出張①
だるい。そして痛い。
二日で三十万を稼いでしまった代償は全身を苛む筋肉痛であった。
「うう……、ハァ、今日は出社か……」
動けそうになかった体をどうにか起こせたのは、同じ室内にあった男性の気配。
自分より、遅くに寝て、早く起きていた高田川さんは、今朝も朝食を用意してくれている。
助かります。
女として、貞操の危険を全く感じないかと言えば嘘になるが、彼は気を使ってくれている。
「あっ、シャワー浴びるなら、どうぞ。ええと、外に出ていましょうか?」
「見ないでいてくれるだけでいいです」
腹を括って信用するしかない。
無理に追い出そうと思えばできた――と、思う。
しかし、何というか、高田川の雰囲気が、くたびれた感じが、母性本能とはまた別の保護欲を掻き立てるものがあった。
無条件にお年寄りに親切にしてしまう的な。
これが、もっと劣情がギラギラした男であったなら、部屋にすらあげない。
まだ短い付き合いであるが、お父さん的な安心感もあって、三十路の女としては、貴重な甘えられそうな存在である。
――同居か……。案外早く慣れそう。
メリットもあるのだ。
まず、家賃や光熱費の負担が折半である。それから、こうして朝食を作ってくれて、家事全般もやってくれるそうだ。
家政夫を手に入れてしまった。
もう少し、家が広かったら、とは思う。一人暮らし向けのマンションの一室なのです。
一人なら、スーツを着る前は、もっと大胆な格好でいられたが、シャワー後はスーツのスカートとブラウスまで身に付けておく。
これに関しては、ちょっと準備が早まったと思うしかない。
「今朝も七原さんの話題ばかりですね、テレビ」
いただきます、から、箸を持って、視線をテレビに向けた。
「私、じゃなくて、魔法少女の、です」
「何処も、少女、の後に?が付いていますね」
「ぐ……、自分でもそう思っているんですけど」
「早速、考察が流行ってますね。少女、と名乗っているから、本当は子供が変身して大人の姿になっているんじゃないか、とか」
そう言い張る手があったか。それなら、身バレの可能性も低いし。
「もっと、科学的な考察ってないんです?」
「なかなか、納得できる説明ができる物理学者もいないようで……」
あらゆる法則が無視される、それが魔法。
「そろそろ、出かける時間ですかね?」
聞かれて気付く。
――いつもより遅い時間。そうか、外で食べていく必要がないんだ。
有り難い。
「高田川さん、その……、この部屋を出る時は一緒でいいんですけど……」
そんなに近所付き合いがあるわけでもなく、見られて困るのは、管理人くらいか。
「分かっています。会社にはバラバラで入るようにしましょう」
互いに社会的立場があるのだ。
まあ、高田川もこの歳で独身であるので、別に付き合っているかと思われても問題はないのだが、それも本当に好きなら、という条件がつく。
人間的には嫌いじゃないですよ。
男として見られるか、と聞かれると微妙。
むしろ、男として見ないようにしているから、同居していられる。
こんな感じで、同居一日目は始まった。
――――
定時前、オフィスでも話題は魔法少女であった。
できるだけ参加しないように自分のデスクにつく。
「先輩、おはようございます」
後輩ちゃんが、隣にやってきた。
彼女の事は心配していた。被害者として、世間一般に広まって、さぞ、疲れ切っているかと思えば、案外と元気そうだ。空元気でなければいいが。
「おはよ。ああ、大変だった?」
腫物に近付かないように、他の同僚は気を使っているが、聞き耳は立てられていそう。
「もうお嫁にいけないっす、なんて思ったんですけど、一気に何十人にもプロポーズされました」
「は?」
「いやぁ、魅了しちゃいましたかね」
「……」
「何か言ってください。本当のところ、一定数いるんすよ。自分が嫁に貰ってあげないと、って考える変な正義感の男性って。特に海外からのオファーが多くて」
昔、テロ行為に加担した女性が捕まった時に、ファンが増殖したらしい。後輩ちゃんの場合は被害者だけど。
「それは、まあ……。それも気になるけど、警察とか、マスコミとか」
「警察の方は、状況の説明とか、そんな感じっす。で、しつこいのがマスコミで、はあ……」
溜息に実感が籠っていた。
「た、大変だったね」
「あっ、でも、ほら、話題がまだ魔法少女、えーと、フェチ・ティッツでしたっけ? あっちに集中して、まだ被害は少ないですよね」
「み、みたいね」
じっと顔が見られると、視線を外したくなったが、耐えた。
「私も助けられたんですけど、あっ、知ってますよね」
「格好良かった?」
「エロかったっす。こう、先輩みたいにオッパイ、ドーン」
うん、気付かれていない。
魔法少女となってから、高田川を除く知り合いに会うのは初めてで、特に間近まで接近した後輩ちゃんが最も注意すべき相手であった。
後輩ちゃんがぐっと体を寄せてくる。
「フェチ・ティッツの正体も気になるんすけど、あの時……、実は高田川さんに会ったんす」
「へえ、そうなんだ」
「フェチ・ティッツに助けられた後、傍にやってきて、そっと上着を貸してくれたんすよ。何か、ドキってして」
「はい?」
「高田川さんって、確か独身だったすよね」
「まあ」
「いいっすよね、高田川さん」
後輩ちゃんの瞳が、恋する乙女のそれだった。
――はぁああああ!? 後輩ちゃん、二十三よね。え? 枯専だったの?
