43:閑話4:新氏族創成――沙陀とキタイと唐朝とモンゴルと
他に、この墓誌で興味を引く点を挙げるとすれば、その子供の名が25人も記されていることである。論者によれば、うち14人が仮子、9人が実子とされる。(森部・石見(2003)34貢)
仮子とは養子の如くのものである。
例えば、安禄山の精鋭軍は、曳落河と呼ばれる仮子軍であった。
また後代のチンギスの陣営にも、万人隊長のシギ・クトクを筆頭に重臣となった養子が何人もおる。
このように遊牧勢においては、仮子(養子)が人材の主要な供給源であった。
とはいえ、墓誌にまで記すというのは、尋常ではない。
しかも、墓誌にては、実子であり跡継ぎたる李存勗より下の弟23人については、実子と仮子の区別無く(恐らくは年齢順に)記してある。
これは沙陀軍閥の置かれている状況ゆえといえよう。
それを理解するために、沙陀の来たるところを大雑把に見てみよう。
ここで再び墓誌を戻ると、李克用の4代前の祖[つまり、ひいひいじいちゃん]たる益度が薛延陁[=陀]国の君で、無敵将軍であるとのこと。(森部・石見(2003)34貢)
[]はひとしずくの鯨による補足。
「無敵将軍」とは、何かいかにもの名であるが、「将軍」との語は、トルコ語に入り「サングン」となるので、実はありえることであったりする。
とはいえ、他史料から勘案すると、益度という人の実在云々はさておき、ここはこの人物に仮託して、その祖先が語られておるところと考えて良い。
李克用の血筋は、薛延陀にさかのぼりうると分かる。
ところで薛延陀の主力は、646年、唐により壊滅されておれば、恐らくその傍流であったのだろう。
また上記の如く朝敵として討伐されておれば、あえて薛延陀の血筋であるを騙る必要は無いとみてよく、この記事を疑う必要はなかろう。
そもそも、この氏族の姓は朱耶であり、克用の父の国昌が李姓を唐朝より賜られたのである。
その主力を壊滅された後、李克用の祖先たちは、沙陀氏族と連合して生き残るを図った。
史料はこの連合勢力を沙陀として伝えるので、沙陀氏族に臣従しておったとみなしても良いのかもしれない。
岡崎精郎訳『新唐書沙陀伝』により以下にまとめると、
まず、「沙陀は西突厥の別部であって処月の系統に属する」とあり沙陀氏の方は、父系を異にする処月の系譜と分かる。
ゆえにこの連合は姻族に基づく可能性が高い。
その後は北庭 (ビシュバリク)当たりにおり、唐に対しては叛服常ならずであった。
沙陀勢は、貞観年間(785~)に一端は吐蕃の傘下に入る。
後にそれを嫌い、元和3年(808)唐に帰附した。
この際、吐蕃軍に追撃され大きな犠牲を強いられたという。
部衆3万落で発したが、たどり着くを得たのは2千人、騎士7百人に過ぎなかった。
唐は、やはり、これを地方軍閥として辺境防衛に当てんとして、河東に移して、その節度使に任じたのである。
そこで軍閥として勢威を整え、ついには後唐を建国するまでとなったのである。
ところで、その勢威を整える際、上記の仮子が大きな助けとなったゆえに名を記されておると考えて良かろう。
前述の如く吐蕃により大損害を受けておれば、人的資源はまさに窮迫しておったに違いない。
遊牧勢が血統を重んじるは良く知られたところであるが、必要においては、それを外れても、様々な対応・処置を取るということであろう。
人為的に氏族を編成するということである。
墓誌に自らの名が記されたことを知った仮子は、感涙して更なる忠誠を誓ったに違いない。
後世の我々は、これが皮肉な展開となるを知っておるのだが、無論、当の本人たちは知るよしもない。(←ここらへんは閑話の続きにて触れようと想う)
例えば、上述の安禄山の曳落河(仮子軍)を伝える史料はバラツキがあるが、これの数を8千とも読みうる。
実際のところ、曳落河の内実ははっきりしない。
例えば、これが
・将のみを仮子とし、兵は仮子ではない編成なのか、
・それとも、全将兵が仮子の編成なのか。
何とも言えないというのが正直なところではあるが、より大規模な形での人為的な氏族の編成の可能性はある。
ここで想い浮かぶのは、西域の奴隷部隊との類似である。
