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56:閑話5:可敦(カトン)城、及びそれを中心にしたキタイの漠北にての防衛戦略

 話のタイトル、及び前書きを少し変更しました(2022.3.31)


 キタイの話ですので、モンゴル及び本編とは関わりなく、特に読まれなくても良い話です。ただ、モンゴルを考える時、先行者たるキタイの動きは興味深いものです。

本話ではキタイの語を用いますが、遼朝のことです。


 まず、可敦城とは、キタイがモンゴル高原の拠点として築いた鎮州のことである。そしてこの鎮州城に比定されるチントルゴイ城址はモンゴル国のブルガン県ダッシンチレン郡にあります。ウランバートルから真西におよそ200キロです。グーグルマップでは47.874693,104.247288の数値(緯度、経度)をコピペすれば、そこに飛びます。そこに見える縦長の長方形(上側が北城、下側が南城)が可敦城です。




 遼史の伝える記事を次に訳してみる。

『鎮州はいにしえの可敦城。


 [キタイの第6代皇帝である聖宗の]統和22年[1004年]皇太妃[遼史の校勘は王太妃とする]の奏により置く。


 諸部族より2万余騎を選び、[駐]屯軍に充て、もっぱら、室韋・羽厥などの国を扞禦す[=防ぐ][べし]。


 [注 ここまでは、王太妃の奏、もしくはそれを受けての聖宗の詔の引き写しと解して、(つまり、実際になされたか否かは別問題として)訳した。遊牧地に2万の常備軍というのは非現実的だし、史料としてみると、詔というのは、後世に残りやすい。]


 およそ[他の地へ?]征討の有る[といえども?]、[屯軍する兵を?]抽いたり、移すは得ず[=してはならない]。[←上文の訳は、正直、自信がない]


 渤海[人]・女直[=女真人]・漢人の配流した家700余戸を鎮・防・維の3州に分居す。


 [鎮州城よりキタイの]上京に至るに東南3千余里』

 []内はひとしずくの鯨による補足




 この年のうるう9月に聖宗は宋へ侵攻。12月には宋との間に有名な澶淵の盟を結ぶ。とすれば、この鎮州城の建置はまずは北西方面を固めてということであったことが分かる。


 上述した如く、騎馬2万余というのは、実質絵に描いた餅であり、反乱が有った場合に、周辺の諸勢力に声をかけて、どれくらい集まるかというのは、まさに状況次第であろう。


 キタイ本土の遊牧勢をこの地へ移すということもあったとは想うが、その数が多ければ多いほど、現地の反発を買おうし、まさに痛し痒しであったろう。


 実質の屯田兵(=常備兵)というのは700余戸の方であろう。この北の地で農耕により養えるは、この数がギリギリであろう。


 ところで、遼史が伝えるは3州城のみであるが、実際は15もの城郭遺跡が発見されている。城を複数築いて防衛網とするは、日本人には馴染みのものであるが、遊牧勢たるキタイも似た戦略を用いたということが分かり、とても興味深い。


 彼我の差を比べると、

 1.そもそもの地勢を比べれば、山が険しく(山城に向く)河が多い(平城に向く)日本に対し、モンゴル高原では相対的に山はゆるやかであり、また河はとても少ない。


 2.主食を比べると、保存が容易で、場所を取らない穀物である日本に比べ、やはり相対的に保存がしにくく、場所を取る肉・乳製品が中心のモンゴルとなる。ただ、モンゴルは厳寒地ゆえ冬ならば、保存は問題ない。


 3.日本は農耕を生業とするゆえに、土地への執着が強い。もし、場所を移るなら、新たに地を開墾しなければならぬゆえである。

 対して、モンゴルは遊牧ゆえ、いざとなれば、逃げるというのが主要な選択肢となる。ただ、多数の軍馬を抱える軍勢にとって川があることは必須であり、ゆえに決してどこでも良いわけではないのだが。それでも、軍馬・家畜を連れて逃げるを得て、逃げた先で川のある地に住むを得れば、すぐに飢えるということは無い。