高田川と同居している事実を絶対に後輩ちゃんにはバレないようにしようと誓う雪花であった。
――――
魔法ランドから逃れた穢れた欲望の多くは、最初に現世に落ちた場所の周辺で人々の中に入り込んでいる。これが、一部地域に集中している理由であった。
ただ、稀に遠く離れた場所まで飛んでいった物もいる。
「大きくしたい。ああ、どうして、私は小さいの?」
人それぞれ、個性があって、それが魅力となるのだ。
だが、あくまでも他人から見て、だ。
他人から見ても魅力であっても、本人にとってはコンプレックスである事も多々ある。
彼女は所謂貧乳であった。
貧乳……、いいよね、貧乳!
と、言っている男性もいる事は知っている。
だが、そんなのは全く関係がない。
例えば、多くの男性の真実を語れば、痩せているだけの女性よりも、ちょっと下っ腹が出ていたり、完璧な美乳より、微妙に崩れている方にエロスを感じたりするものであるが、それを知っても尚、女性は痩せたがる。
彼女は聡明であり、自分の胸の小ささも受け入れ、それだけで幸せが決まる訳ではないと知っていた。
だから、コンプレックスを押し込め、貧乳として生きていく事に納得していたはずだった。
だが、見てしまった。
昨日から頻繁にテレビやネットを騒がしている存在、魔法少女フェチ・ティッツの胸の肉果のそれはもう派手に揺れまくる様を。
憧れと嫉妬が、押し込めていた欲求の蓋を開け、諦めなくてはならない現実に絶望する。
どうしようもない現実が欲求を高め、決して解消されない事で、一気に膨らみ、それを成長させてしまった。
「あぁああああ――――、憎い。この世の全ての巨乳が憎い」
彼女の体から拭きあがった真っ黒なそれが、形を成していく。
――――
お昼休みになった途端に、同僚らが騒がしくなった。
一人がスマホを見せれば、皆が取りだし、何やら確認している。
「どうしたの、皆?」
「先輩、これっす!」
後輩ちゃんが見せてくれた動画に青ざめ、自分もスマホを取り出した。
速報がある。ネットニュースからライブ配信と確認し、事実だと知る。
休憩所に走れば、テレビがつけられていて、多くが注目していた。
『ご覧の通り、また、真っ黒な謎の、生物と言っていいのでしょうか? 謎の存在はゆっくりと大通りを歩いて、現場は騒然としています』
警察が交通規制をしているが、周囲のビルにはまだ人が残っているようで、実況の声も焦りが込められている。
現場は九州の都市部で、ここでテレビを見ている社員らには対岸の火事か。
「立て続けだな」
「で、今回の奴は、何を言ってるんだ?」
「さあ、おっきくなりたい? らしいけど」
遠方からの映像で、欲望鬼の声までは拾えていない。
何処に向かって歩いているのか。これまでの欲望鬼の行動パターンからすれば、満たしたい欲求の為だけに動いていて、理性はまずない。
「まあ、そのうち、魔法少女? ってのが、来るんだろ」
「少女って体ですか、あれ?」
「魔法AV女優?」
こいつら、殴ってもいいよね。
――でも、どうしたらいいの? 昼休みのうちに九州まで行って、戻って来られる?