一方が子で一方が奴隷ならば、一見すると、その差はずい分と大きいように想われる。
ただ手塩をかけて育て上げ、己が軍の中核とする。他方育てられた方は、それを恩義として、忠誠を尽くす。
果たしてどれほどの違いがあろうか。
他方、キタイもやはりである。
というか、かなり大胆になしておるといえる。
常識外とさえ言って良い。
先話に述べた如く、王族の耶律氏がまさにそうである。
これは、阿保機の氏族と遙輦氏と大賀氏をひとまとめにして編成された。
遼史、世表に
「(前略)阿保機に至りて、功業は勃興し、世里氏と号し、是れ遼の太祖となる。
是れに於いて、世里氏は大賀・遙輦とともに三[姓]耶律と号す。」
[]はひとしずくの鯨による補足。
これより明らかな如く、阿保機の氏族は世里氏というのだが、余りに知られていないので、少し長ったらしいが以下、阿保機一族と記す。
遼史によれば、阿保機の母の宣簡皇后は遙輦氏である。
ところで、遊牧勢は通常、父系を同じくする者とは婚姻せぬ。
ゆえに、この遼史が伝える宣簡皇后の出自が正しいとすれば、阿保機一族と遙輦氏は父系を異にする。
ゆえに耶律氏とは、父系の異なる氏族を併せて編成した新氏族に他ならぬのである。
これは遊牧勢においては、なかなかにありえぬことと言って良い。
それでは、阿保機一族とは何かというのが気になるところ。
先話で述べた如く、阿保機の弟の迭剌は、奚可汗帳の迭剌氏を母とする可能性が高い。
とれすば、阿保機の父たる徳祖はこの者を妻としており、ゆえにやはり両者は父系を異にしておると言って良い。
以上をまとめれば、阿保機一族は、「キタイの中核であった遙輦氏」とも「奚の可汗の氏族たる迭剌氏」とも父系を異にする。
大賀との関わりははっきりしないが、その傍流なら大賀と名乗るはずであり、やはり同一父系でない可能性が高い。
つまり、血筋として何ら誇るものがない氏族と言えるであろう。
耶律という新氏族創成の原点は、ここにあると見て間違いないであろう。
そしてより詳細にいえば、そこには3つの意図があるのであろう。
一つは大賀――遙輦――阿保機の一族を、一つながりの氏族の如くとし、その淵源を大賀氏にまでさかのぼりうるとし、それにより自らを権威付けすること。
次は、キタイと名乗るためである。
本来、遙輦と父系を異にする阿保機の一族は、キタイと名乗ることはできぬ。
上掲書12貢によれば、遙輦氏は、耶律氏に組み込まれた後も、墓誌にては遙輦氏を姓としておるとのこと。
阿保機一族が僭称するための呼称たる耶律氏であれば、そんなのに付き合ってられないよということなのだろう。
そして、最大の目的は、その遙輦氏を巧妙に支配することであったろう。
通常、姻族なら、そのまま姻族として支配すれば良いのであって、例えばモンゴルなどはそうなのである。
ただ姻族の場合、相手に自らの一族の娘を与えることになる。
これは、相手側にすれば、主筋の娘をもらうことになり、自らの子孫の血筋をより高貴なものとなしうる。
つまり、相手を強力にすることになる。
遊牧勢は、その人物を見るにおいて、母方の血統を極めて重く見る。
それが高貴であればあるほど、その子の統治者・軍事指揮官としての評価は高まるのである。
彼我の力の差がそれほどでない場合、下手に一族の娘を与えることは、はばかられる。
例えば、ケレイトのオン・カンは、チンギスが長子のジョチに嫁がせたいとして求めた娘のチャウル・ベキを与えることを拒んでおる。
結局これが原因で両者は同盟から一転、全面戦争へ至る。
オン・カンが拒んだは、チンギスの強大化を恐れたゆえに他ならぬ。
そして、これが全面戦争の因となったということは、オン・カンにすればそれほどに与えたくなく、チンギスにすればそれほどに欲しかったということの裏返しに他ならぬ。
他方で、後の明の時代、漠北でモンゴルと覇権を争うほどに強大となったオイラトは、チンギスの時代からの(モンゴルの)姻族に他ならぬ。
またティムールも清朝も、モンゴルの娘を求めた。
いずれも、これが自らの子孫に血の権威を与えることを知るゆえに他ならぬ。
話を元に戻そう。
耶律氏という新氏族にひとまとめにすることには、