 4.日本では、一端、籠城しても敵が退却すれば、その土地は自分のものとして、戻って来る。

 対して、モンゴルでは城郭にどれだけの軍馬・家畜を収容できるか、また馬草を用意できるかというのが、大きな問題となる。収容できぬ軍馬などは敵の奪い放題となる。また、馬草が無くなれば、これらは死んでしまう。日本の如く、生業の中心が農耕なら、軍馬・家畜が全て失われても致命的ではないが、モンゴルならこれは間違いなく致命傷である。ゆえに、これに限りがあれば、逃げた方が良いとなろう。

 ところで、この馬草の確保に上述の700余戸の屯田兵が大きく寄与したは確かであろう。遠方より人を移してまで農耕をさせるは、これも理由の1つであろう。穀物を作れば、おのずと藁は残り、これを馬草に充てることができる。一般にこれら穀物の藁は、栄養価も高くまた家畜の好物でもある。


 このように、日本と比べれば、決して籠城に向いているとは言えぬ土地柄ではある。それでも15もの城を築いたということは、日本ほどではないにしろ、城を複数用いた防衛戦略が少なからず有効であったということであろう。


 もっとも宋とキタイの戦を伝える宋側の史料を読むと、戦の際には、キタイの騎馬軍はもっぱら城の外に常駐して戦ったことが分かる。ゆえに、城は婦女や兵糧・馬草を置いたり、城外に留まるを得ぬ時、一時的に逃げ込む用途として用いたのだろう。そこから籠城するか、逃げるかというのは、まさに状況次第であろう。


 キタイ本土からはかなり遠く、例えば、現地で反乱があった際、援軍が必要な状況に追い込まれて、兵糧・馬草が持ったかは微妙なところと想う。


 ただこの時のキタイの国家規模からして、援軍が至れば、現地勢を制圧しうるは間違いない。それとこの城郭群を組み合わせて反乱への決起を未然に防ぐことをキタイ側は欲したのではないか。また、そのことにより、現地諸勢力にキタイへの臣従が得策であると訴えんとしたのではないか。


 人はあたら身を滅ぼす行いはなさぬものである。いわば、実際の戦のみならず、そこに至るいわば心理戦にても、この城郭群は有効に機能したのではないかと想えるのである。


 そして遼史には、その少し後に別城として伝えるに、

『河董城。回鶻ウイグル可敦カトン城であり、語がなまりて、河董城と為る。

 久しく廃されており、遼人が之を完し[=修復し]、以て辺患を防ぐ。

 高州の界の女直が常に盗をなし、行旅[=旅人]を劫掠するので、その族を此こ[=可敦城]にうつした。

 上京に至るは東南1700里。』


 距離が違うゆえ、別城としたのであろうが、恐らく同一の城であろう。


 ところで、キタイの開祖たる耶律阿保機の正妻ある淳欽皇后は、ウイグルの血統である。この城が本当に遼史の伝える如くの古名『回鶻ウイグル可敦カトンの城』(カトンは后妃を意味する)であったか否かにかかわらず、周辺の諸勢力に臣従を求めるに際し、キタイの帝系の母方がかつてモンゴル高原にて大帝国を築いたウイグルに発するということは、是非とも強調したいところであろう。


 そのゆえに現地勢に対しては、鎮州城ではなく、むしろこの名で――つまり古名を再び称したにしろ、新たにそう名づけたにしろ――喧伝したのではないかと想える。


 後代の耶律大石が留まった城を伝えるに、やはり遼史が鎮州城ではなく可敦城の名を伝えることからも、こちらの名の方が通っておったとみなせるのではないか。そしてそれはその喧伝の効果のゆえとみなせるのではないか。


 参考文献

 木山克彦ほか著「チントルゴイ城址と周辺遺跡」(荒川慎太郎ほか編『契丹[遼]と10~12世紀の東部ユーラシア』(アジア遊学160勉誠出版 2013年所収)


閑話はこれで終わりです。次話よりオトラル後半戦です。よろしくお願い致します。

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