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10:モンゴル進軍7:『サイラームまでもう少し』&『モンゴルの后妃とチンギス直属軍―史料のドロ沼編』

 フス・オルダを発し、タラスを経由し、更にその先のサイラームを目指して、モンゴル軍は進んでおった。

 チンギスはケシクテンを除いては、自らに近付くことを許しておらぬ。

 ゆえに挨拶に来る者も、その近しい将のみを連れてであり、護衛として伴って来た百人隊は近衛隊(ケシクテン)の外側に残した。

 その近衛隊(ケシクテン)の外側をチンギス直属の軍勢が囲んでおった。

 この部隊は百人隊長が率いておる。

 それゆえ史料には出て来ないが、いわば江戸幕府にての旗本・御家人の如くである。

(ここでは、千人隊長が大名に当たる。)

 更にその外側を二人の近侍の臣、ボオルチュとシギ・クトクの隊が囲んでおった。

 更にその外側を大中軍(イェケ・ゴル)の万人隊・千人隊が進軍しておった。

 4人の王子たちの軍勢は更にその外側を進んでおった。

 また通る地によっては、別経路を選択した。

 経路上の草を食べ尽くすを忌んだゆえであった。

 チンギスは、ほとんどの軍勢を伴っておった。

 大部隊としては、『金国との戦線を構えるムカリたちの隊』と『留守営を託した末弟のオッチギンの隊』を除いて。

 まずはホラズムに勝つことを優先したゆえであった。

 

 ムカリには金国との戦いについては、戦線が膠着しても良いから、無理な攻めは控えよとした。

 また改めて背反の意思を明確にした西夏の動きにも注意を払えとした。

 最悪は金国と西夏が手を結んで反撃に出ることであるが、そうなれば、モンゴル高原にしりぞき、オッチギンと共に戦線を組み直せとした。

 更に必要ならば、我が方に、つまり西方に引き退き、我の帰還を待てと命じておった。

 ホラズムを滅ぼした後、金国も西夏も滅ぼしてくれようとして。


 ところで、ここでモンゴルの后妃の制度 (オルド)と上記の直属の軍の説明をしたいと想います。

 実際のところ、この両者は密接につながっています。

 読者の皆様を『史料のドロ沼と落とし穴』にご招待しようという訳です。

 今回はドロ沼編です。


 1.ボルテ・ウジン。オンギラトの王女。正妻であり、ゆえに第1オルドの(あるじ)(他に7人の后妃がおる)。ジョチ、チャアダイ、オゴデイ、トゥルイの母。


 2.クラン・カトン。メルキトの王女。第2オルドの主(他に7人の后妃)。ラシードによれば、息子はキョルゲン一人。


 3.イェスイ・カトン。タタルの王女。第3オルドの主(他に9人の后妃)。


 4.イェスゲン・カトン。タタルの王女であり、イェスイ・カトンの妹。第4オルドの主(他に11人の后妃)。ラシードによれば、チャウルという息子を授かるが、幼くして亡くなったとする。


 上記の第1から第4のオルドの区分け及びその(あるじ)と属する后妃の名は、『元史』の后妃表が伝えるものです。

 そしてこのオルドの主である4人は、特別な存在と想われます。

 この4人の子のみにカンたりえる資格が与えられたのでしょう。

 またこの4人の娘の嫁ぎ先にのみ、駙馬(グレゲン)の特別待遇が与えられたのでしょう。

 (下記に記しましたが、ラシードによれば、側室の娘をただ一人のみ、4人の主の娘と同等に扱い、伝えています。ただし、これは例外と想われます。)

 またこれより、メルキトやタタルといった秘史が仇敵と伝える氏族こそ、血筋としては高く評価されていることが分かります。

 ところで、ラシードはこれを以下の如くに伝えます。

 第1オルドはボルテ。第2はクラン。第3はイェスゲン。第4はグンジュ。第5はイェスルン(=イェスイのこと)。

『元史』と大きく異なるのは、グンジュの存在です。

 いずれが正しいのか、気になるところです。

 そこで少し長くなりますが、ラシードの伝えるグンジュ・カトンの記事を訳してみましょう。(注1)

『彼女は金国皇帝(アルタン・カン)=華北の皇帝=の娘である。

 彼女は美しくなかったが、その父親がとても偉大な皇帝であったゆえに、彼女はとても重要な人物としての待遇を受け、また大きな敬意を払われたことは、良く知られたことである。

