終便配達員
人生は手遅れしかない答え合わせの連続だ。そのことに気づくには、人生はあまりに短すぎる。
バイト先のコンビニで一緒に働いている五十歳のおじさんは、半年前に突如深夜シフトに現れた僕と働くことを喜んでいるようだった。
バイトを始めて一ヶ月が過ぎたころ、好きな作家が同じだったから、二人で記念にホットスナックを食べた。
二ヶ月が過ぎたころ、僕が通っている大学を教えたら「立派だ」と言ってセブンスターを買ってくれた。
三ヶ月が過ぎたころ、もう会えない息子がいることを教えてくれた。会えない理由は教えてくれなかったけれど、僕に優しい理由はなんとなく分かった。
四ヶ月が過ぎたころ、バイトをしていない昼間の時間は何をしているのかと聞いたら無視をされた。
五ヶ月が過ぎたころ、おじさんのカバンが床に落ちて、その中から使い古した手帳とペン、複数の錠剤が散らばるのを見た。おじさんの所持品は、たったそれだけだった。
六ヶ月が過ぎたころ、つまり一昨日、僕が小説を書いていると言ったら、おじさんは商品に半額シールを貼る手を止めた。
「悪いことは言わないから、そのまま進んで、そのまま死んじまえよ」
思いがけない言葉だったから、反応するのが一拍遅れて、でもそれが最適な間だったような不思議な沈黙が僕たちの間に見えない言葉を紡がせた。翌日、血相を変えた店長から、おじさんが自宅で首を吊って死んでいたと聞かされた。後にも先にも、僕が人の死というものに最も近づいた瞬間だったように思う。
首の皮一枚で都内と呼べる場所にある四畳の和室が僕にとって世界と呼べる場所だ。かれこれ三年も寝食を共にしたから、旬のみかんみたいに黄色く染まった畳の日焼けにも情が移る。
僕は床に腰掛けると、ちゃぶ台の上に散乱したビールの空き缶をがらがらと床へこぼし、卓上にスペースをこじ開けた。
本棚と呼ぶのもおこがましい簡素な木枠からA4の茶封筒を取り出す。真っ白な便箋を一枚抜き出し、ちゃぶ台の上をシャツの袖で拭いてから丁寧に置いた。
この部屋で行われる、唯一生産的で能動的な行為。僕はいつも、誰かに向けて手紙を書いていた。誰かというのは言葉通りの意味で、特に手紙を送る相手が思いつかないから、ただ、誰かに向けた手紙を書くのだった。
手紙の書き出しは難しい。白紙に向き合うとき、僕はいつも少しだけ自分に期待してしまう。季節に合わせた挨拶をしようにも、僕には季節が分からない。食事や洋服、音楽といった娯楽のすべてはどの季節だって顔を変えず、僕の隣で退屈そうにしている。生命を維持するためだけの生に春夏秋冬はやってこないから、気の利いた一言が思いつかない。
結局、今日も退廃的な自己嫌悪に染められた、モノクロの「拝啓、本日はお日柄もよく」から始まる書き出しに落ち着いた。その後も真っ黒のインクが白紙の上を踊り、最後まで手紙に色が乗ることはなく、筆を置いた。
なんとなく、自分が書いた手紙を読み返す。前半はただの独白だった。何の面白みもない、白黒の日々が綴られる。けれど今日の手紙は少し違った。途中から、明確に誰かに向けた手紙へと変わっていっている。何度も読み返して、ようやく自殺したおじさんに向けられたものらしいと気づく。
「死ぬまで書くつもりだったのか、おっさん」
答えはない。この先知ることもない。おじさんがどんな小説を書いていたのかも、死ぬ前日に僕に言った言葉の意味も。人生はいつだって手遅ればかりで、手遅れだと納得するのにも時間がかかるから、僕らはきっと手遅れになっていることにすら気づかず生きている。おじさんは、気づいてしまったから死を選んだのかもしれない。それはきっと幸福なことだと思った。
もしこの手遅れに追いつくことができたのなら。僕みたいな人間にだって、季節を楽しむ権利くらいは生まれるんじゃないかというところまで考えて、それがすでに手遅れなのだということに気づき、その場に寝転んだ。
木材の節かシミかも分からないほど黒ずんだ天井と目が合う。夕方五時を告げるチャイムとアナウンスが流れ、呼応するように小学生くらいの子どもが駆けていく声と足音が聞こえた。どこか遠い世界のニュースを聞いているみたいだった。容赦なく差し込む西日から逃げるように目を閉じる。
「こんにちは」