普通に考えたら無理だが、きっと魔法の力で何とかなるに違いない。
「やれやれ、また出ましたか」
「高田川さん?」
いつの間にか雪花の隣に高田川が来ていた。
「こうも出現すると、困りますね」
「ホントですよ。あの……、まだ筋肉痛が……、とか言っている場合じゃないですよね」
うんざりするが、契約上、戦わなくてはならないのだろう。
「では、明日は休みですし、九州まで行きますか。あっ、旅費はネオ魔法ランドから経費として出ますので」
「助かる……って、明日でいいんですか?」
現場は緊迫して見える。
「いや、こちらの仕事があるじゃないですか。サボる気ですか?」
「サボる気はないけど……、いいの?」
「七原さん、副業とは本業に影響がないようにしなくてはなりません。無理なら、退職してそちらに専念するのが筋ですよ」
「はい、ごもっともです。でも、ほら、魔法の力で、九州まで瞬間移動……とか」
「はは、何を無茶な。明日は普通に新幹線に乗っていきますから」
魔法少女のコスチュームに魔法で着替えられたリ、ネオ魔法ランドからトラップを送ってもらえるのに、瞬間移動は無茶なのですか。
「…………向こうでの飲み食いの費用は……」
「領収書を取っていきましょう」
今から戦いに行かなくてもいい事に安堵した。
よし、明日はとっとと欲望鬼を封印して、豚骨ラーメンを食べよう。
――――
本日のこの町は平和であった。
定時で会社を出て、マンションの最寄り駅から自宅へ向かう。ウィークエンドのこの時間は少々騒がしく、仕事や学校からの解放感から人々には笑みが多かった。
雑音の中の声がここまでちゃんと聞こえてしまうのは、それが魔法少女に関する事だからであろう。
「ねえ、魔法少女来たの?」
「まだみたい」
はい。明日ですよ。
その後の九州に現われた欲望鬼だが、まだ具体的な被害を出してはいないようで、機動隊が並んだ前で止まった状態であるらしい。
「なあ、魔法ババア来た?」
「まだみてえ」
――バ、ババア!? ぐぬぬ、そ、そりゃ、学生の男の子から見たら、そうかもしれないけど……。
「いいよな、魔法ババア」
「魔法ババアのエロさは異常」
――ねえ、褒めてんの? けなしてんの?
とにかく、こちらは平和だった。
「七原さーん」
息を切らして近付いてきたのは高田川である。
「あっ、お疲れ様です」
まだこの人が同居人という意識は低かった。
――恋人のようにいちゃつく間柄じゃないし、周りから見たら……。
お父さん――それが一番しっくりきた。
「高田川さん、二人きりの時は、私の事は下の名前で呼んでください」
「いいんですか?」
その方が親子に見えるはず。
「はい」
「で、では……雪花さん」
あっ、真っ赤になった。
こうしてみると可愛い人だ、高田川さんは。
「呼び捨てでお願いします」
「え、ええ! それでは…………雪花……、うおっ、女性の名前を呼び捨てにしたのは初めてです」
これでより親子っぽく見える。
「うん、パパ……」
なんか、愛人ぽかった。
近くにいた主婦らがこちらに怪訝な瞳を向けてヒソヒソと話しています。
「え、パパ……ですか?」
「な、何でもないです。忘れてください」
恥ずかしさから歩く速度が増して、先に行ってしまった。
――いい大人が……、はあ。
魔法少女になったのは、あの時自分しか後輩ちゃんを助けられなかったから。それで契約した内容で、同居する事になった。
ある意味、脅されてなったようなものだから、クーリングオフできるような気もするが、それを自分は主張していない。
納得している部分もあるし、経済的なメリットに負けている部分もある。
なら、自分で選んでいるのだ。
足を止めた。
「高田川さん……」
追いついてきた高田川がビクッとする。
「は、はい」
「今夜はカレーが食べたい気分です。男のカレー、ワイルドなのお願いします」
「はい!」
回りからどう見えるかとか、気にしても仕方がない。
特に気にするのは当人だけで、結局、都会では見掛けられても直ぐに忘れられる程度の事。大勢が住んでいれば、それだけ色々な人間がいて、当たり前だ。
近くのスーパーに寄って、二人で食材を選ぶ。
それから荷物を半分ずつ持って、マンションに向かった。
「えーと、ゆ、ゆき……、やっぱり七原さんでいいですか?」
「それでいいですよ。さっきの、まあ、ちょっとした冗談、というか、シミュレーションのようなものですから」
「はあ?」
住宅街に入り、人通りは少なくなってきた。今はまだ早い時間であるが、この辺りでももと遅い時間になると、女の一人歩きは勇気がいる。痴漢注意の看板が見えた。