・一族の娘を遙輦氏に嫁がせることに伴う、血の権威の高まりを防ぐことができる。
・また人為的なものであれ、同一氏族である以上、その間での婚姻は禁忌になる。
オン・カンとチンギスの間に生じた如く決定的な対立に至ることも同時に防ぐこともできるのである。
つまり、遙輦氏による権勢逆転の道を巧妙に塞いだのである。
また、そもそも南隣の華北の地にては唐が律令という、まさに人為的な枠組みを政権の礎としておる。
ゆえに、これに直接・間接に接しうる地におる遊牧勢であってみれば、こうした人為的氏族をもって、小さくは軍勢、大きくは国家の礎となさんとしたとしても、別段不思議は無い訳である。
というより、実は唐朝は、この氏族創成の先駆者なのである。
そう、あの李姓を賜るという奴である。
唐朝はこれが大好きで
――まあ、確かに費用がまったくかからぬのに、それでいて相手に恩を与えることができる
――やたらめったら、これを与える。
例えば、奇しくも安禄山の時代のキタイの長に李姓を賜っている。
果たして阿保機が直接唐朝を参考にしたか否かを史料上、決定することはできない。
ただ海を隔てる日本にてさえ律令から平城・平安の都造りに至るまで、唐の与えた影響は甚大である。
ならば、果たして、どうであろうか。
また沙陀の方にも前述の如く、克用の父に賜っておる。
後の存勖が唐と称するを得たのは、このゆえであろう。
結局、唐朝の新氏族の創成が、キタイと沙陀にて各々展開を見せたといっても、あながち的外れではあるまい。
まあ、唐からすれば、キタイの強大化など望むはずもなく、他方沙陀についていえば、後唐を名乗るなら、我らの血筋の者をこそ皇帝に推戴せよとなろうが。
ところで余談を一つ。
隋・唐王朝についていえば、この一族の娘を与える事例の中には、なかなか興趣深き展開をたどったものがある。
隋朝から、突厥第一帝国の啓民可汗に嫁いだ義城公主である。
この者は、啓民亡き後、その息子たち
――無論、いずれも実子ではない
――に次次と嫁ぐのだが、これは遊牧勢の習いというだけでなく、明確な政治上の目的あってのゆえである。
この間に華北の王朝は、隋から唐へと移り、彼女は隋の再興を志し、唐を苦しめる。
彼女の下には煬帝の孫である楊正道が逃れて来ておれば、それは十分に実現可能であったのである。
なかなかにたいした女性だと私などは想う。
残念ながら、彼女は太宗の派遣した李靖の軍に630年敗れ、殺される。
チンギス軍というのは、どちらかというと、李克用の軍勢に近い。
これは幼くして父を亡くし、同族に命を狙われるという状況が強いた帰結と言えよう。
まさに衰亡に近きところに追い込まれた状況で、オン・カンに臣従して助けられつつ
――この閑話の話の脈絡でいえば、オン・カンにとっての地方軍閥となり、
他族を自己の傘下に組み入れ、
――弱小勢力、よりあからさまにいえば、食い詰め者ども
――いわゆる勝ち馬に乗るという行いは歴史を舞台にして、あまた繰り広げられたが、幼くして父を亡くしたチンギスは負け馬に他ならぬ。
それに附こうとする者ならば、自ずと様々に事情ありてとなるのは想像に難くない。
――それらの者たちを糾合して勃興を図る。
チンギス政権内で、他族であるボオルチュとムカリが、そもそも王族でも姻族でもないのに、政権内でナンバー2&3の重要な地位を与えられているのは、その結果といえる。
チンギスであれ李克用であれ、恐らくはどこの国いつの時でも見られる多くの者たちが陥る困難な状況から、あるいは雄飛をあるいは再起を志したのである。
参考文献(年代順)
・岡崎精郎訳『新唐書沙陀伝』(羽田明・佐藤長ほか訳注『騎馬民族史3』(ワイド版東洋文庫228)平凡社 2007年所収)
・森部 豊、石見 清裕『唐末沙陀「李克用墓誌」訳注・考察』2003
・愛新覚羅烏拉煕春『契丹文墓誌より見た遼史』松香堂 2006年
結局、可敦城には未だ至れずであるが、あまり閑話を続けても仕方ないので、ちょうどチンギスの話が出たとうこともあり、次話よりブハーラー戦に戻りたく想う。
閑話の方は、どこか切りのいいところで、続きを書くとしよう。