突然、頭上から声が降ってくる。微睡んでいた意識が突然引き戻される。目を開けて身体を起こすと、淡い紺色のシャツを首元まで留めた帽子姿の男がこちらを見下ろしていた。どこから入ってきたのか、誰なのか、訊かなければならない言葉は何一つとして喉を通らず、ただ、間抜けな悲鳴と空気だけが漏れた。
「突然すみません、驚かせてしまって」
はぁ、と何とも言えない反応をすると、男はそれ以上へりくだることも傲慢な態度を取ることもなく、事務的な口調で言う。
「私、終便配達員のヨシナガと言います。まぁ、郵便配達のすごい版、とでも言いましょうか……」ヨシナガは恥ずかしがる素振りも見せず自己紹介を始めた。既に何百回と擦ったお決まりのフレーズなのだろう。
「お手紙の収集にまいりました。受取人は、先日旅立たれた甲斐様でお間違いございませんか?」
言われてみれば甲斐という苗字だった気がする。珍しい苗字だったから、かろうじて覚えていた。いや、それよりも――。
「終便配達員ってのは、いったい何をするんです? というか、何者なんです?」
「終便配達員は、郵便配達員のすごい版でしてね。お手紙やお荷物を届けるのが仕事、という点は変わらないんですが、私どもは時間を超えて配達を行います」
超えられる距離には限度がありますがね、と言い放ったヨシナガの目に悪戯や悪意の色は見つからない。何よりもいきなりこの部屋に現れた時点ですでに一歩半くらいはこの世界から逸脱した存在なのだろうという確信はあった。唯一の不可解な点を除いて、僕は彼の説明に納得している。
ただ一つの不可解な点。それはなぜ僕のところに現れたのか、ということだった。時間を超えられる、それはつまり過去や未来の誰かに手紙や荷物を届けられることに他ならない。そんな便利なサービスがあるなら、もっと広く知れ渡るべきだと思うし、僕なんかよりも強く利用したいと考えるお客さんはそこら中に転がっているだろう。
そんな思考が伝わったのか、ヨシナガは口角を六度くらい上げてから口を開いた。
「私どもは臨死体験をした方や、他者の死を近くで経験した方のもとへのみ訪れます」それなら、と口にした僕の言葉を彼は手で遮り「これまで終便配達のことをご存知でなかったのは、サービスを利用していただいた後には私どもに関する一切の記憶を消去させていただいているためです」
それなら筋が通る。僕が心配するまでもなく、終便配達を利用している人は大勢いるらしい。覚えていないだけで。
「時間を超えて、死者へ手紙を届けるってこと?」
「いえ、旅立たれる前のご本人様へお手紙をお届けします。流石に手紙のために天国や地獄まで往復するのは、骨が折れますからね」
ははは、とヨシナガの乾いた笑いが静かに響く。何も言わないでいると、彼はゴホン、と咳ばらいをして、ちゃぶ台の方へ近づいた。
「そちらのお手紙は責任を持って、私が甲斐様のもとへお届けいたしますね。それでは、お預かりを――」
ちゃぶ台の上に広がった白い便箋にヨシナガの手が触れる寸前で、僕は彼を制止した。ヨシナガはきょとんとした顔で僕を見つめる。
「この手紙は、出すためのものじゃ、なくて」
だから、と続けるけれど、続く言葉は何もなかった。彼は今度こそ小さく、しかしはっきりとした笑みを浮かべてしゃがみこんだ。子どもと目線を合わせるような動きだった。
「確かに、このお手紙は、読まれるために書かれたものではないのでしょうね。私も仕事柄、手紙は誰のものなのか、と考えることがよくあります」
「誰のものなんでしょう」
「さぁ。分かりません。手紙が届くまでは差出人のもの。手紙が届いたら受取人のものになるんでしょうけれど、まぁ、こんなことを言ってはいけないんですが、手紙なんてものは所詮手紙です。紙にインクを這わせただけの、ただの紙なんですよ」
だから、誰のものかなんてことは些末な問題ですか、と続ける。彼は頷きながら「それでも」と言う。
「差出人が手紙に載せた気持ちであったり、受取人が感じた気持ちであったり、それらは紛れもない自分のものでしょう。だから、大丈夫ですよ」
何を許されたのかは分からなかったけれど、スポンジみたいに柔らかなヨシナガの微笑は僕に不思議な安心感を与えた。送る前にもう一度手紙を読み返していいか、と尋ねると、彼は黙って頷いた。
装飾も何もない、無機質な真っ白の便箋に走る文字を目で追っていく。後にも先にも、手紙を読み返したのはこれが初めてだった。
