上には、ステンドグラスのようなランプスタンドが置かれており、その横に書き置きのような紙片を見つけた。
一応手に取って見る。二行ほどの短い文章で、全く理解できない。
イメージで言えば、アラビア文字と甲骨文字のあいのこみたいな文字だ。
あいにくだが、そのどちらも自分は解読することは出来ないのだが。
早々に解読を諦め、紙片をポケットに仕舞おうとすると、服が取り替えられていることに気がついた。一枚布を巻き付けたみたいな服で、通気性が良く、着心地は悪くはない。
ベッドから起き上がる。
裸足を絨毯のうえに付け、立ち上がる。
実に足ざわりの良い絨毯だなと見下ろすと、ぎょっとした。
ネコ科動物のような生き物で作られた縞模様の絨毯で、先の方に口を開けた頭部がそのままくっついている。
驚いたことに、ユニコーンのように角が生えており、ここが異世界であることを思い出される。
部屋を観察していると、後方の扉が外からノックされ、びくっとした。
「はい、どうぞ。」
緊張気味に呼びかける。
扉が開く。無言で、女性がひとり入ってきた。
服装は、地味な色の丸襟の服と、スカート。
黒髪で、肌が心配なほど白い。
丁寧な所作で頭を下げた。ここの使用人だろうか。
なにも喋らない。話す言葉が違うことを聞かされているのだろう。
真顔でこちらを見つめている。
「お、おはようございます…」
すごすごと挨拶する。
それにしても美人。西洋人とも東洋人ともつかない、地球人では形容できない美しさだ。
ただでさえ、女性とふたりきりになる経験の少ない自分なのに、こんな状況が続けば、緊張どころではない。生命が危ない。
あと一秒で恋に落ちてしまう。というところで、メイドさん?は自分の前を横切り、持っていた衣類をベッド横の収納テーブルの上に置いた。
昨日まで着ていた、丁寧に畳まれたスーツと、ワイシャツなど。洗濯してくれたらしい。
一日中地面に埋まっていた時に着ていたのだ。相当土で汚れていたはず。
また自分の前を横切り、部屋から出ていこうとする彼女。
「あ、あの、ありがとう」
感謝すると、なんとなく通じたのか、こちらを振り向き、すこしだけ微笑み、一礼。
静かに扉を開けて、出ていった。
かわいい。
ちなみに今ので恋に落ちてしまった。
深呼吸で心を少し落ち着かせたあと、とりあえず、届けてくれたスーツに着替える。
部屋の隅のところに中くらいの立ち鏡があったので、前で着替えよう。
自分の姿を見る。先程の浮世離れした顔面偏差値を見てしまったあとだからか、自分の容姿がひどく貧相に見えた。
ジェットコースターのような高低差で、驚いた。
頭は、相変わらず髪の毛が天に向かって屹立している。
少し前まで横になり、寝ていたというのに、その直線には、寝癖のひとつもついていなかった。
この頭だけは未だに全く解せない。
まあ、他にも解せないことだらけなのだが。
まず、ここまで何の説明もないのは勘弁してくれないだろうか。
自分の記憶では、異世界転生、転移ものでは転移時、女神だとか案内人みたいな者に、状況を事細かに説明を受けたあと、お楽しみの転生ボーナスを授かり、花の異世界ライフが待ち受けているという展開である。
転生ボーナスはないにしても、言語習得はマストでお願いしたい。
だが、人と話したと言っても、まだあの命を助けてもらった剣士1人。それも一言二言。
人と話していくうちに、すらすらと言葉を覚えていくとか、そういうシステムもあるのかもしれない。
そうだと信じたい。
転生ボーナスだって、本当の絶体絶命の状況に追い詰められたとき、覚醒して発揮される系の特殊能力なのかもしれない。
昨日の状況で能力開花されてもよさそうなものだが。
じゃなかったら、死ぬ前と同じ状態のただの人間(言葉すら分からない)が転生したところで、この世界でなにが出来るというのか。
夢がない。こんな現実的な異世界転移もの誰が見て面白いと思うか。一番自分が面白くないのだが。
いや、ひとつだけ、変わった所があった。
鏡に映る電信柱のような頭髪を触る。
髪の端をつまんで下ろそうとしてみるが、離すと張力が発しながら所定の位置へと戻った。
まさか。これが転移ボーナスだというのか。
いくらなんでもショボ過ぎるし、こんな髪型を願った覚えはないぞ。
確かに、以前のくるくる天パだった頃、直毛を羨ましがっていたが。
嗚呼、これからどうなってしまうのだろう。
ほぼほぼニートだった自分が、こんなところで、ひとりで生きていけるわけがない。
帰りたい。家に帰りたい。母に会いたい。
まだほとんど何もしていないのに、心が砕けてしまった高橋。
鏡の前で、スーツ姿の男が年甲斐もなく泣いていた。
早くもホームシックに陥る高橋。
異世界で運良く命をとりとめた高橋だったが、現実味を帯びすぎた異世界転移に絶望する。
果たして、高橋はこの異世界で希望の光を見つけることができるのか。
次回、第4話 絶望の葱頭
お楽しみに!
つづく