 チンギスとの間に子は無い。

 彼女はアリク・ブケの時代まで生き、その後に亡くなった。

 この者のオルドには、オルムグ(氏族名?)の少女がおり、ボウルチ(料理人)であり、名はフクタイ、大きな影響力を持ち、また大きな名声を得た。』

 これに当たる人物を漢籍に求めますと、

『金史』の宣宗本紀の貞祐2年(1214)3月のこととして

『衛紹王の公主(=王女)を大元(=モンゴル帝国)の太祖皇帝(=チンギス・カン)に奉り、これを公主皇后となす』

 元史の太祖本紀の9年(1214)3月のこととして

『金主(=金国皇帝の宣宗)は遂に使(者)を遣わして和を求め、衛紹王の女(=娘)の岐国公主を奉り、(黄)金・帛(=絹織物)・童男(童)女500・馬3000を以て献(上)した』

 (衛紹王とは先代の皇帝です。この者は皇帝にふさわしくないとされ、廟号を贈られなかったのです。)

 特に『金史』の記事はまさに大当たりです。

 これより、グンジュとは公主の音写と分かります。

 モンゴルでのこの者の正しい称号は「公主・カトン」との二重称号であったのです。

(付記しますと、『金史』は元朝による作成、『元史』は明朝による作成です。

 つまり『金史』にあるモンゴル関連の記事は、同一王朝による史料となり、その分、信頼性は高いと言えます。

 また通常、「皇后」は正妻であり一人なのですが、ここは「カトン」の訳語として用いているだけです。)

 また『秘史』11巻247節は同じ記事を伝えるところで、公主を(称号ではなく)名前としますが、異国の称号を名前と勘違いすることはしばしばあることです。(注2)

 この者はチンギスの中都攻囲の時、休戦実現のため、チンギスへと嫁いだのです。

 ただこれのみでは、この者がオルドの(あるじ)であったかどうか、分かりません。

 そこで、現在の八白宮の祭神を見てみます。(注3)

 これはチンギスを主神とします。全部で8宮あるのですが、人物を祭るのは3宮のみ。

 その詳細は、

 1宮:チンギスとボルテ。

 2宮:クラン。

 3宮:イェスイとイェスゲン。

 ここでは姉妹であるイェスイとイェスゲンが合祭されており、モンゴル人の人情がうかがわれると共に、オルドの制度をかたくなに守る訳ではないことが分かります。

 肝心かなめの金国公主ですが、その名はありません。

 とすれば、ラシードの誤りとの結論を得られそうです。

 ただラシードがなぜ誤ったのかとの合理的な説明は難しい。

 ラシードは後代のイル・カン国の人間であり、本人が直接知り得るはずもなく、この記事は伝えられておるモンゴル史料をそのまま引き写したと想われます。

(無論、モンゴル語からペルシア語に訳す必要はあります。)

 またイル・カン国には、女真人(旧金国人)の有力者もおらず、あえてこれを偽作する政治的動機も見当たりません。

 末尾の女官フクタイの部分などは、これが引き写しであり、また偽作でないことの傍証といえるのではないでしょうか。

 ここは、引き写しでなければ、削除されても良い部分ですし、また偽作するなら、あえて書くことはない部分と言えます。

 結局、この2書を両立させようとするならば、

「公主・カトンはオルドの主ではなくとも、何らかの特別な待遇をあたえられておったのだろう」

 といったところにでも落ち着くことになりましょうか。


 ところが、ラシードの少し後に伝える別の記事(1種の家系図)を見ると、そう考えることは難しくなります。(注4)

 ラシードはチンギスの王子と王女をその名と共に伝えます。

 そこにチャウル、ジュルチェタイ、オルチャカンの名があり、この3人の息子はいずれも幼くして亡くなったとします。

 このうちのジュルチェタイとの名が重要です。

「氏族名(または部族名)+タイ」は「その氏族(または部族)の血を引く者」を意味します。

 ジュルチェとはジュルチェン、つまり女真人(旧金国人)のことです。

 つまり、このジュルチェタイとは、まぎれもなく公主・カトンの子なのです。

 ところで、上述の公主・カトンの記事をおぼえておられる方は次のように言うかもしれません。

 そこには『チンギスとの間に子は無い』とあり、その記事と矛盾していると。

 ならば、いずれかが間違いであろうと。

 しかし全く逆なのです。

 この二つの記事、つまり最初に訳した公主・カトンの記事と次に述べた家系図が矛盾するということは、この二つが各々別のモンゴル史料に基づくことを示しています。

 一つの史料をラシードが、二つに書き分けたのではないのです。

 二つのモンゴル史料があり、一つは公主・カトンの存在を伝え、一つは旧金国人の后妃から生まれた王子の存在を伝える。

 この家系図が伝えるチンギスの息子は、ボルテの4子、クランの1子、幼くして亡くなった3人の計7人です。

(その三人中の一人がイェスゲンの1子 (チャウル)、一人がジュルチェタイです。)