読み終えて視線を上げたとき、気付いた。誰に宛てるでもない、誰のためでもなかった無数の手紙は、四畳の小さな世界を埋め尽くさんばかりに部屋中に散乱し、もう足の踏み場もなくなっていた。好ましかった畳の黄色い日焼けを、もう何ヶ月も拝んでいない。
僕が床だと思っていた場所はすべて書き終えた便箋の上だった。
ヨシナガは敷き詰められるように散らばった便箋を丁寧に避けて、畳の上に立っていた。僕は、今まさにお尻の下敷きになっている手紙の中身すら覚えていないというのに。
「このお手紙を甲斐様にお届けしてきても?」
「はい、お願いします」
「承りました」
このときになって、ヨシナガが白い手袋を着けていることを認識した。彼はつまむような動作で便箋を持つと、官能的とも言える手つきで便箋を素早く三つ折りにし、持参していた白い封筒の中へと滑り込ませた。封筒の口が閉じられた瞬間、どっと疲れが押し寄せ、安堵のため息を吐いた。
「――あまりこういうことを伝えてはいけないことになっているんですが、一つだけよろしいでしょうか?」
ほとんど縋るような気持ちでヨシナガを見つめると、彼はこの部屋に現れたときと同じように事務的な口調で告げる。
「私どもは受取人の方がお住まいの場所や旅立たれる時間を確認するために、お届け前に下見に行くのが決まりなのですが」一度言葉を区切って小さく息を吸い「甲斐様は、後悔していらっしゃいました」
「後悔?」
「ご自身の生き方を。そして、そんな後悔ばかりの人生を肯定するために、息子の影を重ねた青年に同じ生き方を強いる言葉を吐いてしまった、と」
まさか、それで死んだとでも言うのだろうか。僕の懸念が伝わったのか、ヨシナガは慌てて言葉を繋ぐ。
「甲斐様は、奥様と離婚されたときから強い希死念慮に襲われていたようでした。それでも、死ぬ前に作品を書き上げて、納得して逝きたいと、生を繋ぎとめていたようです。半年前までは」
半年前。確か僕がアルバイトを始めた時期だった。
「甲斐様のご子息は最近成人されたようで。雰囲気も表情もよく似た青年のことを大変気に入ってしまって、日々が明るくなったようでした。ほんの少しの間だけでも、本物の父親と子どもみたいに過ごせる時間を、大変愛しておられました」
「そうですか、僕も、きっと同じようなことを感じていました」
言伝を頼んでも良いか、と尋ねると、ヨシナガは「特別ですよ」と笑った。
「この先も書くから、安心して死んでくれ、と伝えてください」
ははは、とヨシナガの乾いた笑いが響く。外はすっかり暗くなっていて、曇った窓の向こうには濁った色の月がぽっかりと浮かんでいる。振り向くと、もうヨシナガの姿はなく、先ほどまでちゃぶ台の上で所在なさげに広がっていた便箋が無くなっていた。先ほどまでそこにいた終便配達員と交わした会話が夢ではなかったと証明するように。
不意に、強烈な眠気が僕の意識を奪う。届かなかった無数の言葉の上に横たわると、重力に緩やかに引きずられて瞼が閉じる。
その晩、夢を見た。補助輪を外して怖がる僕の背中を優しく抱きながら、自転車と並走する父の声。どこか遠い世界で見たはずの、二度とたどり着けない憧憬を。
翌朝、目を覚ました僕はなぜだか部屋中に散らばった便箋を一枚ずつ拾い集めた。そうしなければいけない気がして、手紙の一枚一枚に目を通し、ちゃぶ台の上に積み上げていく。一時間ほど経ったころ、ようやく分厚い紙束となった手紙の山をテープで縛り、自転車のカゴへ放り込んだ。
朝日を背に浴びながら川沿いを走り、人の居ない高架下にたどり着く。自転車を停めて手紙の束を抱え、滑るように川辺に降りた。
人生は手遅れしかない答え合わせの連続だ。だから、いつだってやり直すことができるのかもしれない。
セブンスターを貰った日に自腹で買ったジッポーを取り出す。
そのことに気づくには、人生はあまりに短い。だから、いつだって僕たちは手遅れを愛することしか許されない。
封を開けていないセブンスターの包みを剥がして一本だけ取り出し、火を着けた。
そのまま、ジッポーの火を手紙の束に近付ける。直後、セブンスターのものではない、焦げ臭い煙がもくもくと上がった。
無数の言葉は煤となって辺りに散らばり、願いは煙となって僕の目を灼く。大量の黒煙に包まれた眼球からはとめどなく涙が溢れ、燃え尽きてからもしばらくの間、止まることはなかった。