――そうか、高田川さんって、こう見えてかなり強いし、ボディガードとしては優秀よね。
必要な物に気付いて、深夜にコンビニに向かう時とか、安心感が違うだろう。
男として考えてみても、自分に対して、ここまでギラついていない男性は少なく、昨晩も怪しい動きはなかった。
「そうか、番犬のように考えれば……、マスコットだし」
「何か?」
「い、いえ……」
ふと、自分が高田川に首輪をして、そのリードを持っている姿を想像してしまった。
ふふ……と笑ってしまうと、高田川は首を傾げる。
入居前にはおしゃれと思ったオレンジ色の淡い光が照らすマンションの出入り口を通って中へ。エレベーターに乗る。
「はい、高田川さん」
「これは……」
「部屋のカードキーです。必要になるでしょ」
男性に合鍵を渡したのは、初めてだ。昔、付き合った男にも渡した事はない。
「じょ、女性の部屋の合鍵を頂くのは初めてです」
「いや、もう転がり込んでいるじゃないですか」
「まあ、そうなのですが……」
照れ、が見える。
――やっぱり、高田川さんって、可愛い年上の男性って、感じよね。
「老犬を飼っていると思えば……」
「はい?」
部屋に戻れば、早速、料理に取り掛かる高田川である。
その間に、さっとスーツを脱いで、部屋着――グレーのスウェットの上下――に変えた。何となく性格も分かってきて、脱いだりする気配を感じると、彼は決してこちらに顔を向けないのだ。
カレーはほぼ期待通りで、大きめにカットされた具材が口の中でほろっと崩れ、何処か懐かしい味がした。
これお父さんのカレーだ。
「ええ、二人で暮らす為にはルールが必要だと思うのですが」
と高田川が切り出してきた。
「はい。私も考えていました」
「会社ではセクハラにあたるので、聞きませんでしたが、彼氏とか結婚のご予定は?」
「先に同居を決めておいて、今、聞きますか」
「すみません。何分、そう決められていて」
特殊な環境、特殊な間柄なのは理解できる。
「彼氏は、現在はいませんし、結婚の予定は、暫く……」
「成程……、あっ、でも男性を連れてくる時は教えてください」
「変な気遣いはいいですから。ええと、ゴミ出しとか、食事は……」
「そこは、私がやります。押しかけた形になっていますし、それくらいはさせてください」
楽だ。が、きっとこの人に甘えてばかりいると、駄目な大人の女になる。
「しゅ、週に一度くらいは、私もやります」
これで女子力は保てる?
「お風呂の順番は、七原さんが先の方がいいですよね」
どうだろう?
――おじさんが入った後の湯か……。先の方が……、いえ、私が入った後の湯に高田川さんが浸かる。それは、それで……。
疑ってはいけないが、お湯を飲んだりしないよね。
「贅沢ですが、お湯は一人一人、入れ替えで……。それなら、どちらが先でも構いません」
気分を悪くしないだろうか?
「そうですね。面倒かもしれませんが、私が入った後は、ちゃんと洗っておきますから」
気遣いをさせてしまった。
「すみません」
「いえいえ、私は独身で子供もいませんが、きっと娘がいたら、そうなんだろうな、と思います。じゃあ、洗濯も別々にしましょう」
この男性は――やはり一緒にいて楽だ。
「着替えの時は、お互い見ない、これは絶対です」
「勿論です。なんなら、トイレに行きましょうか?」
「高田川さんはその方がいいですか?」
「私は男で、この歳です。下着姿を見られても気にしませんが、見せれば不快な思いをさせるでしょ?」
看護と考えれば、そんなに気にする必要はないが、これは慣れか。高田川の場合、まだ微妙に若い。
「互いに着替える時には声をかけて、見えない陰に行く。それでいいです。それより、トイレです。私が入って、出た後は……、五分……、いえ、十分はいかないでください」
「私の後もそうしてください」
あっ、気にするんだ。
一応、便座は脱臭機能付き。
「そうだ、寝る時はどうします? 昨日なんか、キッチンの床で寝ていたみたいですけど」
「そこでいいですよ」
「でも……」
今はまだいいが、寒い季節になったら、かなり冷えそうだ。
「私、まだ朝勃ちもしますから」
「ああ……、え! そうなんですか?」
高田川順三、まだまだ現役。
「七原さん、貴女は魅力的な女性です。まあ、若い男の様に衝動に駆られる事はありませんが、こうして一緒に部屋にいてもドキドキするんですよ」
悪い気はしなかった。
――それに、正直ね。
「構いません。こっちで寝てください。お布団、用意しましょう。高田川さんを信用します」
「七原さん……」
概ね、決めて、後はまた暮らしていくうちにルールを増やしていく事にした。