 王女は全部で6人で、そのうちの一人はわざわざ側室の娘と記してあります。

 この内容と数の少なさからして、これがオルドの主の王子・王女に限って伝えておることを疑う必要は無いでしょう(側室の娘一人を除く)。

 となれば、ジュルチェタイの母もまたオルドの主と言えましょう。

 家系図は、その他にキョルゲンの子孫のみ伝えます。

 恐らくキョルゲン家が伝えるものなのでしょう。


 また公主・カトンの記事に『チンギスとの間に子は無い』と伝わることについては、それほど問題にはならないでしょう。

 幼くして亡くなった王子の存在は、どうしても記録から漏れやすいと想われます。

 二つの別のモンゴル史料に基づくとなると、さすがにここは、ラシードの伝えるところが正しいと想われます。


 ところで、長春がチンギスに呼ばれてその下に赴く途上でのモンゴル高原にてのこと。オルドに至り、この公主・カトンと西夏の王女の二人から防寒具を授かっています。(注5)

 西夏の王女は名をチャカといいます。

 この者もチンギスによる西夏攻めに際し、休戦のためチンギスに嫁いだ人物です。

 公主・カトンがオルドの主とすれば、チャカはそのオルドに属しておったのでしょう。

 また長春の西遊記は『ここには数千数百の車と天幕が連なっていた』とします。(注5)

 この数から考えますと、各オルドの主は別々におったのではなく、一緒におったと考えられます。

(当然、西征に同行したクランの第2オルドを除いて。)

 また、少し進んだところ、鎭海城の近くで長春は「公主・カトンの母親」と「(先々代の)金国皇帝の章宗の二妃」に迎えられます。(注5)

 この二妃も公主・カトンと共にチンギスに嫁がされたのでしょう。

 それゆえ、この二妃も公主・カトンのオルドに属しておったと想われます。

 

 それでは、どうして公主・カトンを元史が伝えず、更には八白宮の祭神から外されたのか、という疑問に突き当たります。

 そこで気になるのが、この者の伝にあるアリク・ブケの名です。

 アリク・ブケは正妻ボルテの末子トゥルイの子であり、言ってはなんですが、公主・カトンとは何の関わりもありません。

 またラシードにおいては、アリク・ブケはあくまで反乱者として扱われます。

 つまり単に死期を示すだけなら、他の名の方が望ましいのです。

 そこで次の如く想像してしまいます。

 ここの部分は彼女の死の原因がアリク・ブケにあることをほのめかしているのではないかと。

 とすれば、彼女はクビライとアリク・ブケの争いに際し、アリク・ブケ側につき、そのために処刑されたのではないかと。

 そこまで行かなくても、かなり厳しい立場に追いやられたのかもしれません。

 アリク・ブケの諸将は処刑されます。

 アリク・ブケ自身はクビライによる度重なる審問の後、不自然な若死にをしています。


(余談です。

 モンゴルの慣習法(ヨスン)に従えば、反乱者は明らかにクビライ(元朝建国者)とフレグ(イル・カン国建国者)と、私には想えます。

 ただイル・カン国の宰相にして歴史家のラシードがそう記すはずもない。

 まさに勝てば官軍という奴です。)


 ところで、皆さん。

 オルドの主以外の后妃の息子たちがどうなったか気になりませんか?

 ラシードによれば、『チンギスの后妃は500人近くであり、その各々を異なる部族よりめとった』とあります。(注6)

 誇張もありましょうが、息子はたくさんおったはずです。

 かなり長くなりました。

 この続きは次話の『史料の落とし穴』編にて述べさせていただきたいと想います。


 注1 ラシード『集史』のThackston英訳書 106貢 (詳細は参考文献に記しています)


 注2 秘史の訳書の詳細は参考文献に記しています。


 注3 楊海英『チンギス・ハーン祭祀』風響社 2004年 54貢


 注4 ラシード前掲書 107貢 


 注5 岩村忍訳『長春眞人西遊記』筑摩書房 1948年 53貢~55貢

  

 注6 ラシード前掲書 104貢 


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